Dグレ | ナノ





「――もう、忘れた」

冷たい掌に包まれた頬が、更に冷たい指の腹で撫でられた。
その瞬間背筋を駆けた心臓さえ縮めさせるゾクリとした寒気。
昏い瞳に視線を捕らわれ、そのままその深みへ引き摺られてしまいそうな錯覚が生じる。
ナマエが無意識の内にも半歩足を逃げさせたのは本能的な自己防衛だった。

「若…旦那、様……?」

震えてしまう声は隠し切れていなかった。
瞳を逸らすことも、満足に瞬きもできず、ただ自分を見つめ返す彼女を神田は更に数秒無言で見つめ
やがて時間をかけた瞬きを一つ。
同時にナマエの頬から彼の掌があっさり離れていく。
それでもまだ固まって神田を見つめるナマエに彼はどこか意地悪く目を細めた。

「俺の侍女がガキみたいに顔を汚したまま出歩くな。見苦しい」
「(みぐ、!?)え、ぅ、嘘?!」
「お前も一応女の端くれなら身だしなみくらいしっかりしてろ」

カッと顔を赤らめ、慌てて服の袖で頬を拭うナマエに背を向け、片手を肩の高さまで上げた神田が簡潔に「もういい、下がれ」と退室を促す。
余程恥かしかったのか多少上ずった声で返事をしたナマエが早足に部屋を出た後、彼はその足音が遠ざかって行くのを目を閉じて待ち、完全に聞えなくなったところでゆっくり瞼を押し上げた。

「――…・」

黒い瞳に映るのは自分の掌。

白い指先に汚れなど微塵も付いていない。
ナマエに触れたその手に残ったものは、ただ柔らかい頬の感触と、そして、

ひたすらに懐かしい――あたたかな体温の名残だけだった。


* * *


(ああもう、ほんと恥かしい……)

人が10人横に並んでもまだ余裕がありそうな幅の広い階段を降りるナマエの眉間に皺。
何度も擦った方だけでなく、反対側の頬も赤くなっているのはそれだけ彼女が恥かしかったからだ。

昔からお世辞にも清潔とは言えない環境に身を置いてきたナマエだが、それでもやはり年頃の女子の自覚はある。
だから今までだって人前に出る時にはできる限り身形は整えていたし、今日などは特に気を遣って、使用人の服へ着替えた時にも何度か鏡を見たはずだったのに。

(ううぅ…ナタリーさんも若旦那様のお部屋に行く前に言ってくれればいいのに)

「――ナマエ!こっちよ」

八つ当たり気味にナタリーへの恨み言を心の中で呟いた時、丁度その彼女に呼ばれナマエは慌てて首を巡らせた。
どの扉から出てきたのかは知らないが、ナタリーがひらひらと手を振ってナマエを待ってくれている。
最後の一段を跳ねるようにして降りたナマエが小走りに彼女へ追いつくと、どこか楽しげに微笑んでいるナタリーはくるりと踵を返してナマエの1歩前を歩き出した。

「どう?うちの若旦那様は」
「ど…どうって言われても……」
「滅多にお目にかかれない美形でしょ?ふふっ、私があと10歳若ければねぇ」

冗談めかして悪戯っぽく笑うナタリーだが、ナマエはあまり彼女を笑う気にはなれなかった。
質素な使用人の服を着ているがナタリーは間違いなく美人だ。
柔和で気さくで、それでいて大人の魅力を備えた彼女ならば神田の隣に並んでも違和感は無い。
年齢については知らないけれど、ナマエはむしろ二人ならお似合いなのではないだろうかと思った。
――ただそれは使用人とその主人と言う立場を考えなかった場合の話なのだが。

「……綺麗な方だとは思います」
「他には?」
「え…っと……」

何かを促すように顔を覗き込んでくる瞳にナマエは言葉を捜した。

「他には」と訊ねられても、後何を言えば良いのだろう。
使用人風情が自分の主人についてあれこれ言うのは本来好ましくないことである筈だが、ナタリーはそんなことを気にしている素振りはない。

何と答えようかと先ほどの神田とのやりとりを思い返した時、ナマエの脳裏に鮮烈に蘇ったのは彼の昏い瞳だった。

「すごく……不思議な人、だな…って」

ポツリと呟いたナマエに、「不思議?」と繰り返して僅かに首を傾げるナタリー。
元から語彙に乏しいナマエには言葉にするのは難しい感覚だったが、一つずつ言葉を選んで続けてみる。ナタリーに話すと言うよりは改めて口に出すことでナマエ自身の心を整理する作業に近かった。

「私みたいな生まれを雇ってくださって……優しい人かなって、思ったら急に…意地悪も言うし、それに……」

それに、何より あの瞳。

きっと夜の空よりも昏くて、海の底より深い。
ナマエを竦ませたあの色。

(――怖かった)

冗談でも誇張でもなく、本気で。

小さく揺れた彼の瞳に言いようの無い不安が胸に込み上げて。
そのまま心ごと、冷たく哀しいどこかへ囚われてしまう気がした。

「――……若旦那様も、複雑なご家庭の事情の中で育ったから」

とうとう続く言葉が見つからず黙り込んでしまったナマエへ、ナタリーが微苦笑の中そう言った。
「え」と俯きがちになっていた視線を上げると、丁度ナタリーが扉の一つを開いたところで、昼間なのに薄暗かった屋敷に切り取ったような青空と白く眩しい光が射し込む。

「ここが洗濯干場になってる裏庭よ」

白い光の正体は裏庭一面に干され風にはためく真っ白なシーツだった。

「今日はたくさん干してあるから、取り込んで畳むのを手伝ってほしいの」
「あ、はいっ!」

初仕事に少々意気込み気味な返事でナタリーに続き裏庭へ出たナマエを彼女は優しく目を細めて見つめる。

ナタリーは期待しているのだ、ナマエに――色々な意味で。
幼い頃から何にも心を移さなかった主が初めて自ら手を差し伸べた特別な少女だから。

"だからきっと、この娘なら"

「……ナマエ、取り込みながらで良いから少し聞いてくれる?」
「?はい、何ですか?」
「侍女のお仕事の話よ。それから――」

「それから、あの人の話」

また少し悪戯っぽく微笑ったナタリーの言う『あの人』が誰を指すのか、わからないはずなどなかった。


* * *


この国ではあまり見かけない真っ黒な髪と瞳に珍しい顔立ち。

『あの人はね、旦那様の奥様のご子息ではないの。旦那様が東の島国出身の愛人に産ませた子供――だからあの容姿はお母様譲りね』

だとしたら彼の母親も彼に劣らず美しい人だったのだろう。
ナタリーの言葉を思い出しながら秀麗な横顔を見つめ、ナマエは妙に確信した。

『奥様より先に旦那様の子供を身篭った若旦那様のお母様は奥様に酷く疎まれて、逃げるようにご自分の国に帰り、そこでご出産なさったと聞いたわ……元々繊細で…少し、心の弱い方だったようなの』

そして彼女の話によれば、神田が9歳の時に正妻が流行病に倒れ、唯一の子息として跡継ぎに選ばれた彼はこの屋敷へ連れてこられたらしい。

(……ナタリーさんはどうして私にそんな話をしたんだろう)

本人以外の口から、恐らく本人の知らない内にその生い立ちを聞いてしまい、自分が聞き出したわけではないのだが、やはり罪悪感に近い後ろめたさを感じてしまう。

「――オイ」
「ッ!」

ぼんやりと見つめるナマエの視線の先で、横顔の瞳が不意に彼女を捕らえた。
思わずピッと身を強張らせたナマエに彼の型の良い唇から呆れた風な息が零れる。
……いや、『風』ではなくて実際に呆れていたのだろうけれど。

「ったく、黙ってればさっきからジロジロ見やがって……さっさと用件を言え」
「!ぁ、す、みません!ご夕食の用意が出来ましたので、そのお知らせに……!」

慌てて答えたナマエの腕に力が入り、抱えていたシーツが僅かに乾いた音を立てた。
神田が部屋を出ている間にベッドメイクをする予定なのだ、やり方は既に別の部屋でナタリーに習っている。
しかし神田は興味を失ったように視線を手元の本に戻し、腰を上げる気配がない。

「あの、若旦那様……?」
「今はいらない」

恐る恐る訊ねたナマエに返されたのは実にそっけない返事だ。
頬杖をした彼がパラリとページを捲る音がナマエの中の虚しさを一層煽る。

(えっと……埃立てちゃダメだし、出直さなきゃかな)

「でしたらまた後で出直してきますね、それじゃあ、」
「待て」

「失礼します」と言いかけ、踵を返すのを遮る一言。
何か用事を言いつけられるのかと「はい?」と小首を傾げたナマエに神田は頬杖のまま瞳だけ動かし、その感情を見せない視線は彼女の腕の中のシーツへ向けられていた。

「シーツ換えに来たんだろ、今やって行け」
「え、……でも埃立っちゃいますから」
「なら精々努力するんだな」

口の端を上げて言う彼の表情はとても意地悪だ。
けれど主人である彼にそんな風に言われてしまえばナマエは断る術がない。

戸惑いがちに頷き、広い部屋の奥へ足を進めるとそこには庶民生まれのナマエには考えられないほど大きなベッドが座を占めていた。

(……すご、い)

最早そんな言葉しか思いつかない。

客室のベッドよりも更に大きな一度に4人は楽に眠れそうな天蓋ベッド。
四隅からベッドを包み込むようにゆったりと垂らされた上質なカーテン、支柱に施された細やかな細工。
触れた手が柔らかなマットに沈んでいく夢の中のような感覚。

(こ…これが俗に言う、『贅沢』……?)

生まれてから今まで一度も体感したことのない、自分とは縁の遠い言葉。
それに今触れているのだと思うと不思議な高揚感が胸に込み上げてくる。
もしかしたら顔も緩んでしまっているかもしれない。

(アレンもこんなのに寝かせてあげたいなぁ……一緒に寝たらすごく良い夢見れる気がする)

微妙に弟離れ出来ていない思考だが、本人はそれに気付いていない。
ぽやぽやと花でも飛ばしそうな、夢を見ているような顔で作業をしていたナマエはしかしふとベッドメイクを続ける自分の横顔に注がれる視線を感じ取った。

「?、――!!」

(み、っ!)

見られている。
もちろん、神田に。

しかも先ほどまで頬杖を付いて本を読んでいたはずの彼はそれを止め、腕組みしながら何か興味深い新種の生き物を見るような目でナマエを観察していた。

「わっ、若旦那様………何か?」

頬と言わず顔と言わず、とにかく身体が熱くなり、恥かしさに耐え切れず誤魔化すような笑みを浮かべたナマエに、彼女のそんな内心を知っているのか神田がフンと鼻を鳴らして小さく笑う。
鋭い瞳は明らかにナマエを面白がって細められた。

「珍しいか?」

何が、とは言わない。
言わなくてもわかりきったこと。

また一段と体温が上がるのを感じつつ、ナマエは観念して小さく頷いた。

「とても気持ちが良さそうだなって、思って……あの、ごめんなさい」
「別に謝らなくていい」

応えた神田の声が妙に上機嫌に聞え不思議に思いながらそっと頭を上げる。
黒い瞳は相変わらずからかうような色を含み、口元には見る者の心を一瞬にして惹きつける蠱惑的な笑みが薄っすらと浮かんでいた。


「――寝心地、確かめてみるか?」


「!ぃ、良いんですかっ?!」
「、……――」

きょとんと、予想外のナマエの反応に神田が目を見開き、室内に沈黙が流れた。

その沈黙にナマエも自分が何か的外れな返事をしてしまったのかとハッと息を飲み、「ごめんなさいっ!」と慌てて胸の前で手を振って深々と頭を下げる。

「そ、そうですよねっ冗談ですよね!すみません私っ…ほんとにバカで……!!」
「………」

急き込んで話すナマエの頭の向こうでふっと軽く息の抜ける音。
おずおずと顔を上げて初めて、それが彼の微笑った声だと気付く。


「――ああ……本当にバカだな、お前は」


改めてバカ呼ばわりされたのに、ナマエの胸に何の怒りも悲しみも生まれなかったのは、きっとその時の彼が昨日夕日の中で見たものと同じように

とても綺麗に、穏やかに微笑っていて
トクンと跳ねた心臓がまた 苦しくなったから。


「俺の居ない時なら、好きにしろ」


初めて聴く囁くような響きの彼の声に、気付けばナマエは頷いていた。

(不思議な人……)

換え終ったシーツを抱え、俯きがちに歩きながら扉へ向かう。
扉の前まで来たところで両手が塞がっていることを思い出し、「ぁ」と小さく声を漏らすと、ほぼ同時にナマエの背後から伸びてきた手が彼女に代わってドアノブを捻った。

「若旦那様……?」
「早く出ろ」

そのままナマエが通れるように扉を広く開いて神田が道を開けてくれる。
意外な行動に瞳を瞬かせながらも急いで部屋の外へ出ると彼もそれに続いた。

「あ…ありがとう、ございます」
「勘違いするな。お前のためじゃない」

突き放すような言葉。
けれど、声自体はそんなに冷たくないように思えたのはナマエの勘違いだろうか。
真意を窺おうとする彼女の視線をフイと振り払い「飯に行く」と踵を返し歩き出す神田の背中を、ナマエは自分で知らないうちにふわりと微笑んで見つめていた。

(――本当に、不思議な人)

不意に優しかったり、酷いことを言ったり、意地悪だったり、怖かったり。
それでもやはり 悪い人には思えない。

気難しいこの主人を、ナマエはもっと知っていきたいと思うようになっていた。




(13.06.05 修正)