鳥籠の外で 優しい唄を 聴いたんだ
鳥籠に唄
「お花はいりませんか?――お花を買ってください」
自分はいつからオウムになったのだろう。 頭の中ではそんなことを考えつつ、ナマエは新たに向こうからやってきたフェルト帽の紳士に小さな花束を差し出す。
「お花はいりませんか?」
この数日で数え切れない程繰り返したこの台詞と笑顔は身形の良い者を見かければもう条件反射だ。 受け取ってもらえなくとも、見向きもされずとも、一々落ち込むことはなくなった。 だから片手を上げるだけで無愛想に断られても傷ついたりはしない。
(ああ、でも……今日はさすがに疲れた)
立ちっぱなしの足が棒になってしまったかのように重く、足の裏の感覚が鈍い。 段々と人通りのまばらになってきた夕日に染まる公園の片隅で、ナマエは手に持っていた花を篭に戻し フラフラと覚束ない足取りで噴水へ向かうと石を敷いた淵の上に腰を降ろした。
「………はぁ」
俯いて溜息を付き、足を前後に軽く揺らしながらボロボロの靴の中で指を開く。 そうやって感覚を取り戻しながらポケットに手を入れるとチャリッと僅かに金属の触れ合う音。 片手で簡単に全部掴めてしまう冷たく小さなそれをポケットから引っ張り出し 太腿の上で開いた掌の上に散った価値の低いコインの数を目で数え、更に重い溜息が零れた。
(一日中立ちっぱなしでこれかぁ…)
まだ残ってはいないかともう一度ポケットを探るが、虚しい結果なんてわかりきっている。 パンを二つ、買えるかどうか。 それが今日のナマエの稼ぎだ。
「……どうしよう……困ったなぁ」
身体が平たくなってしまいそうなくらい必死に頭を下げて漸く借りた小さな部屋には幼い弟がいる。 自分もそうだが、最近ろくな食事を食べさせてやれていない。 それに部屋だってタダで借りているわけではないのだ。 きちんと部屋代を払わなければ、姉弟二人雨風を凌ぐことも出来ず路頭に迷うことになる。 それだけは絶対に避けなければならないのに。 けれど、このままでは――
(……いっそ娼館にでも行って身体を売れば――)
「っ…ダメ!」
一瞬脳裏を過ぎった考えにナマエはハッと息を飲み、それを振り払うように頭を振った。
身形も容姿も肉付きも良くない自分だが、身体を売ればそれなりに金は手に入るだろう。 しかしそんなことをして稼いだ金であの優しい弟が喜ぶはずがない。 死んだ養父だってそんなことをさせるためにナマエを拾い育てたわけではないだろう。 二人のためにも、それだけは絶対に出来ない。
いつの間にか薄っすらと滲んでしまっていた涙を乱暴に手の甲で拭い、ナマエは自分を落ち着けるために深く息を吸って、ゆっくり吐き出した。
思い描くのは暖かい布団の中だ。 養父と弟とナマエ。 三人で薄い毛布を分け合い、互いの温もりを感じ――子守唄を教えてもらった。
貧しさの中にもささやかな幸せがあったあの頃。 その日々を思い出せば、ナマエはもう一度顔を上げることができる。
(義父さん――……私、もっと頑張るから、)
「――…そして 坊やは眠りについた……」
瞼を伏せ、懐かしい旋律を思い出しながらナマエは静かに歌い出した。 人気の無くなった公園の風に乗り、歌声は優しく空気を揺らす。
暖かい海の底にいるような不思議と落ち着いた感覚だった。 背後に聴こえる噴水の柔らかな音も、木の葉が触れ合う音も、全てが自分を包んで、見守ってくれているような安心感。 養父がナマエに与えてくれたものに良く似たあたたかな気持ちが、不安に凍えそうだった胸の底から湧いてくる。
「つないだ 手に キスを――…」
(………よし。明日はまた朝からお仕事探して、今度こそアレンにちゃんとしたご飯を、)
「――?っ、わ!」
唄の終りと同時に決意も新たに閉じていた目を開けた時、ナマエはいつの間にか自分の前に誰かが立ち止まっていたことに気付き思わず声を上げてしまった。
顔と表情は良く見えないけれど、どうやらその人は自分を見ているようだ。 背後に背負った夕日によって紅く縁取られたシルエット。 流れるような長い髪がサラサラと風に遊び、その光景に目も心も奪われる。
(綺麗な黒髪……女の人、かな――って、あ!今の聞かれてた!?)
数秒かけてやっと我に返ったナマエは恥かしさに逃げ出したい衝動を押し殺し、この数日の内に身についた習慣で咄嗟に腰を上げてその人物に向かい笑顔を作った。
「あっ、あの!……お花、いりませんか?」 「………」
口を付いて出てきたのは例の台詞だ。 同時に差し出した小さな花束を見つめ、無言のままその人物がナマエへ近寄る。
カツンカツンと上等な靴の底が石畳を蹴る音が響いた。 近寄られたことで、改めて相手が相当良い身形をしていることがわかる。 ――そして気付いたことがもう一つ。
(背、高い――この人、すごく綺麗だけど男の人だ……)
この国では珍しい顔立ち、アーモンド形の鋭い瞳。 色は白いが東洋人だろうか……年は自分よりも少し上のように見える。 不躾にもついジッと見つめてしまったナマエに、彼は無造作に紙幣を差し出した。
「えっ…あ、?」 「……これじゃ足りないか?」 「ぃ、いえ!そうじゃなくて……!!」
久しぶりに見た紙幣、横に並んだゼロの数にナマエは軽くパニックを起こした。 何かの冗談だろうか。 こんな大金、篭にある花を全部売ったって釣り合わない。 足りないのは商品の方だ。
「あのっ……ごめんなさい。お花、これしかないんです……」 「一つで良い」 「で、でもそれじゃあお釣りが」 「必要ない。取っとけ」 「そんなことできませんよっ!」
(お金持ちの考えることって――!!)
この紙一枚で一体いくつの白いパンが買えるか。 素直に受け取ってしまえば良いものを、ナマエは金の大切さを知っているからこそ受け取れなかった。
「……――わかった。なら、さっきの唄をもう一度歌え」 「、え?」 「花代の残りはさっきのとその見物料だ――それで良いんだろ?」
やっぱり聞かれてしまっていたのかと改めて顔を赤らめるナマエを軽く鼻で笑い、青年はナマエの横を通り過ぎると先ほどまで彼女が腰掛けていたその場所に腰を降ろし、足と腕を組む。
まだ戸惑いながら振り向いたナマエに向けられたのは「早くしろ」と言わんばかりの視線。 その強い漆黒の瞳になぜか逆らうことが出来ず、胸元でギュッと手を握ったナマエは、やがてゆっくりと息を吸い込んだ。
* * *
「本当に、良いんですか……?」 「しつこい」
受け取った紙幣を信じられないといった面持ちで両手に持ち、隣に座ったナマエの言葉を青年は一蹴してしまう。けれどきちんとレッスンを受けた歌手でも何でもない自分の唄――しかも子守唄なんてものにこんな大金をもらってしまうのは、やはりどうしても気が引けるのだ。
「金が要るから働いてんじゃねェのかよ」 「……それは…そうですけど、」 「………」
僅かに俯いたナマエの困りきった顔を横目で盗み見た青年は小さく舌打ちした。
「大体、そんなチマチマした花なんか売って食っていけんのか?」 「……正直苦しいですね」
あはは、と精一杯の空元気で笑顔を作り、ナマエは篭の中で一番元気で綺麗な花束を彼に差し出す。
「でも……知ってると思いますけど、私みたいなのは切がないんですよ。だからお仕事は中々見つからないし、自分と家族でその日食べていくのがやっと……それでも屋根がある所で眠れる分、私はまだマシな方かもしれません」 「………」
花束を受け取った青年は親指と人差し指の指先でそれをくるりと回し、野に咲く名も知らないその白い花を数秒見つめた後、視線をナマエへ戻した。
漆黒の瞳はその奥に不思議な光を宿し、真っ直ぐにナマエの瞳を捕らえる。
「――稼げる仕事、欲しいか?」
彼の口から出た言葉は一瞬ナマエを呆けさせた。 「へ?」と目を瞬かせている間に青年は噴水の淵から腰を上げ、更に続ける。
「お前、家事は出来るんだろうな?」 「??そ、それなりにできます、けど」 「なら問題ない。住み込みの使用人として働けるようにしてやる」 「(使用人!?)無理ですよ私そんな教育受けたことないですしっ……それにそういうのって誰かの紹介状が、!」 「お前一人くらいどうにでもなる」 「で、もっ……!」
そんな美味い話にすぐに乗ってしまって良いのだろうか。 会って間もないこの青年をどこまで信じていいのかナマエにはわからなかった。 いくら良い身形をしていても信用してはいけない悪い人間がいることも知っているのだ。
――なのに、どうしてだろう。
「お前、名前は?」
彼の瞳に 逆らえない。
「――ナマエ、です」 「そうか。俺は――……神田だ。話は通しておいてやるから、明日中に荷物を纏めて北の丘の屋敷に来い。わかったな?」
自分でも何が何だかわからないうちに、気が付けばこくりと頷いていた。 そんなナマエに青年はふっと鋭い眼差しを和らげ、口元に僅かな微笑を乗せる。
(ッ、!!)
茜色の夕日の中のその表情に胸がドクンと大きく鳴り、ナマエの背筋がピンと張った。
熱という熱が顔に昇って集まってくるのが感じられる。 それにこの胸の落ち着かなさは何なんだろう。 まるで心臓の機能が壊れてしまったみたいで、苦しい。
「……またな、ナマエ」
神田と名乗った青年が長い髪を揺らし、踵を返して行ってしまう。 彼を呼び止めることも、礼を言うことも出来ず仕舞いで、ナマエはその場で固まったまま神田の背中を見送った。 姿が見えなくなってしまうまで、ずっと。 彼を視界に入れておかなければ呼吸さえできない存在になってしまったかのように。
漸く呪縛が解けて動けるようになったのはそれから優に3分は後のことで、余程緊張していたのか両手に持っていた紙幣は歪み、恐る恐る胸の上に押し当てた掌には、未だに強く脈打つ心臓の動きが感じられた。
(変、なの……――変な、人…だけど、)
きっと彼は、悪い人ではない。 ナマエの歌う子守唄を聴いていた彼の眼差しはとてもやわらかいものだったから。
「……っ、よぉし!」
気分を入れ換えるためにスッと息を吸い込み、両掌で自分の頬をペチリと叩く。 その頬が熱かったことには気付かないフリをしてナマエは勢い良く腰を上げた。
取り合えず、今日は久々に弟にまともな物をたくさん食べさせてやれる。 ――上手くいけば これから毎日。
(………アレンだけは、絶対守らなきゃ)
「ありがとう、義父さんのお陰だよ……私、頑張るからね」
胸の前で指を組み、子守唄を教えてくれた養父への感謝の祈りを捧げた後、紙幣とコインをスカートのポケットにしっかりと仕舞ったナマエは花篭を腕に提げ、弟の待つ家路を急いだ。
(13.06.05 修正)
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