籠鳥は夢を見る
鳴くことをやめた籠鳥を包み込んだ優しい唄に胸焦がし 冷たい鳥籠の中で いつまでも同じ夢を見る
「――失礼します」
ノックに続け、ナマエはまだ夜の名残が薄い闇を残す室内へ入った。
「おはようございます、若旦那様」 「……あぁ」
ベッドの端に座る人影にからは簡素な返事。至っていつも通りの朝だ。 こうして決められた時刻にナマエが神田を起しに来る頃には彼はもう目を覚まして大抵着替え終えている。 従ってナマエの仕事と言えばカーテンを開けこの部屋に朝日を取り込むことと、彼にモーニングティーと新聞を渡すこと。 ――そしてもう一つ。
「今日はどのようになさいますか?」 「下で一つに纏めろ」 「はい」
彼の長い髪に櫛を通し、それを結うこと。 ナマエはこの仕事が特に気に入っていた。
(本当に、長くてまっすぐで綺麗な髪……)
癖毛で絡まりやすい髪質のナマエにしてみれば彼の髪は理想そのものだ。
シルクの様に艶やかに輝き、サラサラと指先を零れる手触り。 瞳と同じく、何にも染まらない夜の色。 全てが完成された美しさでナマエを魅了し、思わずほぅと溜息が零れる。
その僅かな息遣いを聞きつけ、新聞に目を通していた神田が「何だ」と軽く振り向いたので、彼女は少しドキリとしながら慌てて笑顔で取り繕った。
「いえっ、あの……綺麗な髪だなって思ったら、羨ましくなっちゃって」 「……羨ましい?」 「はい。だって私のはこんなですし」 「――……」
(ぁ、)
自分の髪を指さして苦笑したナマエに神田の顔が怪訝そうに顰められ、彼女は内心「やってしまった」と冷や汗を掻いた。
この屋敷に来て、今日で一週間。 仕事も覚え、この広い屋敷のことも大分わかってきたのだが、気難しい雇い主の感情のツボがどこにあるのかは相変わらず把握できていない。
機嫌が良いのかと思いきや、唐突に意地悪なことを言われる時もあるし、かと思うと機嫌が悪かったのに、ふとした瞬間あの穏やかな微笑を浮かべていたりする。 ……とは言っても、後者はかなり稀なことではあるのだけれど。
とにかく、理由はわからないがナマエはまた彼の機嫌を損ねてしまったらしい。
何がいけなかったのか自分の言動を振り返ってみても特に思い当たる節はない。 櫛を入れ終えた髪を青い髪留め様のリボンで纏めつつ、もしや自分などが彼の髪を羨ましいなどと言ったことが気に障ったのだろうかと遂には自虐的な考えにまで及んだ時、彼がポツリと何か呟いた。
「…ぇ、あ…!今何て仰ったんですか?」 「………俺の髪なんか羨ましがる必要はねェだろっつったんだ」 「?、どうしてですか?」 「……わからないならそれで良い」
フンと鼻を鳴らした神田がそれ以上の会話を避けるように再び新聞へ視線を落とす。 ナマエには彼の後ろ姿しか見えなかったけれど、聴こえた声の柔らかさで彼が怒っているわけではないのだということだけは感じ取ることができた。
知り合って日も浅く、おまけに言葉足らずな彼の真意を汲み取ることはまだまだ難しい。 黙々と文字の羅列を追い、カサッと乾いた音を立ててページを捲るその姿に道のりは遠そうだと小さく肩を竦め、それでもナマエは自然と微笑んでいた。
最後の仕上げにもう一度撫でた彼の黒髪が、朝日を浴びて少し暖かくなっていたから。
* * *
「ナマエ、こっち」 「はーい!今行きます!」
ゲストルームの一つを掃除し終わって部屋を出たところで通路の向こうから声を掛けられ、ナマエは嫌な顔一つせず小走りにそちらへ向かった。
働くことは嫌いじゃない――と言うか、むしろ好きだ。 身体を動かすのは苦手ではないし、何かに一生懸命になっている間は余計なことを考えずに済む。 それにここでの仕事は働いた分だけきっちりお給料が貰えるのだ。 ナマエにとってこれ以上素敵なシステムはない。
「脚立使うから、下で押さえてて」 「はい、わかりました」
快く応えれば小さな微笑が返される。 彼女もここの使用人の一人で、姉妹メイドの妹、ステラだ。 ナマエよりも二つ年上で、口数は少ないが仕事はできる。 一見おっとりしているようにも見えるが、立ち居振る舞いを含めやることに無駄がない。 ちなみに無類の猫好きだ、3日前に屋敷の裏でこっそり野良猫に餌を与えているところを目撃した。
「このお屋敷には慣れた?」 「えっと……大体は」 「そう。もう迷子にならない?」 「う゛……そ、それは……まだちょっと不安です、けど」
実はここへ来て2日目に、ナマエは屋敷内で迷子になりかけていたところをステラに助けられていた。 そのことを持ち出され恥かしさや情けなさからしどろもどろになるナマエにステラがクスリと笑う。 「私も昔は迷子になった」と慰めてくれるあたり優しい。 ナタリーには「本当に迷子になっちゃったのね」と一頻り笑われたのだが。
「――ナマエ、いるか?」
その時のことを思い出して若干ブルーになっていると、人影がヒョイと物置を覗き込んだ。
「セラさん。何かご用事ですか?」 「ああ、これを」
ステラの姉のセラだ。 ステラと同じく口数は少ない方だが、やはり仕事はできる。 それに姉と言うこともあり、さっぱりしている性格だが実は面倒見が良い。 ちなみに無類の犬好きだ、2日前に野良犬を部屋に連れこもうとしていたところを目撃した。
そんな彼女に差し出された白い封筒を片手で受け取り、ナマエが僅かに首を傾げる。
「今朝届いた手紙だ。若旦那様に届けてくれ」 「こっちはもう終わったから、大丈夫」
ナマエが返事をする前に目当ての物を棚から見つけて脚立を降りたステラがそう促す。
神田に関する仕事はこのようにして基本的に侍女になったナマエに任されていた。 従って断る理由もなく、こくりと頷き軽い挨拶をしてから物置を後にする。
(……あ、そう言えば3人も同じ所に集まったのって初めてかも)
とにかく人が少なく仕事は多いこの屋敷では使用人はバラバラに働いているため、一所に集まることは滅多にない。 長く薄暗い通路を歩きながらふとそのことに気が付いたナマエは改めてここの広さを実感し、何故だか言いようのなく寂しい気分になった。
広すぎるのだ、この屋敷は。 ナマエにも
そしてきっと――彼にも。
* * *
「――若旦那様、お手紙をお持ちしました」
「入れ」と返され、重たい扉を静かに開ける。 窓辺のティーテーブルにつき、何やら読書をしていたらしい神田が視線だけ上げた。
「差出人は?」 「あ…えっと……ラーク卿、様…?」 「アホ。それは宛名だ」 「え、?」
(――あれ?)
言われて見れば今読み上げた名前は封筒の表に記してある。 ナマエだって手紙の書き方くらいは知っていた。 ――しかし思わず間違えてしまったのだ。
そこに記されていた名前は、ナマエが知っている彼の名前とは異なっていたから。
「あ、の……若旦那様のお名前って、」 「ラークはこの国での――家の名前だ」
(!)
彼の言葉にナマエはナタリーの話を思い出した。
東の島国で生まれた彼。 ならナマエが教えられた『神田』という名前は、彼の故郷での名前なのだろう。 道理で珍しい響きなわけだ。
「……ぁ、」
では、どうして彼は 『神田』と名乗ったのだろう。
(『家』が、嫌いなの――?)
喉元まで出かかった疑問を、ナマエは咄嗟に押し留めた。
そんな立ち入った話は使用人如きが訊ねることではない。 それを抜きにしたって誰にでも他人に踏み込まれたくない領域があるものだ。 ――ナマエ自身にもそれがあるように、彼にもおそらく。
『家の名前だ』と、まるで他人事のように言った彼の表情の端にもそれが見て取れた。
「……神田、って言うのはお生まれになった国でのお名前ですか?」
今更訊くようなことではない。 それによくよく考えてみれば自分の主人の名前も知らなかったなんて恥かしい話だ。 けれど、この屋敷では『若旦那様』で事足りていたので知る機会も知る必要もなかった。
渡した封筒を開き、興味なさげに一読した神田がそれを無造作にテーブルの上へ投げ、また視線だけでナマエを窺う。 そこに気分を害したような様子はなく、彼女は密かに安心した。
「母方のファミリーネームだ」 「でしたら、若旦那様のお名前は?」
ナマエを見つめる瞳が一度緩く伏せられる。 影を落す長く繊細な睫が揺れ、彼はその奥で、ここではない遠い地を見つめているようだった。
「――……ユウ」
(『ユウ』………ユウ、)
口には出さず、心の中で反芻する。
優しい音だ。 それが彼の国でどういう意味を持つ言葉なのかは知らないけれど、それでもとても綺麗な音だと思う。 草や花を優しく揺らす、風のような響き。
「ユウ様、ですか」
実際に声に出してみると、ほわりと胸があたたかくなったのは何故だろう。
また一つ彼を知って、心の距離が縮まったように思えたからだろうか。 それとも、彼の名前が予想以上に美しい響きを持っていたからだろうか。 どちらにせよ、ナマエはどこか嬉しかった。
「素敵なお名前ですね」 「――……」
自然と綻ぶ頬のままに微笑めば神田が微かに目を見張る。 しかしそれはほんの一瞬のことで、眉を顰めた彼はフイとナマエから顔を背けてしまった。
(も…もしかしてまたやっちゃった……?)
むっつりと押し黙り再び手元の本へ視線を落した彼の横顔に、途端にナマエの胸へ不安が過ぎる。
余計なことを言ってしまっただろうか。 それともいかにも安っぽい褒め言葉が気に入らなかった? もしそうだとしたらそこはどうか見逃してやってもらいたい。 元々語彙が豊かではないのだ、素敵だと思えばそのまま素敵だと言ってしまう自分を赦してほしい。
「あ、あのっ…喉乾いてませんか?新しいお茶淹れてきますねっ!」
自己嫌悪と神田の沈黙に耐えられず、ナマエは逃げるように早口で言って踵を返す。 ――が、伸ばした手がドアノブに触れる直前、「おい」と声を上げた神田に呼び止められ、ナマエの身体がピタリと停止した。
「二人の時は、名前で呼べ」
彼が何と言ったか一瞬理解が追いつかない。
「……?」
そろりと振り向くと、やはりあるのは相変わらずの顰められた顔。 ページを捲る白く長い指。 黙ってはいるけれど、怒っては――いない……のだろうか。
「若旦那さ……(――睨んだ!!)ッじゃ、なくて!……ユウ、様?」 「――何だ」 「ぃ、…いえっ!あの、何ていうか……言ってみただけ、です」 「………」
呆れた風に頬杖を付いた神田から短い溜息が零れる。
「……用が無いなら呼ぶな。いいな?」
なのにその声は決して厳しくはなく、むしろほんの僅かだが笑みを含んだように穏やかで、
「――っ、はい!ユウ様」
嬉しさを隠し切れずに弾んだナマエの返事に返された鼻を鳴らす音でさえ、いつもよりもずっと柔らかく聴こえた。
(13.06.05 修正)
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