「ッ――!!」 背中に密着するように近づいてきた人の気配に身体が強張った。 うそ。だって、電車の時間30分も早くしたのに。まだついて来るの? 心臓がバクバク騒いで、膝が震える。どうしよう。逃げなきゃ。でも、満員電車の中に逃げ場なんかない。 そのうち駅について、人が流れるのと同時に奥の方に追いやられて余計に焦った。 最悪だ。車両の一番隅に閉じこめられて、きっと他の乗客には私なんか見えない。 「っ、ひ…!」 制服のスカート越しに、お尻を撫でられた。 いつものことだ。だけど、見ず知らずの人にそんなところを触られて、平気でいられるわけがない。 必死に震える手でそれを払おうとするけど、しつこく伸ばされる手はそんな私の反応を見て愉しんでいるようにも感じられた。 恐い。もうやめて。誰か気づいて。誰か助けて。 心の中で叫び続けるけど、決して声にはならなかった。 本当は、後ろを振り向いて、「やめてください」って、言わなきゃいけないのもわかってる。 だけど本当に恐くて、大声なんかとても出せないのだ。 窓ガラス越しに目が合うことすら恐くて、ただ俯いて震えながら、駅に着くまで、人が少なくなるまで、ひたすら耐えるしかない。 (も、やだ…っ!男の人って、どうしてこんな……!) 手に持った鞄を握り締めて、ぎゅっと閉じた目に滲む涙を堪える。 そうしていると急カーブで電車が大きく傾き、よろめいた私に隙を見つけたのか、お尻を触っていた手がとうとうスカートの中に侵入してきた。 「!!?」 (あ、あ…!やだっ、やだ!!なんでッ!?) 今まではずっとスカートの上からだけだったのに、どうして。 もしかして、私が電車の時間を変えたことで逆上させてしまったのだろうか。 ごつごつした無骨な手が下着越しにお尻の割れ目をなぞる手つきにぞわりとしたものが背筋を走る。 気持ち悪い。 純粋な嫌悪感に堪えていた涙がついに決壊して、頬の上を転がり落ちる。 ――丁度その時、知らない男の人の声がその場の空気を変えた。 「不埒なマネはよしなさい」 不機嫌そうな、だけど、凛とした声だった。 それを中心に車内がにわかにざわめいて、スカートの中に潜り込んでいた手がスッと離れていく。 何が起こったのかわからずおそるおそる顔を上げてみれば、窓ガラスに映った自分の背後で、背の高いお兄さんが私に痴漢していた男の人の腕を捻り上げたところだった。 痛いと悲鳴を上げながら口汚く捲くし立てるその男の人を、お兄さんはまるで汚物でも見るかのような蔑んだ眼差しで一瞥し、それから不意に、ぽかんとしてその光景を見ていた私と彼の視線が交わる。 思わずドキリとするほど鋭い目が、一瞬だけふっと細められて――『もう大丈夫ですよ』と、そう言われた気がした。 * * * 「お客様はワタクシとこちらへ」 次の駅に着いて、男の人を他の駅員さん達に引き渡したお兄さんにそう声をかけられ、私は少し前を歩くその人の背中を俯きがちに追いかけた。 きっと今から事情聴取とかであれこれ聞かれるんだろう。そう思うと憂鬱だった。 だって、どこを触られたとか、そんなの言いたくない。 何より思い出すもの嫌だ。今だって、気を抜けばへたり込んでしまいそうなほど、まだ身体が震えてる。 それでもどうにか足を動かして、通されたのは『サブウェイボス』と札のかけられた部屋だった。 「そちらにお掛けなさい」 「は、い……」 「……生憎と甘いものはございません。コーヒーは飲めますか?」 「っあ、えっと…お、おかまい、なく」 高そうな黒い革張りのソファはほど良く身体が沈むほどやわらかい。 鞄を足元に置いて、お兄さんがこっちに背中を向けている間に少しだけ部屋の中を見回してみた。 もっと事務所的なところに通されるのかと思ってたけど、ここはどうみてもそうじゃない。 大きなソファにテーブル、その向こうには広いデスクが一つ。 ……さっきのあの札を見たときまさかとは思ったんだけど、ここはもしかして噂のサブウェイボスさんの仕事場、だろうか。 私はバトルが得意じゃないし興味もなかったから詳しくは知らないけど、サブウェイボスと言えば確か、バトルサブウェイの最高責任者だ。 そして噂によるとその人は、かなりのイケメンさんだとのこと。ちょうど、目の前のこのお兄さんと同じ金髪碧眼の。 「――どうぞ」 「!あ、ありっ……ありがとうございま、す」 コトンとテーブルにコーヒーカップが置かれて、慌てて頭を下げる。 そうするとお兄さんは小さく「いえ」と応えて、自分の分のカップを持ったまま静かに向かいに腰掛けた。 上品にカップを傾ける姿が、妙に様になっている。 私もそれに習い、手が震えてしまわないようにゆっくりとカップを持ち上げるとほろ苦い香りの湯気がふわりと昇った。 「……少しは落ち着きましたか?」 まだ熱いそれをほんの少し口に含んで飲み込んだ時、お兄さんがそう切り出した。 「――はい」 あたたかいコーヒーのお陰か、今度はスムーズに声が出る。手も、膝も、もう震えてない。 お兄さんはそんな私をひたりと見据えて、小さく「よろしい」と呟いた。 だけどそれきり何も言わないお兄さんにさすがに居心地の悪さを感じて、もう一口コーヒーを飲み込んだ後、今度は意を決して私から話しかけてみた。 「あの、お兄さんは……サブウェイボスさん、ですか?」 「……ええ、いかにも。ワタクシはサブウェイボスのインゴと申します」 「じゃあ、その…サブウェイボスさんが、どうしてあの電車に……?」 私が乗っていたのはいたって普通の通学電車だ。 なのに、バトルサブウェイのボスがどうしてそんな電車に――しかも朝の通学通勤ラッシュなんかに乗り合わせていたのだろう。 さっきから疑問に思っていたそれを口にすると、インゴさんはなぜか眉を寄せて、小さくため息をついた。 「それはあなたが――……毎朝、泣きそうな顔で電車を降りてくるのを見ておりましたので……まぁ、そういった事情です」 「っ、え」 「予想以上に車内が混んでおりましたので、止めに入るのが遅くなりました。申し訳ございません」 「――!!そん、な…!」 目を伏せて僅かに頭を下げるような仕草をしたインゴさんに、私は慌てて首を振った。 信じられない。 だって、気づいてくれる人なんて――助けてくれる人なんて、誰もいないと思ってた。 それなのに、この人は私に気づいてくれた。 私を助けるために、あの電車に乗ってくれたのだ。 そう思うと、引っ込んでいたはずの涙が再びじわりと込み上げて、鼻の奥がツンと痛んだ。 「ぁ…ッ…ありがとう、ございました…!本当、に……っ」 同じ男の人でも、こんな人もいるんだ。 悪い人ばっかりじゃないんだ。 疑心暗鬼になっていた心が解けていくようで、溶け出した感情の波に押し出された涙がポロポロ零れ落ちていく。 なかなか止められないそれを一生懸命手の甲で拭って嗚咽を堪えていると、座っていたソファが少し傾いたのを感じた。 そっと横を窺えば、向かいに居たはずのインゴさんが隣に腰を降ろして、難しい顔をしていた。 「――その様に泣きじゃくるほど嫌だと思うのに、なぜ声を上げなかったのですか」 「〜〜っだ、って……こわっ、こわく、て……!」 「……声が、でなかったのですか?」 インゴさんの言葉に、必死に頷く。 「わ、私の、家……お父さん、いなくて…が、学校もずっと、女子校、だから……っ」 そもそも『男の人』は、私にとって未知の存在に近いのだ。 まともな接触を持ったことがないから、何を考えているのかわからない。 下手に声を上げなんかしたら、次はもっとひどい目に合うかもしれない。仕返しされるかもしれない。 そう思うと声が出なくて、誰にも助けを求められなかった。 「……なるほど」 途切れ途切れに事情を話す私に、インゴさんはそう言って、なぜか徐に、涙を拭う私の手を取った。 「ッ!!?」 「手荒なことは致しません。落ちつきなさい」 「で、でも…っ」 咄嗟に振り払おうとした私をやんわり制して、インゴさんの手は包み込んだ私の手をゆっくりと自分の頬に導いた。 途端、ドキンと心臓が飛び跳ねて、全身が強張る。 それでもインゴさんの手は離れず、私の掌はインゴさんの頬を包み込むようにして触れていた。 「ぁ、っ……!」 あたたかい。 それに、手の甲を掠めた髪の毛は、私のよりも少し硬い。 綺麗な金色に縁取られた瞳がじっと私を見て、それからふと、眼差しを和らげた。 「これが、『男』です」 「ッ――!!」 「いかがですか?」 いっ、いかがですか、なんて言われても……! 動揺する私を尻目にインゴさんはもう一方の手を伸ばして、私がインゴさんの頬に触れているのと同じように、私の頬に触れた。
「……ッ」
心拍数が尋常じゃない。でも、痴漢に触られた時とは違う。 恐いわけじゃ、ない。 何も言えないまま、強く目を閉じて恥ずかしさと戦う私の目元をインゴさんの指先がなぞった。 まだ残っていた涙を拭われたのだと気づいて余計に恥ずかしい。 だけど、 「ぃ…嫌じゃ、ない……です」 「――よろしい」 勇気を振り絞った私に返された今度の『よろしい』は、少し微笑ってるような、やわらかい響きだった。 それにつられてそっと瞼を押し上げれば焦点が合わないほど近くに、インゴさんの顔。 え、と、思う暇もなく、唇がしっとりと塞がれた。 「……本日から、学校帰りに顔を出しなさい」 「え……ぅ、え?」 「ワタクシが直々に、『男』というものを教えて差し上げましょう」 「良いですね?」 吐息の触れ合いそうな至近距離のまま、ちょっと意地悪な笑みを浮かべてそう念を押すインゴさんに、私はただ、赤くなった顔を見られないように頷くことしかできなかった。
ヒーローなんて、柄ではないけれど
(君のためならば、)
(12.04.12)
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