ポケモン | ナノ

「ボス、あの……突然ですが、明後日の午後から、半日お休み頂けませんか」
「――明後日?また急な話ですね」

椅子を回して私を振り向いたボスが怪訝そうな顔をした。
まぁいきなりシフト変更の希望を出されればそんな顔も仕方がないだろう。
気だるげに引き出しの中から今月のシフト表を取り出し明後日の日付を確認したボスが、僅かに目を見張る。ああ、多分今、この人は勘付いた。

「そっ…それで、もし、よければですね……その日、お仕事、終わったら…っ」



「私の部屋に、来てもらえません か?」




惜しみなく奪われたい




きっかけはエメットさんの一言だった。

『そう言えば明後日、僕たち誕生日なんだ』

プレゼントは決まったの?なんて、いつものからかうような笑顔で言われて、私はその時初めてボスの誕生日を知った。
同時に、ものすごく焦った。
だって本当に知らなかったのだ。いや、そもそも知ろうとしなかったのがいけないんだけど。それでも急に、明後日が恋人の誕生日だなんて知らされて、思わず膝から崩れ落ちそうになった。
自慢にならない話だけど、ボスは――インゴさんは、私の初めての恋人だ。
きちんとお祝いしたい。できることならもっと前からちゃんと考えて、準備をしたかった。
だと言うのに、明後日。定休日はまだ先だし、時間なんて殆どない。ついでに言うと給料日前でお金もない。
そんな私に何ができるだろう。インゴさんに、一体を贈れるだろう。
その答えは、驚くほど簡単に弾き出された。

あるじゃないか。
あの人が、熱烈にリクエストしているものが、一つだけ。


「――こんなもんかな」

とりあえず、無理を言ってもぎ取った半休を使って出来る限りのおもてなしの準備はした。
部屋を綺麗に片づけて、頑張ってそれなりのお料理を用意して、後は……

(こ、心の準備……とか?)

そんな事を考えてごくりと喉を鳴らした丁度その時、玄関のチャイムの音が響いて飛び上がりそうになった。

「っ…!!」

な、なんて心臓に悪い……!これで全然関係ない新聞の勧誘とかだったらどうしてくれよう。……い、いやまだ全然心の準備できてないしむしろそっちの方がありがたいかも。――なんて、時間的に考えてもその可能性は限りなく低いわけであって。

「こ んばん、は!」

鍵を外し、そうっと開けたドアの向こうにはやっぱり、見慣れたインゴさんの姿があった。

「――え、っと、その…とりあえず上がって下さい。今お料理運びますから」
「………」
「……あの、インゴさん?」
「……『おかえりなさい』」
「は?」

え?なに、『おかえりなさい』?
何を言ってるんだろう。
それをインゴさんが言うのはおかしいんじゃないだろうか。だって私ずっと家にいたし。

「『おかえりなさい』」
「え、え?あの……?」
「………」
「………」
「………」
「…………お…おかえり、なさい?」

もしかして、と恐る恐るインゴさんの言葉を繰り返してみる。
そうすると、インゴさんの仏頂面がふわりと緩み、きつい目元が若干和らいだ。

「ただ今戻りました」

ちゅっと、満足げに私の頬にキスを落としてやっと玄関に入る。
もちろん私の顔は真っ赤だ。だってこれ、めちゃくちゃ恥ずかしい。
ど、どうしちゃったのインゴさん、新婚ごっこでもしたかったんですか……!

「っ、あ、う、上着かしてください!ハンガーに掛けときますから」
「……Thanks.」
「ひ、わ!」

だっ、だから一々ちゅーしなくても良いのに!
なんかもう!なんかもう!インゴさんの醸し出す空気が甘すぎて、顔の熱が全然引いてくれない!

受け取った上着を盾にしてインゴさんと距離を取り、そうっと様子を窺うと目が合ったインゴさんが微かに口の端をふわりと緩ませる。その、蕩けそうな眼差しに、心臓を打ち抜かれたような衝撃。
それと同時に、確信してしまった。

(どっ、どうしよう…!インゴさん絶対、期待してる……!!)

正直に――正直に言うと、そりゃあ私もお、大人なんだし(残念ながら経験はないけど)お誕生日の恋人を部屋に招くっていうこのシチュエーションで、“そういうこと”にならないとは、思ってない。
昨日の夜はいつもより長くお風呂に籠ったし、その…か、可愛い下着も、準備した。
……だけどその…っいざインゴさんを目の前にすると、どうしても踏ん切りがつかないと言うか…!
いや、インゴさんのことが嫌なわけじゃないし、インゴさんとそうなるのが嫌なわけでもない。
だったらなぜそこまで躊躇うのかと訊かれると、それはやっぱり、何度か漏れ聞いた『破瓜の痛み』とやらへの恐怖だとか、恥ずかしさだったりとか……私なんかで百戦錬磨のインゴさんを楽しませることができるのかとか、とにかく私にも色々思うところはあるわけで。

「――ナマエ」
「、ぅあ、はい!?」
「……安心なさい。食べられる味ですよ」

………それは、褒めていることになるのだろうか。
尊大な態度で『和食が食べたい』と言ってきたインゴさんのために用意したご飯を、ともすれば私より上手なんじゃないかってくらいの見事な箸使いでパクパクと平らげていく。その顔はやっぱり、どことなく嬉しそうだったから、好意的に受け取っても良いのだろう。

「……おかわりありますから、遠慮しないでくださいね」

別にその件に関して考え込んでいたわけじゃないけど、でも少し、ほっとした。
無言のまま頷いたインゴさんに差し出されたお茶碗を受け取り、ご飯をよそう。それをまた渡す時に少しだけ触れ合った指先がくすぐったくて、それから妙に、熱かった。



* * *



(さて…いよいよ差し迫って参りました……!)

頭の中で一人実況しながらトロトロと食器の後片付け。インゴさんには食後のコーヒーをお出ししておいた。

(まさかここまできて『じゃあ気を付けて帰って下さいね!』なんて言えないしなぁ……)

気の早い心臓が、既に落ち着きを失くしている。いや、インゴさんを部屋に呼ぶって決めた時からこんな感じだったけど、でも…うう、やっぱり。どうしよう。どうしよう。こんな状態で、こんな私で、本当にインゴさんの相手が務まるだろうか。
そんなネガティブな思考にずぶずぶと沈みかけた時、背後で足音がした。

「ナマエ」
「!!ぁ、はいっ!こ、コーヒーのおかわり、いりますかっ?」

うわ、うわ!どうしよう!思わずビクッてしてしまった、し、声が裏返った!
振り向くのが恐くて、もう泡なんか残ってない最後のお皿を意味もなく流水で洗い続けている。と、後ろから伸びてきた手がコックを上げ、私の手から取り上げたお皿を水切り用のバットにしまった。

「――結構です。それよりも、」
「ッは、い」
「プレゼントは、あれで終わりですか…?」

するり、お腹に手が回されて、背中からインゴさんに包まれる。わざとらしく耳元で囁く声に、じりじりと脳を侵されていくような錯覚。震えだしそうにな手をシンクについて誤魔化すことすら難しい。

「ほっ…ほかに、ほしいものがあるんです か?」
「この期に及んで白を切ろうと?」
「っ……」
「……まだ、頂けませんか。ナマエ」

ドクドクと、心臓が鼓膜のすぐそこで響いてる気がした。
狡い。そんな…そんな切なそうな声で、名前を呼ばないでほしい。
確実に逃げ道を塞いでいくくせに、選択肢なんか一つしか用意してないくせに、選ばせるふりをして、追い詰められた私が頷くのをじっと待ってる。
わかってるのにやっぱり、私はその思惑通りになるしかない。
――だけど、でも、

「知ってる、と、思いますけど…ッ、私、そういう経験、ない、です」
「えぇ」
「だ、だから…あの、多分、おもしろくもなんともない、ですよ……?」

どうしても不安が拭えなくて、最後の方はかなり尻すぼみになってしまった。
だって、他にも色々あるけど、やっぱり一番の不安はこれだ。

インゴさんの噂は先輩たちから何度か聞いたことがある。実際、私が入社したばかりの頃も、インゴさんは何人かと同時に関係を持っているようだった。
そのキラキラ輝く女の人達と比べれば、私なんて月とすっぽん。おまけに経験値はゼロに等しい。
そんな相手、きっとつまらないだろうし、もしかしたら『面倒だ』って、思われるかも。
そう考えると、なんかもう、泣きたくなってきた。と言うか、う、ダメだ本当に視界が滲んで、

「――お前は、ワタクシがお前に、その様なことを求めていると思っているのですか」

胸元を軽く指先で撫で上げた手が顎を捕えて、クイと上を向かされた。
そこで初めて、交わったインゴさんの眼差しに気づき、ぞくりと胸が震える。

濡れた、瞳だ。私も潤んでるだろうけど、それとはまた違う。
ガラス玉みたいなその奥で静かに揺らめく熱に当てられて、急激に頬が熱を持つ。
こんなインゴさんを見るの、私、初めてだ。

「お前の、何も知らないこの身体を、」
「ッ、ひ!」
「――屈服させ、一からワタクシを教え込んでやるのがいいのです。それに、」
「〜〜〜っな…!あ、…ぅ……ッ」

み、耳を、かじるなっ!!それっ、それに、なんでもうそんな…!り、臨戦態勢なんですか…!!!(腰にぐりぐりするの、マジでやめ…っ)


「お前でなければ、意味がない」


「ッ…!!」
「……ですからナマエ、お前が嫌でないのなら、いい加減ワタクシに奪われなさい」
 
――っああもう!本当に、この人は!!

「きょ、今日のインゴさん、らしく、ない、ですよ…!」
「……おや、そうですか?」
「そう です!だって、今日は、インゴさんのお誕生日なんですから…!」



「ほしいものがあるなら、持ってっちゃえば、良いじゃないですか……!!」



「――……えぇ、そうですね」

フッと、頭上のインゴさんが片眉を下げて笑った。
お腹に回っていた手が滑るように私の腕を辿って、捕まえた手首に唇が触れる。薄い皮膚の上を這ったその吐息に、背筋がぞわりとざわめいた。

「では、遠慮なく」

まるで映画や漫画みたいに、軽々と横抱きで抱き上げられて思わずインゴさんの首にしがみ付く。
そうすると、喉を鳴らして笑ったインゴさんが…何と言うかその……っ、ほ、本当に、嬉しそうな顔をするものだから、

だから、


(私、ダメだ。もうほんとに、引き返せない)


好きすぎて、泣きそうになるくらい

この人に 奪われたい と、思った。




(12.05.29)