(雪の匂いがする……)
洗濯籠を抱え、薄い雲に覆われた空を見上げたナマエはスンと鼻を鳴らした。
もうすぐ12月だ。 そろそろ雪の気配が濃くなってくる。 頬に触れる朝の空気は既に少し痛いくらいだった。
(クリスマス、お休みもらえるかなぁ……誕生日くらい一緒にいてあげたいんだけど)
ある程度は覚悟していたが、この仕事は本当に休みがない。 実際ナマエはここに勤め始めてからまだ一日も休みをもらったことがなかった。 嘘みたいに広い屋敷の中を、嘘みたいに少ない人数で奔走して、時折気まぐれに呼びつけてくる見目麗しく気難しい主人に翻弄される毎日だ。
(………後でナタリーさんに相談してみよう)
丸一日が無理なら、せめて一晩だけでも。 誕生日くらいアレンを抱き締めて眠ってやりたい。 ――養父が、いつもそうしてくれたように。
懐かしい記憶に緩く目を細めた時、ナマエはふと視界の端に常とは異なるものを見つけて足を止めた。
「……――ぇ?」
鮮やかな落ち葉の絨毯の中に、小さな丸い何かが埋もれている。 思わず駆け寄った彼女の瞳はその姿を確認して丸くなった。
「鳥――?」
ピクリとも動かない小さな鳥が、円らな目を閉じ横たわっていた。
* * *
「どこかにぶつかって、高いところから落ちてしまったのかしらね」
柔らかい布を敷いた小さな花篭の中で橙色に染まった胸を微かに上下させる鳥を見つめ、ナタリーは沈鬱な顔で、どこか切なげなため息をつく。
「あ、のっ……この子、ちゃんと元気になりますか?」 「………どうかしら」
ナマエの問いかけに僅かに躊躇って答える声が辛そうだった。
血相を変えたナマエがこの鳥を連れてきた時、既に小さな鳥の身体は凍えかけていた上、衝突した際なのか、墜落した際なのか、片方の翼は完全に折れてしまっていて。 獣医でもない自分達には簡単な添え木をして、あたたかくしてやる以外に手の施しようがなかった。 この小さな鳥の命の灯火が消えかけていることは誰の目にも明らかだ。
「――可哀想だけど、この辺りには獣医もいないし、私達にはこれ以上どうしようもないわ」 「っ……」 「ナマエ、気持ちはわかるけど……あなたも仕事に戻りなさい」
酸素不足にならないよう端の方を少しだけ空けて花篭に布を被せ、ナタリーは苦笑しながらもナマエを元気付けるように彼女の肩を掌で優しく叩いた。 その言葉に白いエプロンの端を掌で強く握り締め、ナマエも小さく頷く。 ここにいても、もう何もしてやることはできないと彼女にもわかっていた。
「………」
わかっていたけれど、それでもやはり後ろ髪を引かれる想いを隠し切れず、ナマエはナタリーの後ろで何度もチラチラと背後を振り返り、殊更にゆっくり時間をかけて部屋のドアを閉めた。
* * *
「おい」 「……っ、はい?」 「零すつもりか」 「え………ッ!?うわっ!」
間一髪、とはギリギリ言えないかもしれない。 ナマエの淹れていた紅茶はテーカップから溢れ、ソーサーに零れてしまっていた。 不幸中の幸いはソーサーから更に溢れて白いテーブルクロスを汚してしまわなかったことだ。 神田が声をかけてくれていなければ、きっとそうなってしまっていた。
「すっ、すみません!すぐに新しいカップを用意します……!」 「――……」
わたわたと慌てながらもカップとソーサーの中身を零してしまわないようにトレイに戻すナマエを例の如く観察するような眼差しで眺め、脚を組み換えた神田が小さく鼻を鳴らす。 その音を拾い、僅かに肩を跳ねさせたナマエに神田の瞳が細められた。
「上の空な自覚はあるな?」 「っ……ごめん、なさい」 「謝れっつってんじゃねェ。何かあったなら言ってみろ」 「あ、っと…………いえ、特に何も、」
「――ナマエ」
「!!」
不意に名前を呼ばれ、ナマエの肩が再び跳ねる。 ナマエを真っ直ぐに見上げる神田の瞳に視線を容易く絡め取られ、昏い色のその奥に覗く強い意志がナマエの鼓動を乱した。
「俺は、お前に嘘も隠し事も赦さないと言ったはずだ」
数秒、沈黙が流れ、神田に向かい直ったナマエはそっと目を伏せた。
なぜ咄嗟にも彼にあの鳥のことを隠そうとしたのだろう。 なぜ彼に伝えることを渋っているのだろう。 なぜ、知らせたくないのだろう。
浮かんだ疑問に答えが見つからないまま、彼の言葉に逆らうことができずに口を開く。
「……今朝、庭で鳥を見つけたんです。どこかにぶつかったみたいで、怪我をしていて……それで、」
”助かりそうにない”
それを言うのが躊躇われ、ナマエは言葉を飲み込んだ。
「――それで、今は私の部屋においているんですけど…………それが少し気になってしまって」
『すみませんでした』と頭を下げたナマエの耳に神田が椅子を引く音が届いた。 え、と顔を上げると、立ち上がった神田がじっとナマエを見下ろしている。 徐に伸ばされた彼の手を呆然と見つめていると、それはナマエの頭に乗り、神田の言いつけを守って先日の藍色のリボンを結んでいる彼女の髪を優しい動作でクシャリと撫ぜて離れていった。
「ゅ……ユウ、様?あの、どちらへ」
そのままナマエの横を通り過ぎて部屋のドアへ向かった神田を振り返り訊ねると、顔だけで彼女を振り向いた神田は少しだけ眉を寄せ、頭の鈍いヤツだと呟いた。
「気になるなら、様子を見に行けばいいだろうが」
ドアノブに手をかけた神田が瞳だけで『行くぞ』と促す。 数秒遅れてそれを汲み取ったナマエはハッとして、小走りに彼を追いかけた。 『やはり彼には知らせるべきではなかった』と、言いようのない漠然とした不安と後悔を抱きながら。
* * *
「………駒鳥か」
篭の中で相変らず微かな呼吸を繰り返すだけの小さな鳥を見た神田が言った。 表情は動かない。 彼は淡々と確認するように指先で駒鳥に触れて容態を調べ、ナマエが用意した椅子に腰を降ろした。
「大分弱ってるな」 「っ、やっぱり……もう、ダメ………ですか?」 「――……」
神田は答えず、ただ駒鳥を見つめた。 無表情の中で、彼の漆黒の瞳だけが哀しげな色を滲ませたように思える。 しかしそれはほんの一瞬のことで、ふっと目を伏せた彼は緩慢に頬杖を付き、いつも彼が部屋でそうしているように、物憂げな視線を窓の外へ向けた。
「………もし助かったとしても、この羽じゃ元通りに飛ぶことはできない」
神田の言葉に握られていたナマエの掌に力が篭る。 俯いた彼女の視線の先で駒鳥の羽が微かに震えた。 まるで無意識のうちに、もう一度空を飛ぼうともがいているかのように。
「飛べなく、ても……生きてくれればそれで、いいじゃないですか」
絞り出したナマエの声が震えた。 神田の視線が自分へ向けられたのを感じたけれど、それを受け止めることはできない。 自分の瞳が熱くなっていることに気がついていたから。
この駒鳥の姿に何を――”誰”を重ねているのか、ナマエにはその自覚があった。
細かく震えるナマエの肩を認め、神田の瞳は再び窓の外へ向かう。
「それでお前は、コイツを鳥籠にでも入れて飼い殺すつもりか?」
神田の声は殆ど抑揚のない淡白な響きで、それなのに彼の言葉はナマエの胸を深く衝いた。 弾かれたように顔を上げたナマエを見ない横顔の主はガラスの向こうの寒空を見上げ、ココではない遠いどこかに心だけ切り離して置いてきたような、空ろな声で問いかける。
「飛ぶこともできずに冷たい鳥籠で眠る鳥は、『生きている』と言えるか?」 「っっ……でも、!」
「――俺は、そんな鳥は『死んでる』も同然だと思う」
反論しようとしたナマエを遮り、腰を上げた神田が彼女を通り過ぎる。 後ろを振り向けないナマエの背後でドアが開かれる音の後、神田の言葉が続いた。
「ソイツに妙な情を移すな。辛くなるのはお前だ」
ドアが閉まり、足音が遠退いていく。 その音を黙って見送るナマエの瞳から一粒の涙が零れ落ちた。 胸の中に、どうしようもない哀しさが渦巻いていた。 自分が感じたあの漠然とした不安は、これを予感してのものだったのかもしれない。
(………私、ユウ様、を)
きっと、傷つけてしまった。 この鳥の姿を見せることが、自分の言葉が、彼を苦しめた。 理由はわからなくとも、確信だけはあった。
(だって、ユウ様)
『死んでいる』と、そう言った彼の、垣間見えたあの瞳が、ナマエには泣いているように見えたのだ。
(そんなつもりじゃ………なかった、のに)
彼に、あんな哀しい瞳をしてほしくなかった。 辛い想いをさせたくなかった。 傷つけるつもりなんて、なかった。
(私……私はっ………)
彼には微笑っていてもらいたいのに。 いつも。どんな時でも。 あの穏やかな瞳で。
「っ……――」
濡れた頬を袖口で拭い、ナマエは篭の中の駒鳥を改めて見つめた。
自分がこの鳥に養父の姿を重ねたように、もしかしたら彼もまた、誰かの姿を重ねたのかもしれないと、そう思って。 もしそうであるなら、それが誰なのか知りたくて。
けれどナマエにはそれ以上のことは何も予想できなかった。
自分が神田のことを何一つ知らないような、理解していないような気持ちになり、また泣きたくなるほど痛みを訴えた胸元をぎゅっと握り締め、自らを鼓舞するために首を振る。
知らないのなら、知っていけば良い。 理解したいのなら、そうしようと努力すれば良いのだ。 今、この時からでも。
(こんなの、出すぎた願いかもしれないけど……だけど、)
彼があの日、自分の内側を理解して、凍らせていた悲しみを溶かしてくれたように、今度は自分が、彼をあたためたい。 優しいあの人の心を守りたい。
「………私も、頑張るから。だからお前も頑張って」
元気になって、広い空でもう一度羽ばたく姿を彼に見せてあげてほしい。 ナマエの願い応えるように、篭の鳥がか細く鳴いた。
(13.06.06 修正)
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