ポケモン | ナノ




“時間”と“空間”。
それを越えてこの世界にやってきたのだとしたら、帰る手段もまた、それを越えるしかない。

心臓が大きな音を立てて脈打つ度、滲み出るような確信が全身に広がって、喉が鳴った。

「――その…シンオウ地方に行けば、ここに書かれたポケモンに会えますか……?」
「うーん……それはちょいと難しいかもしれないねぇ。なにせ伝説の――しかも神話級のポケモンだ。特にアルセウスに関しては、その名を知っているのは今や研究者と、遺跡のある土地の土着民くらいなもんさ」

望みは薄い。
だけど可能性は、ゼロではない。

そう思った時、張り裂けそうな胸を不意によぎったその人の顔を、咄嗟に意識から追い出した。


「アロエさん、シンオウ地方へは、どうすれば行くことができますか――?」



* * *



静かだった室内にチャイムの音が響く。時間的に考えて、二人が帰って来たんだろう。
見えない枷がついたように重い足で玄関に向かい、一度深呼吸して『いつも通りのに』と心の中で繰り返す。
そうして思い切ってドアを開けた瞬間、呼吸が止まった。

「ナマエーッ!!!海!!海に行くよ!!」
「んぐっ!!?」

突進の勢いでぶつかってきたクダリさんに抱きつぶされて、息が、できない!!
にも関わらず頭上のクダリさんはきゃーきゃーはしゃいで何か言ってるみたいだけど、生命の危機に瀕しているこっちはそれどころじゃない。
ぴょんぴょん跳ねながら手加減のないしめつけを繰り出すクダリさんの腕の中で必死にもがいていると、そこから救い出してくれたのはやっぱり、ノボリさんだった。

「――いい加減になさい、クダリ」
「ぴゃっ!!」

ゴン、と容赦ない音をさせたノボリさんの拳骨が落ちて、クダリさんの腕が緩まる。
その隙にようやく拘束から抜け出し、慌てて肺いっぱいに酸素を取り込んでいると、大きな掌が宥めるように、ゆっくりと背中を撫でる感覚がして、思わず身体が強張った。

「大丈夫ですか?ナマエ様」
「ッ、は…い、平気で、す」

あ。なんで。どうし、よう。
ノボリさんの顔、見れない。

胸を、刺すようなこの痛みは、なんだ。

「――ッそ、それよりクダリさん!海って……!」
「そう!海っ!サザナミタウン!!お休みもらった!だから海!!決定事項!!」
「バトルサブウェイ内のトレインが一斉点検となりまして、有給消化を兼ねて揃って二日ほど休みを頂いたのです」

興奮冷めやらぬ様子で息巻いて話すクダリさんの話をノボリさんが補足する。
なるほど、要は休みをもらったから旅行に行くということらしい。

「……で、なんで海なんですか?」
「そんなのもちろん、ナマエの水着見たいからに決まってる!ね、ノボリ!!」
「――……」

………おい。おいこらノボリさん無言で目を逸らすな!!



* * *



アロエさんの話では、シンオウ地方へは海を渡って行かなければいけないらしい。
気軽に行って帰って来れるような距離じゃないとも言っていた。

(――だったらやっぱり、一度きちんと相談しないと……)

それはちゃんとわかってる。
わかってる、けど。


「――ナマエ様、眠れませんか?」


「!あ、すみませ、――ッ!!」

最後の言葉を飲み込んだ。だって、寝返りを打って振り向いた目と鼻の先に、ノボリさんの顔があったから。
不意打ちの近さに固まってしまった俺に、薄闇の中のノボリさんは「どうかしましたか?」なんて首を傾げて、不思議そうな顔をする。
それが、なんか。自分だけが妙にノボリさんを意識しているような気にさせれて、余計に焦った。

「なんでもっ……!ない、です…っ」
「……さようでございますか」

言って、目を細めたノボリさんがずれていた上掛けを掴んで引っ張り上げ、俺の肩口までをすっぽり覆う。
弱く効かせた冷房でひんやりしていた肌にはそのぬくもりが心地良くて、自然とほっと息をついていた。

「……ごめんなさい。なんか寝付けなくて……明日早いのにすみません」
「お気になさらず。本日はお一人での遠出でしたので、気が張ってしまったのかもしれませんね」
「!っ、う…ん……そう、かも」

ノボリさんの手が、ゆっくりと、すっかり慣れた動作で頭を撫でる。
その感触に、この先の話題に、心臓がまたドクリと跳ねて、思わず目を逸らしてしまった。

どうしよう。今、もう一度寝返りを打つのは、あまりに不自然だろうか。

考えながら伏せた顔に、ノボリさんの視線が刺さるのがわかる。
鼓膜に直接響くような鼓動の中で、ノボリさんの身じろぎの音がだけが妙に耳についた。


「――シッポウシティで、なにかありましたか?」


ほら、きた。

どうしてこの人は、こうも鋭いんだろう。
予想していた問いかけに、それでも心臓はバカみたいに飛び跳ねる。

「 あ、の、……っ」

言わなきゃ。
今日、知ったこと。
ようやく手に入れた手掛かりのこと。
シンオウ地方に、行きたいこと。


元の世界に帰れるかもしれないこと。


「ッ……!」

だけど、そのどれもが言葉にしようとすると途端に喉に引っかかって、声にならない。


(いた、い)


また、あの痛みだ。
胸が、ズキズキする。ノボリさんの顔を見られない。

(どうして……っ、なんで、こんな……!)



『元の世界になど、帰らなければいい――ッ!!』



このタイミングで思い出してしまったいつかのノボリさんの言葉が、自分の中の混乱を抉るように突き刺さった。


(――そう、だ)


言わなくて、いい。
言っちゃいけない。

だってノボリさんは、『帰らなければいい』って、そう言った。
きっと行かせてくれない。
言ってしまったら、行かせてもらえなくなる。

だから――……だから、


「 ナマエ様 」


「っ!!」

俺を呼んだノボリさんの掌に、頬を包まれた。
その瞬間に、どうしてだか視界がじわりと熱に滲んで、目の前がぼやける。
鼻の奥がツンと痛んだのを、零れ落ちそうになった何かを、知らないうちに必死になって堪えていた。

「……なにかあったのでしたら、わたくしに教えてくださいまし」
「ッ、ちが……!違う、よ。そういうわけじゃ、ない」

そんな、優しい声、やめてくれ。
壊れ物に触れるみたいに、扱わないでくれ。

俺は、だめだ。
俺じゃだめだ。

だって俺は――……


「……ちょっと、はしゃぎ疲れただけ、です。博物館、かなり広くて……俺の知ってるポケモンの標本とかもあって、それで、」
「でしたらナマエ様、なぜ」

俺の言葉を遮ったノボリさんの声に、吸い寄せられたように伏せていた視線を上げる。
――その先にあった瞳に、呼吸を奪われた。



「なぜそのような……悲しそうな顔をしていらっしゃるのです」



「 ぇ、?」


いま、ノボリさん、なんて言った?


(『悲しそうな顔』、って……)


「ぁ…な、に……言って……」

そんな、嘘だ。
だって、“悲しい”なんて、あるはずがない。

そりゃ、ノボリさんやクダリさんとお別れすることになるかもと思ったら、それは当然寂しい。
だけど俺はずっと、『帰りたい』って
元の世界に帰ることを目指して、その手段を探してて。

その手掛かりを、今日やっと見つけたんだ。

なのに、“悲しい”なんてそんなこと、


「――ッ!!」


あっちゃ、いけない。


「ナマエ様……?」
「っご、めんなさい…心配、かけて……でもほんとに、何でもない、から……っ」


ちがう
違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う!!!

これは、この胸の痛みは、そんなんじゃない。

純粋な罪悪感だ。
ノボリさんに黙っていることへの、こんなにも優しくしてくれるノボリさんの気持ちを裏切ることへの、罪の意識。
それ以上のものなんて、ない。

なにも、ない。

「……も、寝ます。起こしちゃってごめんなさい」
「ナマエ様、ですが…っ」
「――おやすみなさい、ノボリさん」

それ以上平静を装える自信がなくて、無理やり会話を締めくくって背中を向ける。
ズキズキと痛む胸を庇って布団の中で自分を抱きしめると、丸めた身体が震えていることに気づかされた。

(だって、こんな、の……っ)

どうすればいい。
どうすれば、目を背けたままでいられる。
あとどれくらい、気づかないままでいられる。

背中に零れた髪を掬い上げた掌に、今すぐにでも縋りついて、ただひたすらに泣きじゃくってしまいたい のに。






(12.12.09)