「お客様?」 「ええ、お昼過ぎにはお見えになるらしいから若旦那様にそう伝えておいて」 「わかりました。えっと……そのお客様って言うのは、」
朝の光を眩しく照り返す真っ白なテーブルクロスをふわりとテーブルに覆い被せ、きっちり左右対称になるように調整しつつ、ナタリーがふふっと悪戯っぽい笑顔を浮かべる。 ナマエにはその理由がわからなかったけれど、彼女のこの笑みはその客人を前にした神田の顔を想像してのものだった。
「ラビ様。若旦那様のご友人よ」
(ユウ様のご友人、かぁ……)
厨房で食器洗いの手伝いをしながらナマエはぼんやりと今朝のことを思い返した。
『ラビ』が来ると告げた時の、神田のあの顔。 整った眉をこれでもかと歪ませ、おまけに小さく舌打ちまでして、表情を探るまでもなく思い切り面倒くさがっているのが見て取れた。 ――ただ、不思議とそこに嫌悪の類は感じられなかったのだけれど。
(すっごく仲良し、ってわけじゃないのかな?)
どう頑張っても喜んでいるようには見えなかったし、と少々勘繰ってみる。 本来使用人が主人の交友関係などをあれこれと勘繰るべきではないだろうけれど、なにせナマエがここに来てから初めての客人なのだ。 どうしたって好奇心が頭をもたげる。
(『ラビ様』……どんな人なんだろう)
あの神田の友人、と言うことは、どこかしら彼と似通った面がある人物なのだろうか。
「……――」
冷たい夜色の瞳と高慢に鼻を鳴らす彼の姿を思い浮かべ、ナマエは思わず遠い目をしてしまった。
神田が二人と想像すると、こう言っては何だが正直かなり厄介だ。 本物一人でも未だにナマエは知らず知らずに不興を買ってしまうと言うのに、それがもう一人増えるとなると考えるだけで気が重いにも程がある。 そうして勝手な想像をして勝手にどんよりしていると、不意に背後からナマエを呼ぶ声。
「ナマエ、お客様がいらっしゃったから、若旦那様を客室にお連れして」 「ぅ……は…い」 「?」
珍しく妙に沈んだその返事にステラは不思議そうに瞳を瞬かせた。
* * *
「よ、久しぶり!元気してたか?」 「うるせェバカ兎、毎度毎度芸の無いことを訊くな」 「うわ、冷てぇなー。てか来るってちゃんと連絡寄越したんだから出迎えくらいしてくれよ」 「文句あんなら帰れ」
(――……あれ?)
給仕のため神田に続いて客室に入ったナマエは目の前の光景に瞳を瞬かせた。
ソファに座っていたその青年は燃えるような鮮やかな赤髪を持ち、眼帯に隠れていない垂れ気味な翡翠の瞳も、いかにも人当たりがよさそうな明朗な笑顔も、彼が醸し出す和やかな雰囲気もおよそ全てが神田とは正反対だ。 ここに来るまでにナマエが作り上げていた神田そっくりのラビ像が実に呆気なく崩れていく。
(この人が、ラビ様……?)
「……ん?初めて見る顔さね。新人サン?」
ついじっと見つめてしまったナマエの視線に気付き、神田の向こうにいる彼女へラビがにこりと笑顔を向けた。その砕けた口調と気軽さにまた驚いてしまい、ナマエの背筋が思わず伸びる。
神田も少なからず上流階級の人間の型から外れているように思えるけれど、彼もまた違った意味で範疇外ではないだろうか。 ナマエは彼ら以外の上流階級出身者との接触を持ったことなどないが、漠然とそう感じる。 冷徹な瞳を携えた仮面のような愛想笑いと、その芯に根付いた傲慢と厳格さ。 貴族という人種はそんなもので出来ているものだとばかり思っていたのに。
「っ、初めまして、ラビ様!半月前からここで働かせてもらってるナマエ・ウォーカーですっ」
内心動揺しながら、焦って言葉を全て言い切らないうちに大きく頭を下げる。 そんな彼女の耳に届いたのはククッと喉を鳴らす悪びれない忍び笑い。 もちろん神田のものではない、発信源はラビだ。
「ハジメマシテ、ナマエ。俺はユウの遠ーい親戚な。んで、緊張しなくていいから肩の力抜いて」
(――あ、れ?)
今、彼のことを、
「あ…りがとう、ございます」
恐る恐ると言った体で顔を上げるともう一度あの笑顔に迎えられる。
ラビの正面に座った神田をそっと視線だけで窺うけれど相変わらず面倒くさそうな顔をしたまま、それ以上は特に何か気に障った風もなく、気だるげに頬杖をついているだけ。 そんな彼の様子にナマエの胸の奥がチクリと痛んだ。
(ぁ…な、に…これ、?)
どうしてだろう。 少し、呼吸が苦しい。
「珍しいじゃん、ユウが新人雇うなんて」 「俺の勝手だ」
親しげな雰囲気。 態度はいつものようにつっけんどんであるけれど、やはり神田は嫌がっていないどころか、むしろ彼に対してかなり打ち解けているようだ。
(この人にも、名前で呼ばせてるんだ……)
自分以外に 彼を特別な名前で呼ぶ人がいた。 ただそれだけのことなのに、 ――いや、むしろそれは彼にとってきっと良いことであるはずなのに。
どうして、こんなにも受け入れ難いのだろう。
「――で?ナマエは何でココに来ることになったんさ?」 「っ、はいッ?」
暗く重い胸の内に沈みかけていたところ、急に話題を振られたナマエは弾かれたように肩を跳ねさせた。
自分の思考に没頭していたナマエはなぜ自分が話題の中心になっているのか理解できず、咄嗟に助けを求めて神田を見るけれど、返されたの彼女の驚きように対する呆れた風な溜息一つ。 その代わりではないが笑顔のラビがもう一度言葉を改めて問いかけてくる。
「ユウとの馴れ初め、聴かせてほしいさ」 「!!な、っなれ……!?」 「――オイ、ラビ」
カッと音がしそうなほど瞬時に顔を赤くして慌てたナマエに反して神田の声は低く冷たい。 ナマエの方はその凄みに当てられひっと小さく息を飲んだのだが、肝心のラビはと言うと既に免疫があるのか大して気にした風もなく、むしろ更に面白がるように頭の後ろで腕を組んで悪戯っぽく目を細める。
「だぁってそうだろ?好き嫌い超激しくて、使用人辞めさせこそすれ新しく雇うなんてお前絶対しなかったじゃん――ってことは、」 「ちが、っ…違います!!」
ラビの言葉に神田が何と答えるのか。 それを聞いてしまうのがどうしてだか怖くて、ナマエは咄嗟に声を張ってラビを遮っていた。 しかし自分で予想していた以上に大声になってしまい、一瞬シンと静まり返った室内で彼女はまた赤面しつつ、慌てて「すみません」と頭を下げる。
「あのっ…でも、本当にそうじゃなくて……若旦那様は花売りをしていた私がお金に困ってるのを見かねて…それで雇ってくださっただけ、なんです」 「………ふーん?『困ってるのを見かねて』、ねぇ、」
ナマエの大声に一度瞳を丸くしたものの、ラビは意味深に彼女の言葉を繰り返し、意地の悪い視線を神田へ寄越してニヤニヤと口の端を上げた。 そんな彼を神田は一見綺麗に黙殺し、「喉が渇いた」とナマエに紅茶を淹れるよう促す。 が、「はい」とまだ僅かに上ずった声で返事をしてポットを手に取るナマエが二人から視線を逸らしたその時になって、黒曜石の瞳は鋭くラビを睨みつける。
『余計なことを言うな』
切先のような眼光に込められたメッセージを正確に汲み取り、改めて微かに瞠目したラビが食えない笑みを浮かべた。 聡く何かを理解した瞳がまた細まりその先を神田からナマエへ移す。 視界の端で神田が眉を顰めたのを捉えつつ、ラビは殊更に軽薄な調子で彼女へ声をかけた。
「――まぁ、ユウの気持ちもわからなくはないさ」 「え?」
「ナマエみたいにカワイイ子見かけたら、俺だって絶対放っておけない」
一転して、オクターブ下がった声は甘い響き。 口元に描かれたのは先ほどとは違う緩いカーブ。
まっすぐにナマエを見つめる蠱惑的な眼差しの奥にある翡翠玉に、思わず彼の言葉の内容を忘れて魅入ってしまう。
「……案外、ユウも一目惚れだったりして」
薄く笑ったラビの口からその言葉が出た、瞬間、
「――もう良い。下がれ、ナマエ」
静観に徹していた神田が遂に沈黙を破った。
その静かでありながら苛立った声にナマエは漸く我に返り、慌ててラビから引き剥がした視線を神田に向ける。 けれど殺気さえ感じさせる凍てついた彼の瞳はラビを捕らえたまま逸らされることはない。
「ぁ、の…でも、」 「『下がれ』、と言ったんだ」
給仕の仕事のため思わず食い下がろうとしたナマエに返されたのは突き放すような言葉。
「ッ!!」
彼が自分を見ない分、言葉の冷たさだけが鋭利な棘になってナマエの胸に刺さる。 そこにズキリとした痛みを感じると同時に瞳に何か熱いものが込み上げて、それを隠すため、どうにか「ごめんなさい」とだけ言って頭を下げたナマエは逃げるように踵を返して足早に扉へ向かった。
* * *
結局その後、ナマエは部屋を追い出されてしまったことをナタリーに告げ、自分は庭の手入れを手伝うことにして客室には近づかなかった。 西の空が橙色に染まりだした頃、ラビが屋敷を出て行くのを見かけた際も遠目に彼が手を振ってくれたのが見えたから庭の片隅から会釈を返しただけ。 どうしても自分から進んで彼の近くへ寄る気にはなれなかった。
(ユウ様、怒ってた……よね)
あんなに冷たい彼の声を聴いたのは初めてで、思い出せば今も心臓が重くなる。 それに、
(……ユウ様の、お名前のことも)
モヤモヤと胸の底に沈んで漂う息苦しい感情。
一体この正体は何なのだろうと考えてみてもナマエの中にこんな前例は無く、答えは出ない。 そうこうしている内に彼女の身体は見慣れた扉の前に着いていて、ナマエは自分を落ち着けるために小さく息を吸い、ゆっくりと長く吐き出してからそれを軽くノックした。
「――若旦那様、灯りをお持ちしました」
入れ、と言う返事を受け、ヒヤリとするドアノブを握り室内に入る。
薄い藍色が落ちた広い部屋の中で神田はナマエがこの屋敷に来た時と同じようにアーチ形の窓枠に腰掛け、遠い街の小さな屋根の群れの向こうへ沈み行く夕日をただ静かに見つめていた。
「寒く、ありませんか?」
冷たい秋の風が頬を撫でて、気付けばそう訊ねていた。
瞬き一つの後、神田の瞳がナマエを捉え、彼女の持っていた燭台の小さな灯りがその中でチラチラと揺れる。 ナマエがその不思議な輝きに目を奪われている間に彼は「別に」と至極そっけなく応えた。 しかしそこで視線が逸らされることはなく、神田は尚もナマエを見つめる。 何か言いたいことがあるのだろうかと黙して待ってると、彼の口からまず零れたのは溜息だった。
「――アイツの言ったことは気にするな。忘れろ」 「……?」
アイツ、とはおそらくラビのことだろう。 それくらいならナマエにもわかったけれど、”言ったこと”がどれを指すのかまではわからない。
「あ、ラビ様のお世辞のことですか?」 「……」
ラビの言葉を順に回想してやっと答を探し当てたと思ったのに、神田の呆れたような顔。 それどころか小さく「アホ」と罵られ流石にナマエも少々頭にくるものがあった。
大体にして彼は言葉が少ないのだ。 慣れてきたとは言え、そこから全て理解しろと言うのは無理な話。 わかれと思うならきちんと言ってくれれば良いのに。
(そうすれば、私だって……)
きっと、もっと彼を理解できるのに。 近づけるのに。
彼を『ユウ』と呼ぶ、あの人のように。
「ッ……」
(――違、う)
神田とラビ。 二人の姿を思い出し、ナマエは自分の胸がまた痛んだのを感じた。
ラビの前でも、彼は同じように言葉が少なかった。 それでも伝わっていたのだ、ラビには。 ナマエにはわからない神田の内心を、彼はしっかりと理解しているようだった。
(なに、これ……また…っ)
息苦しい。 頭がグラグラする。 身体の奥がずしりと重い。
そして再び――瞳が熱い。
わけのわからない衝動に駆られ、それに捕らわれてしまう前にとナマエは急いで燭台をテーブルに置いた。 早くココから、彼の前から立ち去らなければと気持ちが急く。 でないと自分はとんでもない失態を犯してしまいそうな、そんな不安があった。
なのに、そんな時に限って神田は目敏い。
「――待て」
彼に背を向けようとしたところを呼び止められ、ナマエの身体が強張る。
極力彼と目を合わせないように俯きがちに振り向くけれど、それでも鋭い視線が自分に向けられているのがヒシヒシと伝わり、息が詰まる。 喉が震えてしまいそうで「何ですか」と小さな声で訊ねると、カツンと石張りの床を靴の底が蹴り、窓枠から降りた彼が近づいてくるのがわかった。
「……何か言いたげな顔してやがるな」 「っ、そんな、こと……」
目の前に来た神田の目を避けて咄嗟に顔を背ける。 けれど、頬を包んだ体温の低い掌がそれを赦さなかった。
引き寄せられ、もう一度繋がった眼差しは痛いほどに真剣な色。
「嘘も隠し事も、俺はお前に赦さない」
” お前 だけは ”
懇願にも聴こえる消え入りそうな声で囁いた、刹那 彼の瞳が揺れたように見えたのは見間違いだったか。
――とにかく何か言わなくては。 胸の内を、全て素直に、彼に打ち明けなくてはいけない気がして、ナマエは焦りながらも必死に胸にある言葉を一つずつ紡いだ。
「ラビ、様と…すごく、仲が良いんだなって、思って……」
今更ながら神田との距離と、彼に触れられていることが恥かしくなり、瞳をあちこちに泳がせながらしどろもどろに続けるナマエを、彼は無言で更に促す。
「それで、っ……え、と…ラビ様、は…ユウ様のこと、すごく、わかってる……みたいで、」
自分でも整理のついてない気持ちを口に出すのは中々に難しく、言葉にしながらナマエ自身探っている感覚に近い。 答えは、核心は、 まず何が自分の心に引っ掛かったのか。 それを考えた時、ナマエは胸にかかる霧の向こうに出口を垣間見た気がした。
「名前、を……ユウ様の、名前を呼んでた、から…だから……」
そうだ。 自分だけが呼べるものだと、勝手にそう思っていた彼の特別な名前を、ラビがあまりにも簡単に呼んだから。
だから、
「さ……寂しく、て…」
まるで我侭な子供の独占欲だ。
言ったのとほぼ同時に恥かしさと後悔で居たたまれない気持ちになったナマエであるのに、肝心の神田は「寂しい?」と鸚鵡返しに訊ねて彼女に更に説明を求める。 これは一種の苛めではないだろうかと恨めしく思いつつも彼の瞳と掌から逃げることは叶わず、ナマエは半ば捨て鉢になって早口に続けた。
「だって、名前で呼べるのはそのっ…私だけだって、思ってたんです、か、勝手に、ですけど!」 「……」 「以上!以上ですっ!!も、やだ…〜〜っ恥かし、ぃ」
いっそ可哀相なほどに顔を赤くして、最後の方は涙混じりになその声に、観察するようにナマエを見つめていた神田がやがてふっと鼻で息を付く。 頬を包んでいた掌が離れ、今度は俯くナマエの頭の上に降り、柔らかい髪をくしゃりと撫ぜた。
「――可愛いとこあんじゃねェか」 「っ、ぅ、え……?」
俄かには信じられない台詞を聞いた気がして、窺うように顔を上げると、漆黒の瞳は綺麗に細められ 口元にはあの柔らかな微笑。 それを認めた瞬間、心臓がますます落ち着きをなくす。
「アイツは勝手に調べて勝手にそう呼んでるだけだ。俺が呼べと言ったわけじゃねェ」 「そ、ぅ……なんです、か」 「ああ。俺が名前を教えて、名前で呼べと言ったのはお前一人だけだ」
「――安心したか?」
片頬で微笑う彼のその表情はナマエをからかっているように酷く尊大で、意地悪なのに、鋭い型の瞳だけはそれに反して穏やかに優しかったから。 ナマエはただ更に頬を染め、ぎこちなく頷くことしかできない。
(不思議だ、なぁ……)
お世辞や社交辞令の褒め言葉だとわかってはいるけれど、ラビに言われた時よりも、神田に「可愛い」と言われた時の方が、ずっと――ずっと嬉しかった。
離れていった彼の掌を視線だけで追いかけ、火照る頬を持て余しながら、新たに生まれた疑問にナマエは小さく首を捻るのだった。
(13.06.05)
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