はたして、こんなことがありえてしまうのだろうか。
「………」
相変わらず頭上では脅かすように雷がゴロゴロ鳴って、窓の外はこれでもかと言うほどの土砂降りの雨。 この洋館に逃げ込む前までは全然そんな予兆なんてなかったのにこれだ。 妖しげな館に閉じ込められて身動きがとれなくなるなんて、定番すぎて笑えもしない。
(今、何時くらいだろ……)
もう何時間もここにいるような気もするし、まだ数分しか経っていないような気もする。 正直自分がこの状況にかなり参ってしまっている自覚はあるから、体内時計なんてあてにならない。 こんなことならライブキャスターをつけてくれば良かった……なんて思っても後の祭りだ。 沈黙に包まれたエントランスの中で、いつも以上にうるさい自分の心臓の音が耳に木霊するように響いていた。
「……あの、さ」
息苦しい空気に耐え切れず、意を決して俺の隣で膝を抱えている女の子に話しかけてみた。 俯いていた顔を上げて、前髪の隙間からあの赤い目が俺を見上げる。 『なに?』と言いたげな視線はひたすらに透明で、そのことだけが自分の中に僅かに残った冷静さを支えてくれていた。
「今更なんだけど……ここは、君のうち?」 「………」
無言のまま頷く返事に、やっぱりそうかと内心で呟く。
「他の人は?君ひとりで住んでるの?」 「――……」
頷くまでに、数秒の戸惑いのような間があった。 静かに首を縦に降り、膝を抱え直して俯く横顔に、罪悪感にも似た申し訳なさが募る。 ちょっと信じられない……と言うか、信じたくないという気持ちは強いんだけど、それでもさすがになんとなく、この状況が――この子の“正体”がわかってきた。
(ホラーは苦手なんだけどなぁ……)
……だけど、なんでだろう。 自分でも不思議なくらい、この子に対する恐怖なんてものはない。 その感覚こそ危険なんだと言う話も聞いたことはあるけど、でもどうしてもそうなんだからもう仕方がないだろ。
「――……そっか」 「!」
気がづけばまた、頭を撫でていた。 そうすると、女の子がピクリと肩を揺らして、もう一度俺を見上げる。 その瞳に溢れだしていた感情がストンと胸の中に落ちてきた時、妙に納得した。
(そうか――きっと、この子と俺は……)
『――ナマエ様!!!』
「ッ!!!」
激しい雨音に紛れて、声が、聴こえた。
考えるよりも早く、身体は何かに弾かれたように立ち上がって、窓の外に目を凝らす。 聞き間違いなんかじゃない。 視界を遮る雨粒の向こう側から、見慣れた人影が走ってくる。
ノボリさんが、呼んでる。
「……っ!」
来てくれた。 ―――やっぱり、あの人が来てくれた。
心のどこかでそれを期待してた。 助けに来てくれるのを――迎えに来てくれるのを待っていた。 根拠なんてないのに、ただ信じていた。
それを自覚した瞬間、なんか、どうしようもなく胸がつかえて、鼻の奥がツンとして。 限界まで張りつめて零れ落ちてしまいそうな気持ちを、震える息を、奥歯でぎゅっと噛み殺す。
ああ、どうしよう。いつの間に、こんな。
――嬉しくて、泣きそうだ なんて。
「……ご、めん。俺さ、もう帰らなきゃ」 「っ!!」 「君も元気で、な?」
不安げに俺を見る女の子の頭を、最後に優しく撫でて、背を向けた。
外からはまだノボリさんの声がしてる。 きっとたくさん心配をかけただろうから、早く謝らないと。 多分また怒られるだろうけど、だけど今は、そんなことどうでもいいんだ。
(――早く)
そう、一秒でも早く、ノボリさんに、
『 ダメッッ!!!! 』
「ッ、ぇ――?」
なんだ、今の。 頭の中に直接響くような、悲鳴が聞こえた。 その瞬間、ドアに向かって歩き出していた身体が急に動かなくなる。 まるで見えない糸が全身に絡んでるみたいに、指先一つまで身動きが、とれない。
(ッこれ、金縛り――!!?)
「 、ッ!!?」
嘘だろ、おい。 動けないどころか、今度は声まで出ない。 何かに喉を締めつけられてるみたいに苦しくて、息が、詰まる。
ちょっと、待て。これは本気で……!!
『 行かないで 』
「!!」
背後から、またあの声がした。 振り向けないから確認はできない。だけど、わかる。 背中から回って来たヒンヤリと冷たい腕が、縋るように俺に抱きついて、離さない。 ――これは、あの子の声だ。
『 行かないで。ワタシの傍にいて 』
「 ぁ、…ッ」
悲しい、声だ。今にも、泣きだしそうな。 母親に縋ろうとする小さな子供に似た、幼い声。 抱きつく腕は小さく震えて、だけど絶対に俺を離そうとしない。
『 ひとりぼっちに、しないで――!! 』
悲痛な叫びが、一直線に胸を衝く。 今すぐ駆け寄って、抱きしめてあげたくなるような、そんな衝動が込み上げた。
この子の姿が、この世界に来たばかりの頃の自分と重なるようで――世界から自分だけが切り離されたかのような、凍えそうなほどの不安を、俺も知っていたから。
――だけど、
(……ごめん。やっぱり、ダメだ)
俺はその願いを叶えてあげられない。 だって、俺は
「 り、さ……ッ」
俺はもう、気づいてしまった。
「――ノボリさんッ!!!」
目を逸らしても、隠しても、抑えきれずに流れ出す、自分の本当の気持ちに。
『シャンデラ、シャドーボール!!』
「!!?」
ノボリさんの声に続いてもの凄い音がして、外へ繋がるドアがいきなり吹き飛ばされた。 衝撃でエントランスのホコリが舞い上がり、一瞬視界が悪くなる。 そんな中、思わず閉じてしまった目を開けると、シャンデラと一緒に駆け込んでくるノボリさんの姿。
「ナマエ様……!!」
エントランスを見渡して、俺を見つけたノボリさんが真っ直ぐに駆け寄ってくる。 心配と、安堵が入り混じった、泣き笑いみたいな顔。 胸の奥がジンと甘く痺れて、冷え切っていた身体に熱が溶けだしていく。 身体が自由だったなら、俺はなりふりなんて構わず、迷うことなくその腕の中に飛び込んだだろう。
だけど背後から聞こえたあの声が、もう一度胸を凍りつかせた。
『 こないで!!! 』
叫び声と同時に、視界の端で何かが揺れた。
そのシルエットを追いかけると、天井に取り付けられた大きなシャンデリアがグラリと傾き、今まさに落下してくるところだった。 ――脇目も降らずに走ってくる、ノボリさん目がけて。
「――ッッ!!!」
心臓が、止まるかと思った。
気がつけば、動かなかったはずの身体は女の子を振りほどいて、ノボリさんに向かってる。 間に合うかどうかなんて、そんなの頭になかった。 ただ必死だった。
ノボリさんの目が見開かれるのが 伸ばした手で突き飛ばしたノボリさんの身体が後ろに傾くのが 全部が全部スローモーションみたいに見えていた。
ガラスが砕ける音も、身体の感覚も、意識も、何もかもが遠い。 正直、何が起こったのか――自分が何をしているのか、わかっていなかったんだと思う。
「……ナマエ、様……?」
「――……ッ……!」
理解できたのは、俺の下にいるノボリさんが呆然として俺を呼んだ、その時になってからだった。
「ぁ、……っ、の、ぼりさ……け、怪我、してない……?」 「えぇ、わたくしは――ナマエ様はッ!!?」 「ぅ ん……うん、お、俺もだいじょう、ッ!?」
声も、身体も、どうしようもなく震えていた。心臓だってまだ暴れてる。 それでもどうにかノボリさんの無事を確認して、ガクガクになってる腕に力を籠めて起き上がった途端、左足にズキリとした痛みが走った。 どうやら砕けて跳ねたガラスの破片が掠めていたらしい。 ふくらはぎに見覚えのない赤い線が走って、意識した途端にズキズキと痛みだした。
「!!?怪我を……!!」 「っぃ、や。平気です、これくらい……全然、大丈夫、」
や、ほんとに。 改めて見るとかなりでかいシャンデリアが落ちてきたみたいだ。 この程度の怪我で済んだなら万々歳。相当ラッキーだったと思う。 それでも、俺の怪我を見たノボリさんが顔つきを変えて、今まで見たこともない、まるで相手を射殺そうとしているかのような物騒な眼光で目の前を鋭く睨みつけた。 ――勿論、その先にいるのは、あの子だ。
「――シャンデラ、もう一度シャドーボ、」 「!?うわ、ちょっ…ちょっと待った!!」 「むぐっ!?」
女の子をヒタリと捉えたまま、低い声でシャンデラに指示を出そうとしたノボリさんの唇を慌てて掌で塞ぐ。 と、目を丸くしたノボリさんの体温が一瞬で燃えるように熱くなったのがわかった、けど、今はそれを気にしている場合じゃない。
飛び込んだ時に床にぶつけた膝が擦り切れて、立ち上がるのにもヨロヨロと一苦労だ。 切ってしまった左足も庇いながら、ようやく女の子を振り向くことができる。 俺と目が合うと、女の子は息を飲んで、何か言いたげに首を振った。
「――……うん。大丈夫。わかってるよ」
一歩、女の子に近づいた。 ノボリさんが焦った調子で俺を呼び止めるけど、「大丈夫」と答えて、また一歩。 震えだした女の子はついにはあの赤い目からポロポロ涙を零して、声にならない嗚咽を上げる。 その小さな体を、できるだけ優しく、ぎゅっと抱きしめた。
「……わかってる。怪我させるつもりなんて、なかったんだよな?」 「ッ……!!」 「大丈夫。ちゃんと、わかってるから。君は、」
「――寂しかった だけなんだろ?」
「ッ――ゲ、ッン!!」
腕の中の女の子の身体が黒い霧を纏い、闇の中に溶けていく。 それはやがて一所に収束し、薄らと紫がかった身体の、一匹のポケモンの姿になった。 ……って、おい。なんだ、まさかこの子……!!
「『ゲンガー』!!あはっ、なんだお前、ゲンガーだったのか!!」
なんだよなんだよ!! 実のところ、てっきり正体は幽霊だと思ってたから予想外と言えば予想外なんだけど、これは嬉しい誤算だ! だってゲンガーっつったら俺の元相棒と言っても過言ではない。 共に四天王戦、チャンピオン戦を勝ち進んで夢の殿堂入りを果たした頼れるパートナーだった。
「なんだよもー!それならそうと早く言えよー!!」
こっちの世界に来て、自分の知っているポケモンを生で見るのは初めてだ。 しかもそれがゲンガーだとかマジ、嬉しすぎる!!
「お前に会えて嬉しいよ、ゲンガー!!」
憎めない丸いフォルムに二つのとんがり耳。可愛すぎてニヤけるのを隠せない。 ついつい夢中になって撫でくり回していると、腕の中のゲンガーはまたポロポロ泣きながら俺に抱きついてきて――なんかもう怒る気なんて更々なくなってしまった。 正直可愛くて仕方がない。
そんな俺が正気に戻ったのは、背後から伸びてきた手にポンと肩を叩かれた時だった。
「――お楽しみのところ申し訳ございませんが、そろそろ事の次第を説明していただけますか?」
いつも通りの丁寧な口調で、珍しくにっこりとほほ笑むノボリさん。 ただし目だけが笑っていない。
「……ぁ、は…い」
幽霊よりもよっぽど怖くて、思わずゲンガーに縋りついた。
(13.02.11)
|