Dグレ | ナノ


鳥籠の鳥が目を覚ます
優しい唄に 手を伸ばす






「――and all the king's men. Couldn't put...」

小春空の下、鼻歌を交えつつ軽やかに紡がれる童歌。
両手で持った箒で鮮やかな秋の色に染まった落ち葉を集めながら、ナマエはとても上機嫌だ。
その理由は彼女のエプロンのポケットに入っている一通の手紙にある。

(アレン、元気そうでよかった)

今朝方ナマエ宛に届いたその手紙の差出人は弟で、子供らしく少し歪な文字で綴られていたのはまず姉のナマエを気遣う言葉に、彼の近況報告。
パン屋の手伝いをさせてもらえることになったこと、教会学校に通っていること。
毎日お腹いっぱいご飯が食べられるようになったこと。

まだ幼いアレンを一人にしてしまうことに不安は尽きなかったが、もともとしっかりした子だ。
ナマエを心配させないようにと多少おおげさに書いているのかもしれないけれど
それでもやはり、『元気でやっている』の一言にナマエの心は随分と救われる。


『ナマエ……アレンを、頼みましたよ』


「――……」

胸に甦った今際の養父の言葉に、歌うのをやめてふと空を見上げた。

ベビーブルーの優しい青空。
きっと、養父のいる場所。

(……義父さん、私ちゃんと、約束守ってるよ)

本当は傍にいてやれるのが一番いいのだろうけど、なかなかそういうわけにもいかないから。
これが今の最大限――それでも叶っていると信じている。

一番守りたくて、守らなければいけないものは、カタチを失わずにいてくれる。
愛しいばかりのやわらかさで、穏やかさで。
ささやかと言うには大きすぎる、静穏な幸いだ。

(あ、)

視界の端、不意に青空に溶け込まない白い影を見つけた。

朝日を待つ花の蕾のように膨れた半月。
珍しく、昼間に月が昇っている。

(……そう言えば、月が綺麗な夜はよく三人で歌ったなぁ)


「――Hey diddle diddle」


懐かしさに零れる微笑みを湛え、自然と思い出すことのできるメロディーを歌声で追いかける。
もちろん、箒を持つ手も忘れず働かせて。

ありえないことばかりの奇妙な歌詞。
だけどナマエもアレンもこの不思議な童謡が気に入りで
どうしてどうして、と一時期熱心に養父にその意味を訊ねては困らせたものだ。

「...such fun, and the dish ran away with the spoon.」

「なんだその気味悪ィ歌は」
「っ?!!ユウ様!」

歌い終わると同時に突然背後から主人に声をかけられ、ナマエは息を呑みながら振り向く。

屋敷の煉瓦の壁に背を預け、例の如く観察するようにナマエを眺めている神田。
いつからそこに居たのだろうか、全く気付けなかった。
驚いているナマエを他所に神田の目は質問に対するナマエからの返答を待っている。

「え、っと……ナーサリーライムの一つ、なんですけど…」
「ナーサリーライム?」
「子供が歌うあの……童謡とか、子守唄…とか」

聞いたことないですか?と、おずおず訊ねれば首を横に振る「No」の応え。
先程ナマエが歌ったものは人気も知名度も特に高いものなのだが、

(――!)

彼は この国の生まれではなかった。

唐突にその事実を思い出し、ナマエはなぜか焦った。
確か神田がこの国へ来たのは彼が九つの時だったと聞く。
丁度ナマエと出会ったばかりのアレンがそのくらいの年齢だったはずだ。
まだあどけない、幼い年頃。
そんな神田に歌を歌ってやる人は一人もいなかったのだろうか。

「どうした」
「っ、え?あ……っいえ、!」

急に黙り込んだナマエを訝しげに見つめる黒い瞳。
おそらく彼はナマエが彼の過去についてナタリーから聞かされていることを知らない。
胸に滲み出た感情を誤魔化すように何でもないと片手を横に振り、ナマエは殊更に明るく、笑顔を努めて話を続けた。

「さっきの歌はあんな歌詞ですから、暗号じゃないかとかよく言われてるみたいですけど、多分そんな深い意味なんてないんですよ。私も全然知らないですし……」
「………あの時のは?」
「え?」
「お前があの時歌った子守唄も、ナーサリーライムなのか?」
「……!」

”あの時” ”子守唄”。

それが何を指しているのか理解し、ナマエの頬が熱を持つ。

”あの時”は、公園で初めて神田と出会った時。
”子守唄”は、その時ナマエが歌っていたあの唄。
近くに誰もいないと思い込んで、思い切り歌ってしまった自分を思い出すと今でも堪らなく恥かしい。

「あ、れは…っ、あれはですね、そうじゃ、なくて……」
「?」
「………多分、父が作ったものです」
「父親がいたのか?」

神田が意外そうに、少しばかり目を大きくしてナマエを見た。
当然と言えば当然だろう。
あんな格好で一人花売りなんてものをしていたナマエは誰がどう見ても浮浪児だ。
親がいるとは考えがたい。

そう言えば、自分は密かに彼のことを知っているというのに彼には自分自身のことを殆ど何も伝えていなかった。
そのことに気がつきナマエから微苦笑が零れる。

「父と言っても養父で……二月ほど前、流行り病で亡くなってしまったんです」
「――……」

二人の間を冬の香りの混じった風が緩く吹く。
流れる神田の黒髪を目で追い、そのまま僅かに俯いたナマエは意識して唇に微笑みの形を刻ませた。主人に気を遣わせるような使用人は、使用人失格だ。

「でも、私にはまだ小さな弟がいますし、案外平気なんですよ。あ、弟って言っても私もその子も拾われた子供だから、血の繋がりはないんですけど……」

(――!!)

顔を上げて ドキリとした。

相変わらず無言の神田だが、その瞳はしっかりとナマエを捉えて、底のない漆黒に全てを見透かされてしまいそうな錯覚に陥る。
思わず手に持った箒の柄を強く握り締め、ナマエは逃れるように、急いで続けた。

「ぁ――アレンって、言って、まだ12なんです。可愛いんですよ、すごく!それで…っ、あの……アレンは、父が亡くなってから、ほんとに抜け殻みたいになっちゃった時もあったけど、でも最近はちょっとずつ元気が出てきたみたいで…今日も、手紙が届いて、」
「……」
「元気にやってるみたいで、すごく安心したんです……でも…だけど、きっと………一人きりの時はたくさん泣いてたんだと思います――あの子は、父が大好きでしたから」

二人きりなってから過ごしたいくつもの夜。
アレンは何度布団の中で声を殺して泣いていただろう。
朝の光の中、漸く眠りに落ちた彼の白い頬には幾筋もの涙の跡が伝っていた。

その姿を思い出しナマエはまた苦い笑みを浮かべることしかできない。
鋭い瞳を軽く伏せ、音も立てず壁から背を離した神田の足元で枯葉が乾いた音を立てた。

「――お前は?」
「……ぇ、?」


「お前はもう、父親の死を受け入れたのか?」


心臓が、胸を強く叩いた。
再びナマエを見据える瞳に、息が詰まる。

「っ…わ、たしは……そうですね、わりと、早く……私、これでもお姉さんですから、いつまでも落ち込んでるわけには、」

――約束だから。

『アレンを、頼みましたよ』

――大好きな養父と交わした、最後の大切な約束だから。

(だから私は、くよくよしないって……っアレンは、私が守らなきゃって、)

――ずっと そう自分に言い聞かせて。


「お前だって、泣きたかったんだろうが」


「っ――!!」

――もう乗り越えたと思っていたのに。

ナマエだって一度も泣かずにいられたわけではない。
ただ、壊れてしまったように涙を流し続けるアレンを見ているうちに自然と泣けなくなっただけ。
幼い弟を抱きしめて、その涙を拭ってやれるのは自分だけだったから。
自分までボロボロになってしまったら、生きていくことはできなかったから。

なのに今更 泣きそうだ。

「すみ、ませ…っ!」

何に対しての謝罪なのか自分でもわからないままナマエは咄嗟に神田へ背を向ける。
鼻の奥がツンと痛んで、瞳に熱いものが込み上げてくるのがわかったから。

「おい、こっち向け」
「だっ…ダメ!!ダメ、です!今私、あのっ…す、すごく、情けない顔、してるから……!」
「んなこと知るか」
「やっ!ダメです、ってば……!見、ない、でくださ…っ」

迷いの無い足音が近づいてきて、焦れば焦るほど目の前が歪んでいく。

今振り向いて彼の顔を見てしまえば耐えているものが決壊する。
誤魔化すことなんてできない。
そう思ってぎゅっと目を閉じた瞬間、箒が掌を離れた。


「――これなら見えない」

背後から手首を強く掴んだ手に引き寄せられ、半回転したナマエの身体が包まれる。
滲んだ視界にどうにか捉えたのは、白いシャツとタイの色。
背に回ったのは、神田の腕だ。

「っ…ぁ……!!」

あたたかい腕の中。
落ち葉の山に箒が倒れた音を意識の片隅で聞き、神田の掌が慣れない様子で後ろ頭を撫でたのを感じてしまえば、溢れ出てくるものをそれ以上抑える術なんてない。

「ぁ、くっ…う、ぁ、あ……っ!」

喉を震わせ、次々と零れていく涙も拭えないまま、ナマエは目の前の胸にしがみ付いた。
そんな彼女を受け止め、包み込むように神田の腕が一層強くナマエを抱く。

胸に伝わる彼の体温が懐かしさと恋しさを呼び覚ました。

(義父さんっ…義父さん……!!)

逝かないでほしかった。
ずっと傍にいてほしかった。

大好きだった もういない、あの人。

――その悲しみを ”もう乗り越えた”なんて きっと嘘で。

本当は受け止めきれず、自分でも気がつかないうちに、無意識に、無自覚に。
悲しみを、悲しいまま、胸の奥で凍りつかせていたのだ。

いつか、それを溶かして、あたためてくれる人が現れるまで。

(ごめんなさい、ユウ様……ごめんなさい)

心の中で繰り返し謝りながら、それでもナマエは彼のぬくもりに縋らずにはいられなかった。
彼が溶かした悲しみを、もう少しだけあたためていてもらいたかった。



(13.06.06 修正)