All the birds of the air ――空の全ての鳥達が
fell a-sighing and a-sobbing, ――ため息をついて むせび泣きました
when they heard the bell toll for poor Cock Robin. ――可哀想な駒鳥のために鳴る 弔いの鐘を聞いたとき
ガラスに僅かに映りこむ、窓の外を見つめるあなたの瞳が、手の届かないものに焦がれているように哀しげで、苦しそうだと――今になって、初めて気がついた。
「――ユウ様っ!あの、!」
一瞬、胸が潰れてしまいそうだとさえ感じるほどの痛みがナマエを襲い、ナマエは衝動的に彼の名前を呼んで、その視線を自分へ引き寄せようとした。
少し大きな声になってしまったので驚いたのか、鋭い目を僅かに見張った彼がナマエを振り向く。 神田の瞳から先程までの感傷が消え、そこに自分が映ったことで無意識のうちにほっと息をつき、しかしナマエは彼を呼んだ理由を考えていなかったことに気づくと慌てて視線を泳がせた。
「あ……えっと、その………!そこ、寒くないですか?」
いつかもこうして、窓枠に腰掛けた彼に同じことを問いかけた気がする。 それを思い出し何となく恥ずかしい気持ちになりながら神田の様子を窺うと、彼の視線は依然として自分に向けられたままで、ナマエの頬にパッと熱が集まった。 神田から返される沈黙に心臓が急かされ、とにかく何か言わなければと会話の糸口を探す。
「夜はっ、冷えます、し……!まだ起きてるなら何か………何か、羽織るもの、持ってきますから!」
不必要な身振り手振りを交えつつ懸命に言葉を繋げるナマエを見つめる神田の瞳が一度伏せられる。長く繊細な睫が縁取るそれが、不意に、微かに揺れた。
「要らねェ」
ぼそりと呟かれた乾いた声に続き、神田の視線がもう一度ナマエへ向かう。 窓の外に広がる夜空よりも昏い、あの瞳だった。
「――お前が、俺を温めてみせろよ」
神田が微笑う。 唇に、綺麗な弧を緩く描かせて。
何を言われたのか咄嗟には理解できなかったのに、ナマエは自分の背筋が凍えたのを感じた。
「ゅ………う、様………?」
絞り出す声が掠れる。 胸を叩くように重い音を立てる鼓動に耳鳴りがした。 凍りついた足が、身体が動かない。
彼の奥に、冷たい闇が沈んでいる。
その底から自分を呼ぶ哀しい声がした。 応えれば、一度でも手を取ってしまえばきっと、飲み込まれてしまう。 漠然とした恐怖。
「……――真に受けるな。冗談だ」
ゆっくりと降りた瞼に昏い瞳が遮られ、彼の口からその言葉が出てくるまで、ナマエは瞬きすら忘れ、身動きもとれないまま彼を凝視することしかできなかった。
「っ………!」
瞑目の後、神田はまた空を見る。 そこには再び虚ろで哀しげな翳が射し込んでいて、ナマエの喉が締め付けられた。 持っていた燭台の冷たさが掌を刺す。
(今、っ……私)
頷けなかった。 『彼をあたためたい』と、そう願っていた筈なのに。
自分の願いと神田の言葉に大きな隔たりを感じた。 頷いてしまえば、全てが壊れてしまう気がした。 あの闇の中に囚われて、二度と抜け出せなくなるような――彼の本当の微笑みを永遠に失ってしまうような、確信染みた予感があった。
ぬくもりを求めた神田の言葉の中には、確かに彼の本心が含まれていたのに。 気付いていたのに。
「ユウ、様…………っ、私は、」
続ける言葉が見つからない。 なのに、とにかく何かを伝えたくて中途半端に投げかけたそれが行き場を失う。 自分が無力で卑小な存在に思えて堪らず、ナマエの瞳がじりじりと熱を持った。
「……あの鳥は、どうなった」
暫くナマエを待つように黙していた神田が沈黙を破り、彼女を見ないままポツリと問いかける。 その声にハッとして俯けていた顔を上げたナマエはまたしても胸の痛みを覚えながら、しかしそれを表情には出すまいと一度唇を結び、できるだけ自然な微苦笑を作った。 やはり彼は、あの鳥に何かしらの感情を抱いていたのだ。
「ここに来る前に様子を見た時には、相変らずでした」 「……だろうな」
神田の返事には諦念が感じられた。 ――けれど、ナマエはそれを心の中でさえなじろうとは思えなかった。 呟く彼の横顔は、誰より哀しんでいるように見えたから。
* * *
(私、全然ダメだ……)
古くなった小さなスプーンを使って駒鳥のクチバシヘ水を運んでやりつつ、ナマエは自責の念に苛まれていた。
(”守りたい”とかそれ以前に………私はユウ様を苦しめてるだけなのかも)
駒鳥の身体を濡らしてしまわないよう、慎重にスプーンを傾ける指先が震える。 クチバシから覗いた舌が数回僅かに動いたのを確認してスプーンを置き、ため息を吐いたナマエは花篭を避けて机にうつ伏せた。
『彼のために、自分にできることなら何でもしたい』
そう願う気持ちに嘘偽りはないのに、実際の自分は何も出来ないばかりか、彼に哀しい顔をさせてばかりなような気がして。もどかしいよりもむしろ、辛かった。
「…………私、ユウ様の傍に居ない方が良いのかな」 「あら、そんなのダメよ」
完全に独り言のつもりで呟いた弱音に背後から予想外の反応。 ビクリと身体を強張らせたナマエが勢いよくテーブルから顔を上げ、瞠目して部屋の入り口を振り向くと、開いているドアを今更ながら軽くノックして、ナタリーがにっこり笑っていた。
「遅くにごめんなさいね。灯りがついてるの見えたから、鳥の具合はどうかしらって思って」 「ナタリーさん、っ………その、今……の!(聞かれた!)」
寝間着に着替えたナタリーが部屋に入り、慌てるナマエの様子にまたクスリと笑う。 その笑みは机の上の花篭の中に横たわる駒鳥の姿を見るとまた切なげなものに変わったけれど、静かにナマエを振り向いた彼女の瞳は優しい表情をしていた。
「あなたには、若旦那様の傍にいてあげてほしいの」
細められた瞳と意味深な言葉に、ナマエの顔が戸惑いに染まる。 ナタリーを真っ直ぐに見つめ返すことができず、俯いたナマエはカーディガンの裾を握った。
「で、も……私といると………若旦那様は、哀しそうな顔を……する時が、あって」 「………それはきっと、あの人があなたに心を開いているからね」
ほんの少し寂しげで、それでもどこか嬉しそうな声。 小さく驚きの声を上げたナマエが彼女を見上げると、ナタリーは柔らかく苦笑した。 目を閉じた彼女は昔を思い返しているような表情で、ゆっくりと言葉を続ける。
「私達の前では哀しそうな顔すらしてくれないもの。全部全部内側に閉じ込めて、凍りつかせているみたいにね。だから――それを引き出してあげられる人がいてくれないと、あの人はいつか壊れてしまうわ」
慈愛を宿した瞳が開かれ、ナマエの姿を映す。 彼が見つけた、彼だけの”特別な少女”を。
ナマエの肩にぽんと手を置き、彼女の視線をしっかり捕まえたナタリーは片目を瞑って悪戯っぽく付け加えた。
「それに、また人手が減っちゃったら、いつか私が倒れちゃうでしょ?」
きょとんとしたナマエが、数秒遅れてふっと笑う。 それを見たナタリーが密かに安堵の息を零し、彼女の目は再び花篭の中へ向かった。
小さな鳥と――小さな神田。 その記憶が彼女の中に不意に蘇り、伏せた瞳が憂いを孕む。 あれはもう、何年前のことになるのだろうかと。
「――若旦那様は昔、鳥を飼っていたのよ」 「、え………?」
唐突なナタリーよりも、その言葉の内容に驚いたナマエは思わず訊き返していた。
その後、ナタリーの口から語られた神田の昔話はナマエの胸に深く焼きつき、彼女はその夜、ナタリーが自分の部屋に戻ってもベッドに入らず、小さな駒鳥を見守り続けた。
* * *
物置から借りてきたシャベルで、広い庭の片隅の冷たい土を掘る。
早朝の白い空気の中、衣服が汚れることも厭わずに地面に両膝をついたナマエは黙々とそれを続け、自分の両手と同じくらいの広さの穴を掘り終えると、集めてきた落ち葉をその底に敷き詰めた。
(…………ごめん、ね)
冷たく冷え切った駒鳥を、枯葉の中にそっと横たえる。 硬くなってしまった丸い胸はもう動くことはない。 ナマエがこの駒鳥の囀りを聞いたのは、結局あの一度だけだった。
一輪だけ摘ませてもらった花壇の白い薔薇を駒鳥の頭の近くに添え、その上へ柔らかな土を少しずつかけていく。 駒鳥の橙色の羽が見えなくなった時、ナマエの視界はじわりと滲んだ。
なだらかな丘の形に土を盛り、もう一つ摘んでおいた名前の知らない花をそこへ供え、指を組ませた両手を胸に寄せたナマエは目を閉じて祈りを捧げる。 せめてその眠りが安らかなものであるように。 還りついた楽園の空で、もう一度羽ばたくことができるように。
ナマエが丁度瞼を開けた時、背後で枯葉を踏む足音が聞こえた。 振り向かずとも、彼女にはその持ち主がはっきりとわかっていた。
「――ユウ様、どうしてここに………?」 「窓からお前が見えたんだよ。朝っぱらから辛気臭ェ顔して歩いてるのがな」 「そう、ですか」 「………」
足音が近づく。 そのままナマエの横に並んだ彼の手が俯く彼女の頭に乗った。 その拍子に、ナマエの顎から透明な雫がポロポロと落ちていく。
「――だから、情を移すなっつっただろうが」
神田の手は不器用にナマエの頭を撫でる。 そこに込められた彼の優しさが胸を塞ぎ、ナマエは新たな涙を堪えられなかった。
『若旦那様は昔、鳥を飼っていたのよ。旦那様の………あの人のお父様からの、誕生日プレゼントだったわ。鳥籠に入った、綺麗な黄色のカナリア――だけどね、あの人はたった数日で、自分からカナリアを外へ放してしまったの』
「ユウ、様………っ」 「……ん?」
この人は、一体どんな気持ちで鳥籠を開けたのだろう。 どんな気持ちで小さな鳥を見送ったのだろう。
あんな瞳で、いつも窓の外を見つめて。 誰よりも”それ”を求めているのは、きっと彼自身なのに。
(今だって、そうだ)
哀しいのは、泣きたいのは――彼のはずなのに。 飛べない鳥に彼が重ねたのは、自分の姿だったのに。
(どうすれば、私はこの人の心を守れるんだろう)
どうすればあたためることができるのだろう。 冷たい鳥籠で一人眠る彼を、どうすれば。
どうすれば。
「私、はっ……何が、できます、か………っ?」
嗚咽混じりの問いかけに、頭上で神田が微かに微笑ったのが聞こえた。 ナマエの頭を撫でていた掌が離れ、濡れた頬を包む。 彼のために零したあたたかな涙はその瞬間、神田の心を確かに溶かしていた。
「――歌ってやれ。賛美歌の代わりに、あの子守唄を」 「〜〜〜〜っ………は、ぃ!」
涙の向こうに垣間見えた神田のあの穏やかな瞳に、また込み上げるものが止まらなくなる。
頬を包む彼の手に触れ、ナマエはそれを強く強く、ぎゅっと握り締めた。 『あなたはここで、確かに生きているのだ』と伝わるように。 ほんの少しでも彼をあたためてあげられるように。
飛べない鳥のために 子守唄を歌った。
(13.06.06 訂正)
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