鳥籠の中で 夜空よりも昏い あなたの瞳に出会った
「――ナタリー」 「はい」
神田の一言でナタリーは軽く会釈し、踵を返して部屋を後にする。 その間も瞠目したまま食い入るように神田を見つめていたナマエはナタリーが扉を閉めた音で我に返った。
(この人が……?)
途端にシンと静まり返った部屋。 吹き止んだ風に、神田の黒髪が彼の上等な白いシャツの表面を音を立てずに撫でて落ち着く。 まるで有名な画家が描いた絵画のような美しさを持った彼がその薄い笑みを消し、窓の淵から腰を降ろしたことで漸くナマエの喉は声を発することが叶った。
「っ、あの……!」 「ん?」 「……あなたが……このお屋敷の”若旦那様”だったんですか……?」
一瞬、神田の整った眉が嫌悪を催し顰められたように見えた。 しかし瞬き一つの内に彼はまた口元だけで微笑い、ナマエへ近づいてくる。 自分をヒタリと見つめる瞳の強さに、自分の身体が動かなくなってしまうのではないかと少し怖くなり、主導権を確認するため密かに掌を握り締めた。
そんな彼女の数歩手前で立ち止まった神田が緩慢に目を細める。
「――そうだ。俺がこの屋敷の主で、今日からお前の雇い主になる」
『お前一人くらいどうにでもなる』 『あなたなら絶対に大丈夫よ』
昨日の彼の言葉と先ほどのナタリーの台詞を思い出し、ナマエはやっと納得した。
確かに彼自身がこの屋敷の主ならば独断で使用人を増やすことだって可能であるし、彼が雇ったのだから、今すぐに「気に入らないから」と追い出されることもないだろう。 少なくともきっと何かの理由があってナマエをここへ導いたのだろうから。
「お前にはオールワークに加えて俺の侍女になってもらう。仕事の詳細はナタリーに訊いておけ」 「!!侍女、ですか……!?」
侍女と言えば上級使用人の一種だ。 紹介状も無しにこの広い屋敷で働くことになっただけでも心苦しいのに、更に何の経験も無い自分などをいきなり侍女にすると言い出すなんて。
「お前に選択権は無い。俺の言うとおりにしてりゃそれでいい。わかったな?」 「っ……は、ぃ」
反論を赦さないあの瞳だ。
今まで出会った誰の瞳よりも黒く深いその色にナマエはどうしてだか逆らえない。 消え入りそうな声の返事だったが、それを聞き漏らさなかった神田はどこか満足げに鼻を鳴らして目を伏せる。 思いがけず彼の瞳から逃れることが出来たナマエはそっと息を付き、視線を逃がした先でふと丸いティーテーブルの上に目を奪われた。
(!、このお花……)
繊細な細工の小さなグラスに生けられた白い花。 昨日ナマエが神田に売ったあの花だ。 彼がそれをきちんと持ち帰り、こんな風に部屋に飾ってくれたのだと思うと、今までの緊張が嘘のように溶け胸が軽くなっていく。
(……やっぱり、この人はいい人なんだ)
「あの、若旦那様」 「……何だ」
「――私のこと 雇ってくださって本当にありがとうございます」
微笑んで言ったナマエの言葉に、今度は神田が僅かながらも目を見張る。
その表情が大人びた雰囲気の彼をほんの少し幼く見せることに気付き、ナマエはどこかくすぐったいような気持ちで続けた。
「精一杯頑張りますから、何でも言いつけてくださいねっ!」 「……張り切るのは良いが、みっともない空回りはすんなよ」 「だっ、大丈夫ですよ!私これでも家事とやりくりは得意な方なんですから!お給料に見合ったお仕事はきっちりさせて頂きますっ!」
フンと鼻で笑った神田に思わず食って掛かったナマエの最後の言葉。 そこに微かな引っ掛かりを覚え、神田の表情が再び鋭いものになる。 探るように見据えられ、思わずぴくりと肩を揺らしたナマエが恐る恐る「何か?」と首を傾げた。
「……お前、妙に金に拘るんだな」 「え、…?」 「フン――貧乏人共は何でそんなにあの紙切れが欲しいんだか」
(ッ!!!)
カッと、ナマエの体内の血液が瞬時に沸騰し、顔に集まった。 頭が一瞬真っ白になり、込み上げてきた衝動を奥歯を噛み締めて押し殺す。
目の前が歪む、この激しい感情は怒りだろうか。 震える片手でもう片方の手の肘を握り、ナマエはどうにか自分をその場に留めた。
「……お金が大切じゃ、ダメですか…」
神田の顔をまともに見ることが出来ず、彼の視線を避けて顔を伏せる。 服の上からでも肘に食い込む爪の痛さが鈍く伝わった。 それでもそうしておかなければ、ナマエは恐らくこの屋敷を追い出されてしまうだろう。
「私は…私はきっと、あなたに雇われていなかったらこの冬さえ越せていません。あなたはそうじゃないかもしれないけど、私達にとってお金は生きていくために絶対必要なものなんです――それに、……っ」
それにあの時、お金さえあれば
(お金があれば、義父さんは――……!)
「……――『それに』?何だよ」
俯いて黙り込んだままのナマエに冷たい声が投げかけられる。 また一つ肩を跳ねさせたナマエは最後にもう一度肘を強く握り、ゆっくり顔を上げた。 その顔に精一杯の――消えそうな微笑みを貼りつけて。
「……それに、持ってて困るものとは違うじゃないですか。あればあるだけ良いんですよ、きっと」 「……くだらねェな」
「どんなに金があっても、本当に欲しいモノは手に入らない」
コツンと冷たく空虚に響く足音と同時に、一歩近づいた神田の背へ窓から入った強い風が吹き、長い漆黒の髪が彼とナマエを取り囲んで包むように揺れた。
「――…あなたの、本当に欲しいモノって何ですか?」
それを訊ねて一体自分はどうしようというのか。 理由もわからないまま、それでもナマエは確かに彼に問いかけていた。
再び絡まった視線の先で、夜空よりも昏い瞳が小さく揺らぐ。
「……さぁな」
音もなく伸ばされた腕の先の掌が不意にナマエの頬に触れた。 体温の低いそれに粟立つ背筋、思考は凍ったように滞り、身を強張らせてただ彼を見つめ返すナマエに神田は無言のまま、優しさと勘違いしそうな強さで彼女の頬を親指の腹でそっとなぞる。
「――もう、忘れた」
神田の漆黒に囚われたそこは まるで冷たい鳥籠の中のようだった。
(13.06.05 修正)
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