「インゴと何かあった?」 ギクリと自分の肩が強張った瞬間、即座に後悔した。 パソコン画面に向かう私の横顔を覗き込んでいた白い方のボス――エメットさんがニンマリ笑う。 長い足で床を蹴って、跨ったキャスター付きの椅子を更に私に近づけながら、エメットさんはハハハと肩を竦めてみせた。 「ナマエもインゴもわかりやすすぎ!」 「ううううるさいです私まだ何も言ってないじゃないですか!」 「言わなくてもわかるって。最近二人ともソワソワしてるからネ!」 エメットさんはパッと見すごいチャラチャラしてて軽薄そうだけど、実はかなりの切れ者で、鋭い人だ。 何から何まで計算ずく。それが彼に対する私のイメージだった。 そんな彼が、獲物を見つけたとばかりに目を細めて私を見ている。シラを切るのは無理そうだ。 「……と言うか、私はともかくボスがソワソワしてるっていうのは嘘でしょう?」 「んー…まぁソワソワしてるって言うか、イライラしてるって言うか」 「確実に後者じゃないですか。むしろボスがイライラしてない時なんてあるんですか」 「あるよ」 言って、エメットさんがピシッと私を指差す。 「キミが、インゴの傍にいる時」 「………エメットさん、モウロクしましたか」 「キミって案外失礼だよね!」 いやいやだって私はイライラしてるボスしか知らないと言っても過言ではないのに、私が傍にいる時イライラしてないとか、どんな冗談ですか。 思わず白けた顔になってしまった私にケラケラ笑いながら、「でもさ」と言葉を繋げたエメットさんが背凭れの部分で組んだ腕に顎を乗せる。 「インゴがあんなにイライラするのも、イライラしないのも、全部キミに関する時だけ」 「ッ……」 「この意味、わかる?」 不意に眦を和らげたその顔が、あの日のボスに重なる。 『いいお返事を、期待しておりますよ』 胸の奥まで木霊したあの低い声を思い出して、私は赤くなったであろう顔を咄嗟に伏せた。 キーボードから離れた手が、自然と膝に落ちて小さく震える。 もうやだ。なんで。 思い出すだけでこんなに、心臓がドキドキするの。 「――実、は……その、」 誰にも相談できなかったけど、思い切ってエメットさんに打ち明けよう。 だってこの人は他の誰よりもあの人に近い人だから。 ――だからきっと、私の自意識過剰を笑い飛ばしてくれるはず……だったのに。 「え、何それプロポーズじゃん」 エメットさんのその一言は、私の胸に爆弾を投下しただけに他ならなかった。 ・ ・ ・ 「………」 ボスの執務室の前。ノックしようとして中途半端に上げた手が、止まる。 正直ボスと顔を合わせるのは避けたかったけど、職場ではそうも言っていられない。 ボスにあんなことを言われた日から既に一週間。 その間、ボスに急な出張が入ったり私の休みがあったりで、殆ど顔を合わせていない。 ――と言うか、正直に言うとその上で更に私がボスとの接触を避けてた。 だけどそんな悪あがきがいつまでも通用するはずもなく、現在こうして、ボスに提出しなければいけない書類を抱えているわけだ。 「――……失礼します」 ノックの後、一呼吸置いてからドアを開ける。 室内は静かだ。 それに、ボスの姿が見当たらない。 (あれ……?執務室にいるんじゃ……) バトルの呼び出しもないし、てっきりここにいるとばかり思っていたのに……構えていた分、拍子抜けだ。 でもまぁ、顔を合わせないで済むならそれに越したことはない。 書類はデスクに置いて、メモだけ残しておこう。いないなら仕方ないもんね! そんなことを思いながらそそくさボスのデスクに向かった時、私はあるものに気がついてハッと息を呑んだ。 (え゛…ちょっ、い、いる!?) こちらに背を向けた、来客用の上等なソファ。 その肘掛から覗くのは黒いスラックスに黒い革靴。どちらも見覚えのありすぎる代物。 心臓は瞬時に早鐘を打ち始めて――なのに不思議と、立ち止まっていた足は吸い寄せられたようにソファに向かっていた。 「………」 そうっと、物音を立てないようにソファを覗き込む。 思ったとおり、その人は長身を窮屈そうに曲げて寝息を立てていた。 (ボス、だ……) ちゃんと顔を見るのは久しぶり。しかも寝顔なんて初めてだ。レアすぎる。 出張とかあったし、疲れてるのかな。人が入ってきても気づかないなんて、ボスらしくない。 ――でも、起きなくて良かった。 『え、何それプロポーズじゃん』 エメットさんにあんなこと言われて、尚更会い辛くなってしまった。 『インゴはさ、冗談でそんなこと言わないよ。それってつまり、すっごい本気ってこと』 『!!?え、で、でも……あのボスですよ!?』 『うん。まぁキミに夢中なインゴなら言いそうなことだよね』 『む、夢中って……!あれは単に私をいびって楽しんでるだけじゃ、』 『ナマエ、』 『ホントはキミも、もうわかってるんデショ?』 「ッ……!」 悔しいけど、エメットさんの言うことは的を射ていた。 本当は、気づいてたんだ。 ボスが、冗談であんなこと言ったわけじゃないって。 私をからかってるわけじゃないんだって。 ――だから私も、こんなに悩んで、こんなにドキドキしてるんだって。 「 ぼ、す 」 綺麗な顔。 もっとちゃんと見てみたくなって、足音を忍ばせて正面に回りこみ、膝に手をついて屈みこんだ。 こんなにじっくり見るのは初めてで、緊張する。 うわぁ、睫毛長い。金色だ。それに鼻のラインが綺麗。さすが欧米人。 ああ、それにやっぱり手も大きい。 (――この手が、あの日……) ドクンと、一段と強く脈打った心臓に比例して体温も急上昇。 恥ずかしいことに、ボスの指に触れられたそこにも熱がぶり返して、ムズムズする。 ボスを見てると、まるで風邪をひいたときみたいに、頭の芯がぽーっとする。 (触って、みたい……) この掌に。 いつの間にか私の視線は白い手袋を嵌めたその手に釘付けになっていた。 きっと平気だろう。ボスはまだ起きる気配ないし。 多分、大丈夫。 ちょっとだけ。 ――ちょっと、だけ。 胸の上に置いた制帽を押さえるように置かれていた掌に、ゆっくり手を伸ばす。 だけど、私の手がボスの掌に触れる寸前、突然動いたそれが、逆に私の手を捕まえていた。 「ッ、!!?」 いきなり強く引っ張られて、頭が追いつかない。 だって、だって――え、これ、どんな状況? なんっ、なんで、私、ボスの上に、いるの……!! 「やっと捕まえた」 私の手を捕まえたまま、ニタリと笑んだボスと目が合った。 その瞬間、破裂するんじゃないかって程に心臓が跳ねて、痛いくらいに顔が熱くなる。 う、う、嘘、やだ、なんでボス、起きて……!! 「た、タヌキ寝入りですか……!」 「おや、ではお前はワタクシの寝込みを襲うつもりだったのですか?」 「おそっ――!?ひ、人聞きの悪いこと言わないで下さいよ!」 とにかくボスに馬乗りになってるこの状況をどうにかしようと腰を引けば、するりと絡んだ腕に阻まれる。 私の肩から零れ落ちた髪を横目に眺めて、ボスはじわりと目を細めた。 それが妙に愉しそうで――こっちはパニックだって言うのに。ああ、もう、悔しい。 「――それで、そろそろ返事を聞かせては頂けませんか」 ドクン。 ボスの一言で、またバカみたいに動揺する。 「っな んの、話…ですか、」 「……ほう。鳥頭では思い出せませんか。では、」 思わずとぼけようとした私に、向けられる視線が厳しくなる。 そうすると、絡んでいた腕に突然力が込められて、反応し切れなかった私の腰は引き寄せられるままぺたんとボスの腰の上に落ちた――丁度、ボスの股間の上に。 「!!!」 「さて、これで思い出せそうですか?」 グリと、腰を押さえつけたままソレを押し付けられて腰から背中にかけてぞわぞわとしたものが駆け登る。 顔に集まった熱が行き場を失って、別に泣きたいわけじゃないのに勝手に視界が歪んだ。 「やッ…ボス!」 「ッ、……処女のくせに、どこでこのような誘い方を覚えて来たのやら」 「〜〜〜っ!!」 逃げようと身を捩ればボスが息を呑んで、ちょっと苦しそうに眉を寄せながらも私をからかうことは忘れず、不敵に笑う。 だけど腕の力は緩めないどころか、さっきよりも強く押し付けられて――ダメ、だ。頭の中、真っ白になりそう。 ボスの、が、スラックスの向こうで少しずつ硬くなるの、わかって、しまう。感じて、しまう。 その度に、自分のそこが呼応するみたいに熱を滲ませるのまで。 「お前からワタクシに近づいてくるまで待っていてやったのです。いい加減に観念なさい」 「 ぅ、あ の、…えと……!」 「――まぁ、返事と言っても『イエス』か『はい』以外は認めませんが」 「!!それ、って……!」 「ナマエ」 いつの間にか後頭部に回っていた片手に押されて、ボスの瞳が近づく。 その眼差しはきっと、私のことなんてもう全部見透かしてしまっているのだ。 「ワタクシのモノになると、誓いなさい」 自分からそうしているのではないかと錯覚させられそうになるほど、ゆっくりと後頭部を引き寄せられて――私を呼んだボスの唇が間近に迫る。吐息が、溶ける。 ――その直前。すんでのところで腕を突っ張ってやった。 「ひ 一つだけ、確認、させてください…っ!」 「、は?」 珍しくポカンとした顔をするボスに少しだけ優越感を覚えながら、一回深呼吸。 ……だってやっぱり、いくらエメットさんにああ言われても、やっぱりボスの口からちゃんと聞きたい。 言って、もらいたい。 「ボス、は……その…ッ、わ、たしの、こと……!」 「――『愛していますよ』」 「ッ!!!」 「……とでも言えば満足ですか?」 「な゛っ……!?」 クッと喉を鳴らして皮肉たっぷりに口角を上げたボスの顔が、ぐにゃりと歪む。 ボスのコートの上でパタッと水滴が跳ねた音がして、それが自分の涙であることに気づいた。 ああ、いやだ。最悪。 やっぱり私の思い上がりだったんだ。 ボスはからかってただけなんだ。 最悪。最悪。サイアク。 これじゃ勘違いしてましたって、言うような、 「――誰も、嘘だと言ってはいないでしょう」 「っ、ぅ…!」 「泣くのはよしなさい。みっともない」 ボスのバカ。バカ。 そんなこと言いながら唇で涙拭うとか、ずる過ぎる。 いつの間にか起き上がってたボスが宥めるように私の背中を優しく叩く。 涙の筋を舐めて辿る舌がくすぐったくて逃げようと顔を逸らしたら、まっすぐ戻されたのと同時に唇にかぷりと噛み付かれた。 ――とは言っても、歯を立てられたわけじゃなくて、それはあくまで物の例えと言うか。 つまりその、あの、き……キスを、現在進行形でされている、わけでして……!! ボスにキスされるのは初めてってわけじゃないけど、今はなんか、今までのどのそれよりも恥ずかしい(ちゅ、とか、わざと音立てないで…!) 「……お前がそう言ってほしいのなら、いくらでも言ってやりましょう」 「ッ…ボスの、偏屈者!陰険!いじめっこ!!」 「お好きなように」 言ってまた一つ額にキスが落とされる。 「……それで、返事は?」 「〜〜〜〜っ」 恥ずかしさで、今なら『だいばくはつ』くらいできるんじゃないだろうか。 そう思いながら、だったらボスも道連れにしてやろうと、コートの襟元を握って、ボスの胸に額を預ける(か、顔見てなんて…絶対言えない……!!) 「ぃ、今すぐに、は、無理ですけど……っ、段階を踏んで、なら……!」 「――これ以上どう段階を踏めと」 「う、あ ち!違う違う違いますそういうことじゃなくて…ッ!」 もう一度グリグリとソレを押し付けられてまた泣きそうになりながら必死に身体を捩ると頭上のボスがやれやれとばかりにため息をついた。と言うかため息をつきたいのはこっちですこのスケベ!! 「……まぁ、それでお前の気が済むのなら付き合ってやりましょう」 「!!」 ――そんなわけで、私の『初めて』は晴れてボスの売約済みになりました。 「さて、では素股あたりから始めますか」 「だからそういうことじゃないんですってば!!」 (12.03.17)
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