ポケモン | ナノ

(※インゴさんが猫化/現代パロディ)




ワタクシは猫でございます。名前は『インゴ』。
もとは野良猫でしたが、ある日怪我をして動けなくなっていたところを人間に拾われ、こうして狭苦しい部屋の中に閉じ込められる生活を始めてからそろそろ半年が経つ頃でしょうか。
始めの内は何もかもが気に入らず、この部屋も、ワタクシを勝手に連れ帰った人間も傷だらけにしてやりましたが、それでもへらへらと笑いかけてくる姿に次第に気を削がれ……まぁ、なし崩しに同居してやっているわけです。
その人間――名を『ナマエ』と言うのですが、とにかくこの女は無防備で頼りないものですから、ワタクシが傍にいてやらねばすぐに妙な輩につけ入れられるに決まっております。
バカの上にお人好しで、疑うということを知らない彼女はしばしば安請け合いして不埒な男を部屋に入れてしまうのです。全く、毎度追い返すワタクシの身にもなって頂きたいものですね。

(――!!)

微かに聞こえてくる聞きなれたヒールの音に耳がピンと立ち上がる。
ようやくお帰りですか。
生意気に午前様とは良いご身分です。ワタクシ、空腹で死んでしまうかと思いました。

文句の一つでも言ってやろうと玄関に出向けば、ちょうど良いタイミングで鍵が回る。
ドアが開いた瞬間に飛びかかってやろう。そう思い身構えたワタクシはしかし、途端に鼻を突いた匂いに不覚にも怯んでしまいました。

「あ!インゴだぁ〜!!お出迎えなんて珍しいっ!!ありがとねぇ」

アルコールの匂いをプンプンさせながらへらへら笑うナマエが猫撫で声で言い、ワタクシをひょいと持ち上げる。
フローリングから離れた両足が不安定に揺れ、睨みつけてやっても効果は無し。
それどころか、「遅くなってごめんねぇ」と締りのない顔で言う彼女が、真っ赤になった顔を近づけて来るのがわかりましたので、低い鼻を思い切り押しやってやりました。……ええ、せめてもの情けで爪は立てませんでしたよ。
それでもナマエはワタクシの拒絶が悔しかったのか、「ちぇっ」と唇を尖らせて恨みがましげな視線を寄越す。

(……?)

その瞳が、妙に潤んでいるいるように見えたのは勘違いではないのでしょう。
いつもなら――酔っているときであれば尚更、ワタクシにベタベタとくっついてくるのが常であるというのに、今日はいやに聞き分けがいい。

(……なにか、ありましたか)

ワタクシを床に降ろし、ふらふらと危なっかしい足取りでリビングへ向かう後姿を追いかける。いきなり倒れられでもすればまた面倒ですが、その心配は杞憂に終わりました。
鞄を適当に放り投げ、脱いだ上着を無造作に椅子に掛けた彼女はため息をつきながらソファに腰掛け、そのままゆっくりと横に倒れる。
体のバネを使って隣に飛び乗り、目を閉じたその顔を覗き込めば、僅かながらも睫毛が濡れているのがわかりました。

(ああ……やはり、)


泣いていたのですか。


「ん…?」

サリ。サリ。
ざらつく舌で赤らんだ目元を舐める。
涙でほとんど落ちてしまっているのか、ファンデーションの嫌な味はしませんでした。

「……あ、そっか。ごめんねご飯、まだだったよね」

………噛みついてやりましょうか。
このバカは、ワタクシが夕食の催促をしていると思ったらしく、ふらりと立ち上がってワタクシの食事の用意をする。確かに空腹ではありますが、今はそうではないでしょう。
缶詰を開けていつもの皿に盛り、再びソファに戻ったナマエを追いかけて先ほどと同じように隣に収まると、彼女は数秒きょとんとして私を見つめ、それから不意に、瞳に張った涙の膜を厚くした。

「っ……もしかして、慰めようと、してる?」
「………」

返事の代わりに、白い手の甲へ額を摺り寄せる。
途端、頬を転がり落ちた大粒の滴がソファの上でパタパタと音を立てました。

「い、んご……っ、わた、わたし……!」



「ふられちゃった、よぉ……!!」



(――そんなことだろうと、思っていましたよ)

ナマエには、密かに好意を寄せる男がおりました。
その名を『ノボリ』。彼女の上司にあたる男です。
以前、飲み会やらなんやらで酔いつぶれたナマエを何度か担いで連れ帰って来たことがございましたので、ワタクシも存じておりました。
むっつりと無表情を決め込んだ、つまらなさそうな男。
あんな男のどこが良いのだかワタクシには到底理解できませんが、ナマエはとにかく、その『ノボリ』に惚れ込んでおりました。聞いてもいない、聞きたくもない男の話を毎晩のように聞かされて、ワタクシもうんざりしていた程です。
告白なりなんなりして、早くふられてしまえとさえ思っておりました。
……そもそもあの男は、はじめからナマエのことを恋愛対象として見ていなかったのですから。


『ご心配なく。あなたの大切なご主人様に、不埒なまねなどいたしませんよ』


泥酔状態のナマエを抱えて寝室に入ったあの男は、毛を逆立てて威嚇するワタクシにそう言い放ち、言葉通り必要以上に彼女に触れることなく、あっけないほどすんなりと部屋を出ていきました。
その時点でワタクシは気づいていたのです。
ナマエには、絶望的に脈がないと。

「の、ノボリ、さんっ…恋人、できたんだって……っ」

(ああそれは、残念でしたね)

「私、全然、知らなくて…っ、い、一か月も、前から…!」

(まぁあの男もわざわざお前に報告する義務はないでしょうから)

「告白、も、してないのに…っふられ、たぁ!」

(いえ、告白しても無駄でしたよ。脈なしでしたので)

「う、っふ……!ぃ、んご…インゴぉぉ……!!」

(はいはい。心配せずともワタクシはここにおりますから、)



今日はもう、このまま眠ってしまいなさい。



顔を覆った指の隙間から零れ落ちる涙を舐めると、塩水のような味がした。
こんな時、小さく身を縮こめて嗚咽を漏らす彼女ひとりを抱きしめてやることさえ叶わない自分の身が、ひどく疎ましく思える。

(もしも、ワタクシがお前と同じ人間であったなら……)

そうすれば、お前をこうして泣かせたりなどしないのに。



* * *



「っ……?」

なんだろう。なんか、ゆらゆら、揺れてる。
あたたかい何かに包まれて、まるで雲の上を歩いてるみたい。それになんだか、いい匂い。
――私、この匂いを知ってる気がする。

「だ れ?」

キシッと聞きなれたスプリングの音が鳴って、背中に布団の感触。ベッドに降ろされたのがわかる。
薄暗い部屋の中に目を凝らすと、私を見下ろす人影が確かにあった。

「――あのような場所で寝ると、また風邪をひきますよ」

心地いい低音。私の憧れた、大好きな人の声。

「ノボリ、さん…?」
「………」

問いかけに応えは返ってこなかった。
その代り、大きな掌が私の額を覆うようにふわりと触れて、そのまま頬へ滑る。
誰かにこんな風に…こんなにも優しく触れられたのは初めてで、胸の奥がきゅうと締めつけられた。
――それと同時に、気づいてしまう。

この人は、ノボリさんじゃない。

「だれ、ですか……?」
「……『ノボリ』ですよ」
「うそ。違う。ノボリさんは…だって、ノボリさん、は……っ」

こんな風に、私に触らないもん。
私じゃない、特別な人が、できちゃったんだもん。

癇癪をおこした小さな子供みたいにしゃくりあげながら言って首を振る。滲んだ涙で目元がヒリヒリした。ああ、そうだ泣いてたんだ、私。
ノボリさんに恋人が出来たって聞いて、一人で日付変わるまでヤケ酒して。それで、どうにかこうにか帰ってきたら普段はツンツンなインゴがこんな時に限ってすり寄ってくるものだからなんか、いろいろ堪らなくなって。それでまた、

「っ、ん」

サリ。
目元を僅かに引きつる感触。なにごとかと目を開ければもう一度、覆いかぶさってくるその人が伸ばした舌で私の涙を拭う。これに似た感触を、私は知っていた。

「イン、ゴ……?」
「………」

暗闇に慣れてきた目がおぼろげに輪郭を拾う。それは私の知るノボリさんと瓜二つと言っても良いほど、あの特徴的なもみあげまで一致していた。
だけどやっぱり、決定的に違う。
それ自体が発光しているように浮かび上がる煌煌とした瞳。ガラス玉みたいに碧く透き通ったそれは、間違いなくインゴのものだ。

「ねぇ、イン」

『ゴ』の音を言う前に、あのざらついた舌が不意に唇をなぶった。

――これは、性質の悪い夢を見ているのだろうか。
ああそうだ。そうに決まってる。
インゴが人間になるなんて、そんなことありえないんだから。
そうだ。これは、夢だ。私は酔っぱらって、夢と現実の区別が曖昧になってるだけなんだ。

「ふ、ン…っ」

そう思うと少しだけ気が楽になって、抗う気も失せてしまう。
力の抜けた私の肩をするりと撫でおろし、二の腕を掴んでベッドに縫いつけて、インゴは一瞬緩んだ私の唇の隙を逃さない。
完全な猫のそれに比べればきっと幾分かはやさしいのだろうけど、明らかに人間のそれとは違う舌が、ねっとりと、丹念に口内を舐めて、未知の感覚にぞくりと腰が震えた。
ああ、どうしよう。気持ちいいなんて、そんな。いくら夢だとは言え、飼い猫相手に私はなんてことを、

「――ナマエ」

熱っぽい吐息を纏った声が唾液に濡れた唇の上を這う。
ただそれだけでお腹の奥の方がきゅんと疼いた。
もう、ほんとにどうしよう。私、わたし、

「これは夢です。ワタクシはお前の作り出した一夜の幻。ですから今夜は、」



「大人しく、ワタクシに愛されなさい」



細められた瞳に、身体ごと、心まで絡め取られていく。

その夜私は、ひどく満たされた、幸せな夢を見た気がした。



* * *



「……ね、ねぇインゴ。一応訊くんだけどさ」
「………」
「昨日の夜って、あの、あれだよね?私、かなり酔ってただけだよね?」
「………」
「なんかいつの間にかベッドで寝てるし、なぜか服を着てないし、あちこちに噛み跡みたいなのがあるんだけど変なことなんて何もなかったよね?」
「………」
「っ…!ねぇ何もなかったよね!?私の純潔無事だよね!!?なんとか言ってよぉ!!」
「………mew」
「うわあぁあん『ニャア』じゃなくてーーー!!!」


……無茶を言わないでくださいまし。




(12.05.09)