サザナミタウンでの休暇を終えてからというもの、ナマエ様は何か迷いを断ち切るように、ポケモンバトルに励むようになりました。 あの日出会ったゲンガーとバチュル。それ以外にパーティーを増やすことはありませんでしたが、その成長は目覚ましく、我々サブウェイマスターでさえ目を見張るものがありました。 それこそ、手持ちの数が規定に達していたならバトルサブウェイに挑戦して頂きたいと思うほどに。
それに、以前と比べてナマエ様はよく笑うようになった気がいたします。 恒例になった出勤前の頬への口付けも、前は戸惑って固まっていただけでしたのに、今では笑ってわたくしを送り出してくださるようになりました。 それはわたくしにとっては嬉しい反応であったはずなのに――手放しに喜べなかったのはやはり、ふとした瞬間、その笑顔の中に影が射すことを知っていたからでしょう。
わたくしを見つめるナマエ様の瞳は時折、薄らと張った涙の膜で潤んでいるように見えました。
――わたくしは、それを確信してしまうことが恐ろしかった。 訊いてはいけないと、本能的に悟っていたのです。
そうして臆病風に吹かれ、涙の理由を訊ねることもできないままあっという間に数か月が経ち、ライモンシティは間もなく、冬を迎えようとしております。
(――おや、珍しい)
書類整理のため定時を少し過ぎてから帰宅し、リビングに入るとナマエ様はベランダに出ていらっしゃいました。 その傍らには頭にバチュルを乗せたゲンガーの姿。 何を話しているのかは聞こえませんが、ゲンガーはナマエ様を見上げながら何度か頷くと、やがて飛び込むようにナマエ様に抱きついて――困ったような微笑を浮かべながらそれを受け止めたナマエ様が、不意にこちらを振り向く。
その瞳に捉われた瞬間、胸が、ざわりと騒ぎました。
「……――その様な薄着では、風邪をひきますよ」
呼ばれている気がして、鞄をソファの横に降ろし、わたくしもベランダに出る。 着ていたコートを脱いでナマエ様の肩にふわりと羽織らせて差し上げると、「ありがとうございます」とはにかむナマエ様の腕の中で、ゲンガーとバチュルがなにか言いたげにワタクシを見上げました。 けれど、その眼差しを追及する前に、ナマエ様が取り出したモンスターボールの中に二匹の姿は消えてしまう。
二人きりになった静かなベランダで、ナマエ様はゆっくりと夜空を仰ぎました。
「――ねぇ、ノボリさん。今更なんだけどさ、」
ぽつりと話し出したナマエ様の横顔を、静かに見つめる。 月明かりに照らされた白い肌はどこか神秘的で、それがなぜか、無性に不安を煽った。 目の前の、この人が――今にも消えてしまいそうだ、と。
「サザナミタウンで、ゲンガーに閉じ込められた時……あの時さ、外からはあの洋館が見えてなかったんですよね?」 「――……えぇ、そうですね。わたくしにも空地にしか見えませんでした」 「だったらどうして、俺がそこにいるってわかったんですか?」
何を、言い出すかと思えば。 本当に今更な疑問に、つい苦笑いが隠せない。 そのようなこと、わざわざ訊かなくともわかっていらっしゃるでしょうに。
「ナマエ様が、わたくしを呼んでくださいましたから」
「 ぇ、?」
(――そう、あの時)
『――ノボリさんッ!!!』
確かに聴こえたのです。 必死にわたくしを呼ぶ、ナマエ様の声が。
「き、こえて、たんですか……」 「当然でございます」
呆然として私をわたくしを見つめ返す瞳に吸い寄せられるように、白い頬へ手を伸ばした。 夜風に触れて冷たくなってしまっていたそこに、じわりと熱が生まれる。 思わず頬を緩ませれば、それは一層熱くなった。
「――わたくしは、わたくしを呼ぶあなた様の声を、聞き逃したりはいたしません」
「『あなた様はわたくしがお守りいたします』――そう、約束したでしょう?」
小さく息を飲んで、ナマエ様がパッと顔を伏せる。 けれど、頬を包んだ手を拒みはしない。
訪れた静寂の中、ナマエ様の片手は躊躇うように一度空を握りしめて、やがてわたくしの手にやんわりと添えられました。 その仕草にドキリと心臓が飛び上がり、全身に響き渡る鼓動に紛れて喉が鳴る。 それに気づかなかったはずはないのに、押し当てたわたくしの掌に熟れた頬を寄せたナマエ様は、目を細めて綺麗に――そして、ひどく儚く微笑った。
「そ、ですね……ノボリさんはいつも、俺を守ってくれた」 「――……っ」
どうして、ですか。ナマエ様。
なぜ、そのようなことを。 なぜ、そのように――泣き出しそうな顔で、おっしゃるのですか。
(……まるで、)
別れの時が 近づいているかの、ような。
「“最後”に、もう一つだけ教えてよ。ノボリさん」
ナマエ様の唇から紡がれる一言一言が、のたうつ心臓に突き刺さる。 遠ざけたかった確信が、けたたましい警告音のような耳鳴りの中で嘲笑う。 微かに震えた息遣いの先を、聞いてはいけないと、わかっているのに。
「――前に、言ってくれたよね。ノボリさんが、俺の……この世界での家族だ、って」
鏡のようにわたくしを映す澄みきった瞳から、逃れられない。
「それは…今も、同じ……?」
「“それ以上”は、いらない?」
「ッッ……!!」
頬に触れていた手を、反射的に離した。
それは恐らく、無意識の内にも自分の本心が伝わってしまうことを恐れていたから。 あれほど気づいてほしいと、届いてほしいと願っていたのに 今、それが叶ってしまえば、すべてが終わってしまうような気がしたから。
――だと言うのに、ひたすらに答えを待つその視線が、偽りを赦さない。
「 わ、たくし は、」
やっとのことで絞り出した声は、無様に掠れ、震えておりました。 それでも、今までギリギリのところで歯止めを掛け黙殺してきた慕情が、ようやく与えられた捌け口に向かって堰を切ったように溢れだして、止まらない。
これ以上はもう、苦しくて 息が、止まってしまいそうで
留めて、おけない。
「ナマエ、様……わたくしは、ずっと、」
きっと、出会ったあの日からずっと、
「あなた様、を―― 」
抑えきれないその先の言葉は、声になる前に重なった柔らかな感触の向こう側に溶けていきました。
一瞬、何が起こったのか理解が追い付かず 唇を掠めた甘い吐息と共にぼやけるほど近かったナマエ様の顔が遠ざかっていくのを、ただ見送ることしかできない。 しかしネクタイを掴んでいた手がそっと離され、伏せられていた瞳が再びわたくしを捉えて細められた時、その姿はいよいよ月明かりの中に消えてしまいそうで――
咄嗟に薄い肩を掴み、言葉の出てこない喉を絞ったわたくしに、ナマエ様は今にも泣きそうな、そんな顔で笑った。
「――“恩返し”、させてよ。って言っても俺、何も持ってないから大したことなんてできないけど……でもさ、」
肩を掴んでいた手に、ナマエ様が触れる。 繊細な指先が、慈しむように手の甲を撫でる。
「俺だって、子供じゃない、から」
微熱の沈むその眼差しに、疼痛と眩暈が しました。
「ッ――ご自分が、何を言っているか、わかっているのですか」 「わかってるよ。でも、本当にそれくらいしかできないから」 「馬鹿なことを……ッ!!そのようなことをして、後悔するのはッ」
「後悔したくないからっ!!だから言ってんだ……!!!」
悲鳴のようなナマエ様の叫びが夜の空気を震わせる。
今や瞬き一つで簡単に零れ落ちてしまいそうなほどに厚くなった涙の中で、月の光が揺れた。 それに気づいてしまえばもう、抗うことなどできはしない。
「ノ ボリさん、俺……っ」
ゆっくりと伸ばされた両手がもどかしく頬を撫で、そのままわたくしの耳を塞ぐ。
「 好きだ 」
「 あんたが、好きだ 」
ナマエ様の頬を、青白い月の雫が零れ落ちた。
懸命に微笑もうとしていた震える唇が囁いた言葉は、わたくしに届かぬまま消えていく。
その小さな体を攫うように胸に掻き抱き、それ以上何も考えないように 何も考えさせないように 纏わりつく湿った夜の中でひたすらに愛しさを刻みつけ 無垢な躰に迸る想いを注ぎ込んで
この熱が永遠に消えないように、と 繋いだ手が、絡めた指が、どうか離れないようにと 祈った。
――ナマエ様がわたくしの前から姿を消したのは、その翌日のことでした。
(13.02.20)
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