ポケモン | ナノ


ふと目を覚ませば、見慣れないランプの灯りが揺れていた。

(――ここ……どこ)

ぼんやりとした頭で眠る前の記憶を手繰り寄せながら寝返りを打つ。
その瞬間、とても無視できない痛みが全身に――特に両脚の間に、強烈な違和感と共に駆け抜け、思わず小さな悲鳴を上げたナマエは布団の中で体を丸めた。

(な、に……!?)

なぜそんな所が痛むのか。弾かれた疑問に引きずられるように、意識を失う前の出来事が途切れ途切れに蘇る。
目を見開いたナマエの顔から血の気が引き、心臓が内側から激しく胸を叩いた。

(私……!!)

記憶の大半は霧がかかったように曖昧で、まるで絵本の挿絵のように、切り取られた場面ごとにしか思い出すことができない。『悪い夢を見ていたのだ』と言われたら、きっとナマエはその言葉を信じようとしただろう。
しかし、そんな甘い希望に縋ることを、身体に刻み込まれた生々しい痛みが許さない。
目の前に掲げた腕には大きな掌に強い力で掴まれた痣と、鋭い爪が掠めた切り傷が無数に残されており、ナマエは息を飲んで唇を戦慄かせた。

「ッ――!!」

小刻みに震えだした身体を持て余しながらもどうにか起き上がり、辺りを見回す。
そこはあの『インゴ』のいるテントではなく、どこか別の部屋のようだった。

今ナマエが使っている寝台と衣装棚、そして物書き用の机にイス。最低限の家具だけが揃えられている。
一体どれくらい気を失っていたのかわからないが、小さな窓の外は夕闇色に染まっていた。
息を潜めて周囲の物音に耳をそばだてるが、誰かが近くにいる気配や様子はない。


『 今なら逃げられる 』


頭の中で、そんな声が聞こえた気がした。

心臓がドクリと跳ねて、無意識に喉を鳴らしながら小刻みに震える足を寝台から降ろす。
体中が軋むように悲鳴を上げた。それでもやっとのことで立ち上がり、ふらふらとドアに向かって歩き出す。

ナマエの意志は殆ど固まっていた。
あんな酷い目に会ったのだ。迷うことなんてない。
大人しくここに残る義理なんてナマエにはないし、それで得をすることもないだろう。
むしろ、残ればまたあの檻に連れて行かれるかもしれない。
それを想像すると、恐くて恐くて堪らなかった。

――それなのに。


(私…なんで……!?)


ドアノブに伸ばした震える手が、ナマエの意思に反してその直前で止まってしまう。
まるで思考と身体が切り離されてしまったかのように、コントロールができない。

「っ……!」

もうあんな目に会うのはごめんだ。
だって、次があれば今度こそ、あの鋭い爪に、牙に、引き裂かれて殺されるかもしれない。

そう思うのに、曖昧な記憶の中に見え隠れするインゴのあの眼がナマエの胸を塞ぐ。

自分が彼に何をされたのか、理解していないわけではない。なのに、どうしても力が入らない。
この場から――インゴから逃げ出すための一歩を踏み出せない。

(逃げたいのは“あの人”が恐いから、なのに……どうして、こんな――)



『インゴ、さん……大丈夫、わたし、は、』



(――あの時、私は、)

自分に酷い仕打ちをした彼を胸に抱いて、一体何を言おうとしていたのか。
何を伝えたかったのか。

思い出すことができず、歯痒さにナマエの顔が歪む。

そんな時、ナマエの手が触れていないにも関わらずドアノブが回り、ハッと息を飲んで凍りついたナマエの前に、開かれた扉の向こうから現れたのはエメットと名乗ったあの白服のオーナーだった。

「あれ?ナマエ、もう目が覚めてたんだネ!」
「ッ……」
「こんなところで固まってどうしたの?――もしかして、逃げようとしてたトカ?」
「!!!」

食えない笑みを浮かべたまま、しかし目だけがナマエの内心を暴こうとしているかのように剣呑に細められる。
その問いかけに否定も肯定もできず、ナマエはただ口を噤んで頭上の彼を睨み、掌を握りしめた。
そんな反応にもエメットはニッコリと笑って肩を竦め、ナマエを宥めるように強張った肩に片手を乗せた。

「まぁ、とりあえず座って少し話でもしよう。あたたかいお茶を淹れてきたんだ、一緒に飲もう」
「………」
「大丈夫、毒も薬も入れてないから。ネ?」

そう言って、片手に持った湯気の上るカップ二つを胸の前に持ち上げ首を傾ける。
まるで道化のように、あからさまに無害を装う彼を、さすがにもう信用するつもりはなかった。
けれど出入り口を塞がれては逃げ出すことも叶わず、ナマエは無言のまま身を引き、彼のために道を開けた。

「アリガト」

部屋に入ってきた彼が片方のカップをナマエに手渡し、自分はイスを引いてベッドに向かい合うように腰掛ける。
受け取ったそれをバカ正直に飲む気にはなれず、視線に促されるまま再びベッドに腰を降ろしたナマエはそれを掌で包んで手を温めるだけに留めた。
その警戒をからかうように、エメットは長い脚を悠々と組み、カップを傾けて軽く喉を鳴らす。

(……この人)

もとはと言えば、元凶はこの男だったはずだ。
ナマエをあの檻に連れて行き、閉じ込めた張本人であるくせに、まるで詫びる様子のないこの態度。
突き刺す勢いのナマエの視線に気が付いていないはずはないだろうに、エメットは息をついてカップを机に置き、彼女に向かいなおると落ち着いた調子で話し出した。

「――……さて、インゴのことだけど」
「!」
「正直に教えてほしい。キミは“彼”を、どう思った?」
「っ………どう、って……」

唐突な質問に言い淀んだナマエに、エメットは重ねて問いかける。

「恐かった?」
「……そりゃあ、いきなりあんなこと、を、された ら、」

答える途中、必然的にその場面を思い出してしまったナマエの顔がカッと熱を持った。
そう言えば、檻の中で気を失ったはずなのにいつの間にかここに来ていた――と言うことは、自分を檻の中から出した人間がいるということだ。
おそらくそれは、目の前の彼で間違いないだろう。
そしてそうだとしたなら、ナマエは彼に、インゴに乱暴された直後の姿を見られたことになる。
勿論彼はそうなるであろうとわかっていてナマエをあの檻に入れたのだろうが、ナマエとしては堪ったものではない。

(そ、それに……いつの間にか服も着替えてるし……!!)

「ああ、安心して。キミを運んだのはボクだけど、身体を綺麗にして着替えさせたのは他の女の子だから」
「!?なんっ……!」
「キミ、考えてること全部顔に出てる」
「!!」
「ほら、また」

ケラケラと笑う彼にナマエは顔の熱が益々酷くなるのを感じた。
膝の上でカップを持っているため手で隠すこともできず、どうにか俯いて視線を遮ろうとするが、依然として面白がるような彼の眼差しがヒシヒシと伝わってくる。

「……ゴメンネ。インゴったらキミを気に入っちゃったみたいで、なかなか離してくれなかったんでしょ?」
「そっ…ういう、言い方……!」
「気に障った?でもさ、実際今までこんなことってなかったから、ボクも少し驚いてるんだヨ」

まるで新しい玩具か何かのように言われて咄嗟に抗議すれば、エメットはまたしてもそれを軽くかわし、かと思えば、今度は妙に真面目な顔つきでナマエを見つめた。

「ねぇナマエ。キミに酷いことをしたのは謝るヨ。本当にゴメン。もしもキミがここを出て行きたいって言うなら、ボクはそれを無理に引き止めたりしない。約束する」
「……ッ」
「――だけど、その前に少しだけ話を聞いてほしいんだ」



「ボクと、“インゴ兄さん”の昔話を」




* * *




昔、山奥の小さな村で双子の兄弟が生まれた。
後に生まれた一人はごく普通の子供。
そして先に生まれたもう一人は、獣の血の混じった奇形児だった。

村にはかつて、村人を襲う獣を鎮めるため、若い女が生贄として捧げられた風習があった。
その頃から極々稀に、村で生まれる子供の中に、獣の血の混じった者が見られるようになったという。
それは生贄にされた女たちの無念の思いがなした呪いなのだと、村人たちは奇形児が生まれるたびにまことしやかに囁きあい、彼らを軟禁し、外の村には漏れないように箝口令を敷いて、腫物のように扱ってきた。

『インゴはね、ココに来る前も、ずっとずっと閉じ込められて、不自由な思いをしてきた。一緒に生まれたボクもそりゃあ周りからは白い目で見られてたけど、インゴほどじゃない』

しかし彼らが15歳になった時、どこからかインゴの噂を聞きつけてきた男が、インゴの身を引き取りたいと申し出たらしい。それも、かなりの額と引き換えに。

『それがこの見世物小屋の元オーナーなんだけど……今はもういない。悪い人じゃなかったヨ』

貧しい村にその話を飲まない理由はなかった。
厄介払いと同時に生活が豊かになるのだから、両親でさえ二つ返事だったという。

『そうしてインゴは村を出てから、今度は見世物としてあの檻の中に閉じ込められてる。まぁ実際インゴはかなり“キレイ”なフリークだからね。今ではこの見世物小屋の花形さ。インゴを一目見るために遠くの街から毎回駆けつけてくる熱烈なファンだってたくさんいる。それに、閉じ込められてるって言っても、昔よりは全然マシだヨ。インゴは気が乗らないとショーには出ないし、誰よりも勝手気ままに、自由にしてるって言っても過言じゃないかもしれない』

『でもね、思うんだ』

エメットの言葉と、その時初めて目にした、あの作り物染みた仮面ではない、寂しげな微笑を思い浮かべながら、ナマエはずっしりと重たいビロードのカーテンに手を伸ばした。



『それって、インゴの“幸せ”になるのかな、って』



指先が、厚い生地に触れる。
ドアノブに伸ばした時のような戸惑いはなかった。

自分はまた、あの男に上手いこと言いくるめられて、騙されているのかもしれない。
利用されているだけなのかもしれない。
そんな疑いが全くないわけではなかった。

それでも、ナマエは意を決してカーテンを捲る。

テントの入口から射し込む青白い月明かりに照らされた冷たい檻の、その奥。
静かに開かれたあの二つの眼がナマエを捕えた瞬間、

どうしようもなく、胸の奥が震えた。






(13.01.23)