”シルシ”をあげる
どこかに行ってしまわぬように 必ず見つけ出せるように
「――今日は街に出る」
神田の風邪が完治してから二日経った日の朝、朝食の席で唐突に彼が言った言葉に、ナマエは紅茶を注いでいた手を止め、ぽかんとして彼を見つめていた。 ナマエがこの屋敷に勤め始めてから一月が過ぎたが、そんなことを言われたのはこれが本当に初めてだったのだ。 彼女の驚きはむしろ、今更それに気づいたことに対するものの方が大きい。
(もしかしなくても、ユウ様がこのお屋敷から出るのって私と初めて会ったあの日以来なんじゃ……)
ナマエ自身は手隙の時に買出しの手伝いを頼まれることもあったので何度か外に出ているが、神田が気晴らしにでも外出した覚えは一度としてない。 彼は大抵部屋に篭って退屈そうに本を読むか、物憂げに窓の外を眺めていただけだ。
「ぁ……でしたら、すぐに馬車の用意をしますね!」
11月も半ばを過ぎ、外はめっきり冬の香りに満ちている。 病み上がりの彼の身体を冷やしてはいけないので、暖かいコートを用意しよう。 彼が出かけている間はナタリーの指示に従って屋敷の仕事をするとして、帰りはいつ頃になるのか後で忘れず聞いておかなければ。 帰ってきた彼に、すぐに淹れ立てのお茶を出してあげたいから。
紅茶を淹れ終えたティーカップをテーブルの端に置き、これからすべきことを頭の中で整理していると 横顔にじとっとした視線がチクチク突き刺さるのを感じた。 考えるまでもなく、そんなことをするのは彼女の主である神田だけだ。
「……あの、何か?」 「わかってねェようだから言っておくが、お前は同行だぞ」 「――え、?」
頬杖をついた彼に呆れた風に言われ、ナマエの目が丸くなる。 そんな彼女に神田はこれ見よがしに小さくため息をついた。
「お前は俺の侍女だろうが」 「っ…で、でも……私、お洋服もないですし……誰か別の人に、」 「服のことならナタリーに言え。昼前には出るからすぐに支度して来い。わかったな?」 「っ、はい!」
遮るようにピシャリと言われ、ナマエは反射的に背筋を伸ばして返事をしていた。 が、満足げに目を伏せた神田の視線が自分から逸れた後、我に返った彼女に後悔の波が押し寄せる。 正直なところ、ナマエには見目麗しいこの主の隣を歩く自分の姿が想像できなかったのだ。
(ぅ……や、やっぱりナタリーさんに代わってもらえないか頼んでみよう)
しかし彼女のそんな切実な願いはこの後、とてもいい笑顔をしたナタリーに一蹴されることになる。
* * *
「………」 「………」
揺れる馬車の中、向かい合って座った神田とナマエは互いに無言だった。 一方は足を組み窓枠に肘を預け、興味深げな眼差しで相手を眺め、もう一方はと言うと、その視線に耐えかねて顔を伏せ、居心地が悪そうに縮こまっている。 言うまでもなく前者が神田、後者がナマエであった。
(すごい見てる……!!)
膝の上で掌をキュッと握りしめるナマエの顔と瞳に熱が昇る。 いっそ泣きたい気持ちになりながら、そろりと上げた視線で窓の外を見ると、ガラスには薄っすらと自分の姿が映りこんでいて、ナマエはもう一度俯かずにはいられなくなった。
(やっぱり…こんなの、似合わない)
袖口にまで可憐なフリルがあしらわれた藍色のドレス。 膨らんだスカートに、腰の大きなリボンが気になって座り辛い。 階段を降りる時だって丈の長いスカートで足元が見えずもたついてしまった。
侍女とは言え、高い身分の主に同行するのだからきちんとした格好をするべきなのはわかる。 けれどこれは――明らかなナタリーの悪乗りだと思わずにはいられない。
(ユウ様、何も言わないけど……怒ってるのかな)
「――頭」 「……っへ?」
突然口を開いた彼に数秒遅れナマエが上擦った返事をする。 弾かれたように顔を上げたナマエを見つめる神田は相変らず無遠慮に彼女を眺めていた。
「帽子も揃えさせたはずだが?」 「えっ、あ……!あのっ…それはさすがに……私には不相応過ぎると、思って、」 「……」
ナタリーがどこからか出してきたこの新品のドレス一式の中にはドレスに合わせた流行り物の帽子もあった。けれど、ナマエは強くそれを断ったのだ。 まだ綺麗に纏められる長さには達していない髪を隠すには丁度良かったのかもしれないけれど、それでも、良家の子女にこそ相応しいあんな帽子を自分が被るなんてできなかった。
(――…って、あれ?『揃えさせた』、って……)
ナマエの頭をふと疑問が過ぎったとき、タイミングよく馬車が止まり、御者から声が掛かった。 無言の神田が腰を上げドアを開けて外に出たのでナマエも慌ててそれを追う。 踏み段を降りるため慣れない動作でドレスの端を持ち上げると、視界の端でスッと掌が差し出されたのが見えた。
「ほら、掴まれ」 「……っえ!」
『手を貸してやる』と言われているのだとわかり、ナマエの頬がカッと赤くなった。 そのまま驚きのあまり固まってしまった彼女に神田はまたため息をついて、白い手袋を嵌めた手で、少しばかり強引に彼女の手を掴まえてしまう。
「足元、気をつけろよ」 「ぅ、あ…はっ、はい!」
何なんだろう。 どういう状況なのだろう、これは。
神田の手に掴まり、不必要なほど慎重になって馬車を降りながらナマエはひどく混乱していた。 火照って仕方がない頬を冷たい北風が撫でる。きっと今、手袋越しに触れている神田にも異常に高い体温が伝わってしまっているだろう。 恥ずかしくて彼の顔を見ることできない。 ナマエがそうしてまた俯いている間に神田は御者と少し話をして、くるりとナマエを振り向いた。
「少し歩く。行くぞ」 「は…ぃ、?」
咄嗟に返事をしようとしたナマエの声が裏返りそうになる。 神田が、左腕の肘を少し横に張ってナマエを待っていた。 その意味がわからないわけではないからこそ、ナマエは再び言葉を失って固まる。
「ぁ、あの…っ、あの、ユウ様、」 「早くしろ」 「っっ〜〜〜!」
立ち止まって待っている神田の目が、反論を許さない。 その眼差しに射抜かれ、ビクリと肩を跳ねさせたナマエはそれでも更に数秒逡巡し、やがて意を決したように恐る恐る彼の元へ歩き出すと、差し出された肘の内側へ控えめに手を添えた。 瞬間、神田の瞳がふと和らぐが、俯いたナマエには見えていない。 真っ赤になってしおらしく黙り込む彼女がおかしくて神田はつい小さく笑い声を漏らしてしまった。
(!!?わ、笑われた……!!)
本当に何なんだ。 これは新手のイビリだったりするのか。揶揄われているのか。
ぐるぐるとマイナス方向に考え出すナマエを無視して神田がゆっくりと歩き出した。 当然、腕を組んでいるナマエもそれにつられ、二人並んで歩くことになる。 すぐ傍に感じる神田の気配のせいでナマエの頬に昇った熱は当分引いてくれそうにない。
(お……おかしい!だってこんなっ…普通侍女が雇い主と腕組んで歩いたりしない!)
男女で腕を組んで歩くなんて、そんなのは――
「おい」 「ッ!!」 「?、そこの店に入るぞ」
見上げた神田が微かに訝しむような目で自分を見ていることに気づき、ナマエは急いで頷いた。
(私っ、何考えてるんだろう……!!)
先ほどの自分の思考が堪らなく恥ずかしい。 もしも神田に知られてしまったら死んでしまいたい。 そこまで思いつめてまた縮こまるナマエの紅潮した横顔を、神田は一層不思議そうに観察していた。
* * *
(うわ、ぁ……)
きょろきょろと辺りを見回したナマエの内心で感嘆の声が零れる。 神田が訪れたのは仕立て屋の看板が掛かった店で、優しい灯りに照らされた店内には女性用の美しいドレスが所狭しと並べられていた。
「その辺の、適当に見て待ってろ」 「あっ…わかりましたっ!」
返事をして神田の腕から手を離すと、彼はスタスタと奥のカウンターへ向かう。 店主と何か話をしているようだ。 少しして、二人はカウンターの更に奥にある扉の向こうへ行ってしまった。
その場に残されたのはナマエ一人だけ。 知らない場所に置き去りにされたような、何となく心細い気持ちになりながら、ナマエはそんな気分を振り払うように近くにあったドレスの一つをじっと見つめてみた。 触ってはいけない気がするので、実際に触れて確かめることはしないけれど、ナマエが見ただけでもかなりいい品物だということがわかる。 手触りが良さそうな生地は鮮やかな色に染められ、そこかしこをフリルとリボンで飾り立てられていた。
(可愛い……けど、これじゃ家事はできないなぁ)
ふと気づいて、ナマエは自分の思考に苦笑した。 家事をする必要なんてないのだ。こういう服を常日頃から着る女性達には。 だからこれでいい。家事ができないデザインであってもなんら不都合はない。 ぐるりと店内を見回してみても、ここにあるドレスは全てその手のものばかりだった。
(……こういうお店に用事があるってことは誰か、女の人に贈り物でもするのかな)
今までそんな話は聞いたこともないし、神田にそんな素振りもなかったけれど、それ以外に彼がここに来る目的なんてナマエには思いつかない。 自分が知らないだけで、神田にはもう心に決めた人がいるのかもしれない。 あるいは、上流階級の彼のことだ。既に婚約者が決まっているのかも。
「――……っ」
自分以外の誰かに優しく触れ、微笑みかける神田を想像した途端、ナマエの目の前が急にぼやけた。
胸が締め付けられたように苦しい。痛い。 苦く重い何かが喉まで込み上げてくる感覚。
(これ、また……っ?)
似たような感覚を前にも体験したことがあった。
あれは確か、ラビが神田の名前を呼んだ時のことだ。 だけど今回は――あの時とはまた、何かが違う気がする。 ナマエ自身にもハッキリとはわからないけれど、あの時よりも、もっと、
(……もっと、…これ、は)
”かなしい”――?
「――気に入ったのがあったか?」
「ッッ!!」
背後からいきなり神田に声をかけられ、ナマエの肩が飛び跳ねた。 いつの間に戻ってきていたのかと驚く彼女を綺麗に無視して、神田は彼女が先ほどまでぼんやりと視線を向けていたドレスの裾を手に取り、それをマジマジ見つめる。
「……蘇芳か。お前ならもっと違うのが合うと思うが、これが良いなら買ってやる」 「…………え、」 「おい、これのコイツに合うサイズはあるか?」 「――っ!!なっ…まっ、ユウ様!!」
神田の言葉を理解することができず、呆然としてしまったナマエを放って神田が店主を呼びつける。 そこで漸く我に返った彼女は必死になって神田の腕を引いた。
「いいですっ!私にはそんなの必要ないですからっ!!」 「買ってやるって言ってんだ。大人しく受け取れ」 「だからっ!いらないんですってば!!」
店主を前に言う台詞ではない。 苦笑いする店主に気づいてはいたけれど、ナマエはハッキリそう言うしかなかった。 忘れていたが、自分の主は少し金銭感覚がおかしいのだ。 あのドレスを買う金があればナマエは優に弟と二人で半年食べていける。 どうにかこうにか彼を引きずって何とか店の外に出た時には、ナマエは冗談抜きに息切れしていた。
「……っ、ユウ様…『浪費家』って言われたこと、ありませんか?」 「お前こそ『守銭奴』って言われるだろ」 「……」 「……」
嫌味に嫌味で返された。 ナマエは確かに自分に少し節約家な面がある自覚を持っていたけれど、今回の件に関しては絶対に自分が正しいという自信がある。 とは言っても、ナマエだって年頃の女の子だ。 綺麗なドレスを見れば心が躍るし、欲しくないと言えば嘘になる。 けれど、彼女はあくまで使用人。あんな綺麗なドレスを買い与えられたとしても、着る機会がなければ無駄になるだけ。 それがわかりきっているのに受け取ることはできない。
押し黙ることで断固とした意志を示せば些か不満げな神田はそんな彼女に肩を竦める仕草をする。 それでも彼は気を取り直そうとするように彼女に背を向け、淡々と言った。
「行くぞ」
左腕の肘を少し差し出して。
* * *
それから暫く、ナマエは目的地も知らされないまま神田と並んで街を歩いた。
この時期だから昼間であっても人通りはまばらであるが、やはり彼の容姿は人目を引くらしく、特に若い女性の視線が集まってくる。 神田本人は殆ど気にしていないようだが、ナマエの方がキツかった。 神田へ向けられる熱い視線はその数秒後、もれなくナマエに対する冷たいそれに変貌を遂げるのだ。 目を眇めてナマエを見る女性達が道の端でヒソヒソと顔を寄せ合う光景を見る度、胃が痛む。 やはり帽子を被ってくれば良かったと、ナマエは少しばかり後悔してしまった。
「……おい」 「、はい?」
当てもなく歩いていたように思える神田が急に立ち止まり、ナマエは首を傾げながら彼を見上げた。 一瞬、彼の唇が何か言いたげに動くが、なかなか続かない。 ナマエが黙って待っていると、彼は自棄になったように小さく舌打ちし、ふいと顔を背けてしまった。
「……お前は、どこか行きたいところはねェのか」 「行きたいところ、ですか?…えっと、特には……」
何を言い出すのだろうと思えばそんなことを訊ねられ、ナマエはきょとんとしながら応えた。 が、応えた後になって一つだけ思い当たる。 ハッとして辺りを見回すと、そこは既にナマエの知っている町並みの中だった。
(ここなら確か…もう少し行けば――)
「あのっ…ユウ様、たくさん歩きましたし、そろそろお腹すいてませんか?」 「あ?」 「近くにパン屋があるんです!だからっ…ユウ様さえよければ、そこで何か……」
懸命に何気ない風を装って提案するナマエに神田の瞳が細まる。 その眼差しは決して冷えたものではなく、むしろどこか安心しているような、優しいものだった。 ナマエの胸が、トクリと跳ね上る。
『案内しろ』と、唇の端を微かに上げて言った彼に一拍遅れてコクコクと頷いたナマエは、またしても赤くなってしまっているだろう頬を隠すため、俯きながら早足で歩いた。
そうして更に数分後、二人は一軒のパン屋の前にたどり着く。 だと言うのに、ここまで来ておいて今更ナマエの足が止まっていた。 大きなガラス窓越しに店番をしている少年の姿が見えて、彼女は怖気づいてしまったのだ。
(――アレン…いる……!ちゃんと店番してる!!)
実に一ヶ月ぶりに見る弟の姿。 しっかりと店番をしている彼が眩しく輝いて見える。 本当なら今すぐこのドアを開けて抱きしめたいほどなのに、ナマエにはそれができなかった。 問題は、今の自分の服装だ。
「……いつまで盗み見してるつもりだ」 「っ!!ぁ、だっ、だって……!」
いつまでも物陰に張り付いて中の様子を窺っているナマエを神田が先程とは違う白い目で見ていた。 もごもごと口篭りながら言い訳を探す彼女に、彼の中の何かが切れる。 大きく舌打ちした神田が問答無用でナマエの腕を引っ掴んだ。
「ウジウジしてんじゃねェ!!弟に会いに来たんだろうが!!」 「(バレてる!!)ぅ、え、やっ…!待ってくださっ…待ってください!ユウ様!!」
通行人の生温かい視線も気にしていられないほど狼狽したナマエが声を張って彼を止めようとするが、話を聞く気のない力押しの相手にそれが通用するはずもなく。 ナマエの腕を捕まえているのとは逆の神田の手が遂にパン屋のドアを開けてしまった。 何事かと目を見張ってこちらを振り向いたアレンの銀灰色の瞳が、真っ先にナマエの姿を捉える。
「――ナマエ……?」
震えた声に名前を呼ばれ、ナマエがそっと視線を上げた。
視線が繋がった途端、彼の瞳からポロリと涙が零れたのを見て、ナマエの鼻の奥がツンと痛み、瞳がじわじわ熱くなる。
「……久しぶり、アレン。元気にして、」 「ナマエっっ!!」 「っ、!」 ナマエが言い切る前に、駆け出したアレンが彼女の腰に飛びついた。
その勢いによろめいてしまったナマエの背を神田の掌がさりげなく支えてくれる。 チラリと見上げた彼の横顔は眉を顰めていたけれど、その表情の中に不機嫌さは微塵も見つからない。 つまりは、照れ隠しなのだ。 気づいたナマエは思わず破顔して、自分に抱きつくアレンの小さな背中を改めて抱き締め返した。
「元気にしてた?お店番、しっかりしてるんだね。見ててビックリしちゃった」 「うんっ…僕は元気だよ。ナマエこそその格好どうしたの?すっごく可愛い!どこかのお嬢様かと思っちゃった!」
この齢にして末恐ろしい、口のうまい子だ。 普段はこのドレスとはかけ離れた物を着ていたのだから、それを見慣れている彼には違和感しかないだろうに、咄嗟にナマエの心境を読み取り、お世辞を言ってくれたと見える。 けれどナマエにしてみればアレンのそんなところも可愛くて仕方がないだけだ。
やっと顔を上げ、涙を拭ってニコニコと笑うアレンに『ありがとう』と微笑み返し、ナマエは彼の肩に手を置いたまま、自分の隣に立つ神田を視線で示した。
「アレン、この人が今私がお世話になっているお屋敷の若旦那様」 「……はじめまして、僕の姉がお世話になっています」 「……」
(……あれ?)
目の錯覚だろうか。 神田とアレンの間でバチバチと火花が散ったように見えた。 心なしか、アレンの朗らかな笑顔に黒い影が射しているようにも感じられる。
漂う不穏な空気にナマエの顔が引き攣りかけた丁度その時、背後でドアが開き、その上部につけられていたベルがカランカランと感じの良い音で鳴った。他の客が入ってきたのだ。
「えっと…私はそこのサンドイッチを一つもらおうかな。ユウ様はどうしますか?」 「……同じので良い」 「はい。じゃあアレン、サンドイッチを二つ包んでもらえる?」
長居をしてアレンの仕事の邪魔をするわけにはいかない。 そんなナマエの内心を汲み取ったのか、アレンは一瞬だけ寂しげな顔をしたが、すぐに頷き、綺麗に包んだサンドイッチを二つ紙袋に入れてカウンターに用意した。 ナマエが代金を払おうと鞄の中を探っている間に紙袋を受け取った神田が一握りのコインを置く。 パッと見ただけでも、それは代金より随分多めの金額だった。
「ユウ様、あのっ……」 「残りはテメェの夕飯代にでもしとけ」 「………アリガトウゴザイマス」
ナマエを無視してアレンに言った神田に、アレンから返されたのは感情の伴わない笑顔と感謝の言葉だった。 しかし神田はそれを気にした風もなく、踵を返して足早に店を出て行く。 ナマエはヒヤヒヤしながらそんな二人を見守り、神田が外に出た後になって漸く肩を降ろした。
「……じゃあ、私ももう行くね。お店番頑張って」 「………うん。あの、さ…ナマエ」 「ん?」 「……会えて、嬉しかった。だからまた、会いに来てね…?」
恥ずかしそうに薄っすら頬を染めて、アレンが言う。 まだ幼いそんな姿に胸を締めつけられるのを感じ、ナマエは最後にと、もう一度カウンター越しにアレンを抱き締め、彼の頭を優しく撫でた。
「今度、お休みもらえたら必ず帰るから。それまでお互い頑張ろうね」 「っ……うん!」
本当に嬉しげに笑ったアレンの額に軽く口付け、ナマエは後ろ髪を引かれつつも彼に手を振り、先に店の外に出ていた神田の後を追いかける。 隣の店の壁に背を預けていた彼はナマエの顔を見るなりフンと鼻を鳴らした。
「……ユウ様、さっきは」 「紙幣だとまたお前がごねるからコインにしたんだ。文句は言うなよ」 「………え?」
礼を言おうとしたのを遮った彼の言葉の意味がわからず、数秒きょとんとしてしまう。 が、それを理解した時、ナマエはふっと笑ってしまわずにはいられなかった。
「文句は言いませんから、お礼を言わせてください」
「ありがとうございます。ユウ様」
「……」
顔を背けて歩き出した神田が再び鼻を鳴らした。 そんな彼に小走りに追いつき隣に並んだナマエは、はにかんだ顔で今度は自分から彼の腕にそっと手を回す。 頬を刺す冬の風も、神田に寄り添えば少しだけあたたかくなったように感じられた。
* * *
「なんだか懐かしい気がします」 「そうか?」
公園の、噴水の淵。 初めて出会ったその場所に並んで腰を降ろし、二人は同じサンドイッチを頬張っていた。 考えてみれば、あれからもう一月だ。 屋敷での仕事は目まぐるしくて、一日一日が駆け足で通り過ぎていった気がする。 それでも今は大抵の仕事は覚えたし、効率も良くなってきた。 唯一つわからないのは相変らず気難しいこの主のことだけだ。
(……でも、ユウ様が優しい人だってことはハッキリしたかな)
やはりあの時感じた自分の勘は当たっていた。 ナマエにはそれがとても嬉しく思えて、つい頬を緩ませてしまう。 と、それを引き締めようとした拍子に余計に力が入ってしまった手元からパン屑が零れた。
「ぁ……っ」
折角の綺麗な洋服だ。汚してしまうのは申し訳なく、急いでパン屑を払う。 彼女のその姿を見た神田がふと思い出したようにコートのポケットを探った。
「……ほら」 「え?」
サンドイッチを食べ終わったところで取り出した白い小さな紙袋を手渡され、ナマエは自然と受け取ってしまったそれを不思議そうに見つめた。 『開けてみろ』と神田に促され、まだ状況を飲み込めないまま大人しく彼に従う。 袋の中から出てきたのは端に黒いレースの付いた、ドレスと同じ藍色のリボンだった。
「ユウ、様……これ、」 「やる」 「ぅ、えっ!?」
『そんなわけには』と、意味もなく両手をわたわた横に振るナマエからリボンを取り、神田はいつもの有無を言わせない声音で言った。
「後ろ向け。つけてやる」 「ゃっ…でも、ユウ様……!」 「コレで首絞められてェか?」 「!!」
冗談だとわかってはいたけれど、一段低い声に脅されて凍りついたナマエは両肩を掴まれ、神田に背を向ける体勢にさせられてしまった。 少し強引にされたので、ちょっとだけ腰が痛い。 しかしその痛みを感じたのも神田の手が髪に触れるまでのことだった。
(あ、ぅ……う!)
彼の手が髪を優しく梳いて幾筋かを掬い上げる。 たったそれだけのことなのに背筋がゾクゾクして、心臓が破裂しそうだった。 家族以外の男性に髪を触られるなんて生まれて初めてだ。緊張しすぎて、動悸がおかしい。
そうしてナマエがガチガチに固まり、何も言えずにいる間に神田は手早く彼女の髪の一束を纏め、藍色のリボンを器用に結びつけ終えていた。
「――帽子は嫌でも、これなら気にならねェだろ」 「……!」
振り向いたナマエに、神田がふっと微笑う。 ナマエの胸を掻き乱す、あの穏やかな微笑みだった。
「ん……まぁまぁ、ってとこだな」 「そ…それって褒めてるんですか?」 「『馬子にも衣装』」 「っっ!ユウ様の意地悪!!」
真っ赤になって叫んだナマエがよほど面白かったのか、神田が口元を隠し、肩を震わせながら声を殺して笑う。 彼がそんな風に笑うのを見るのも初めてで 呆気に取られたナマエはそれ以上怒るに怒れず、ぐっと言葉に詰まって逃がした視線の先で、噴水の水面に映った自分の髪に揺れるリボンを見てしまい、今度は耳まで赤くなった。
(13.06.06)
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