「ねぇインゴ、知ってる?」 「……何を」 書類の散乱したデスクに腰掛けて足を組んだエメットがニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべながらこちらを窺う。 デスクに座るなと注意してやろうかとも思いましたが、毎回のことではありますし、ワタクシ自身邪魔な脚をデスクに放り出しているのですから説得力に欠けるでしょう。フム。脚が長すぎるのも考え物ですね。 「今日さ、バレンタインデー!」 「ハッ、その様なこと。今更言われなくとも存じております」 ワタクシが本日何度面倒な愛の告白を受けたか、想像できないわけではないでしょうに。まぁその全てを紳士的かつ丁重にお断りしたわけですが……いかんせん、納得しがたいことが一つ。 エメットとはまた別の、あのヘラヘラ笑う生意気な顔を思い出すと途端に胸がムカムカと疼くようでしたので、手は自然とシガレットケースを取り出してライターを探しておりました。 そんなワタクシに、エメットが尚更おかしげにケタケタと笑う。 「ナマエの国ではさ、バレンタインデーには女の子が、好きな男にチョコレートをプレゼントするんだって!」 「ッ!!」 ニヤリ。 顔を見ずとも、双子の弟が更に口角を吊り上げたのがわかりました。 「――インゴさ、ナマエからチョコもらえた?」 Get it on ! 「――お待ちなさい」 「ッふぎゃ!?」 定時過ぎ、待ち伏せていた通路にのこのこと現れたナマエの肩を背後から掴めば例の如くブサイクな悲鳴が上がりました。 まったくこの小娘はもう少し可愛げのある悲鳴をあげられないものでしょうか。まぁ期待するだけ無駄でしょうが。 「ボ、ボスッ!何かご用事でも…?」 「話がございます。来なさい」 「え…えー?今から帰るとこだったんですけど……」 「それが何か?」 「………ナンデモゴザイマセン」 いかにも不本意だとばかりにしぶしぶ肩を落とすその仕草。生意気な。 不本意なのはワタクシの方だと言うのにこのおバカは。 大体、ワタクシがまだ勤務時間なのにも関わらず定時であがろうという考えが気に入らない。 少しは上司を敬う気持ちと言うものを持ち合わせてはいかがでしょうか。 「ボスー、痛いですー」 憎らしさを込めて掴んだ腕を引きながら歩けば、後ろから小走りになってついてくるナマエが僅かに唸るような声でそう抗議してきますが、無視して更に力を込めてやると(とは言っても、もちろん手加減はしております。ええ。ワタクシ、紳士ですので)「いだだ!」とまた色気のない悲鳴。いっそ痣でも残ってしまえばいいものを。 さて、そうこうしているうちに目的地であったワタクシの執務室にたどり着き、ドアを開けてその中にナマエを放り込む。 勢いによろけてふらつくその後姿に目を細めながら、後ろ手にそっと施錠。 そんなことにも気づかず、振り向いたナマエの目には抗議の意思が込められておりました。 「もう、乱暴ですよボス!何考えてるんですか!」 「お前こそ何を考えているのです」 「 は、?」 ぽかんと間抜け面。その、真実何もわかっていない顔がなんと腹立たしい。 「ワタクシに、渡すものがあるでしょう」 このワタクシが、サブウェイボスインゴが、わざわざ迎えにまで行ってやったと言うのに。 一歩、距離を縮め、苛立ちを視線に込めてワタクシの胸ほどの身長しかないナマエを思い切り睨みつけながら見下せば、ひくりと表情を強張らせ、半歩下がる。……なぜ下がりましたか。 「――ナマエ」 「ひゃ、い!」 「……逃げるな」 「ッ!!む、無理ですボス顔恐い!!!」 生憎ですがこの恐ろしいほど整った顔は生まれつきですので。 その間も、ワタクシが進めばナマエが下がる。その繰り返し。 ――しかし、ここはあくまで室内ですので、そんな追いかけっこもすぐに終わりが見える。 ほら。もう、背後にはワタクシのデスクしかありませんよ(残念でしたね) 「ボ ス、!あ、あああの、えっと……!」 「………What ?」 ナマエを挟んでデスクに両手をつき、耳元に息を吹きかけるようにして言えば薄い肩がブルリと震えたのがわかりました。 鈍くとも生娘。反応は上々。青白かった頬が急速に赤く色付いていく様は実に愉快でございます。 少しでもワタクシから距離を取ろうと顔を背け、背を仰け反らせる姿に自然と口の端が上がる。 ――しかしそれも、空気を読まないこのおバカが口を開くまでの極僅かな時間でございました。 「わっ、私…!何か書類の期限、忘れてましたか…っ!?」 「……――」 どこの誰が、この状況で仕事の話を持ち出しますか。 呆れてものも言えないとはまさしくこのことでしょう。このエアヘッド。 思い切りため息をついてやればそれがまた首筋をくすぐったのか、ナマエが息を呑んで身じろぐ。 ……Shit. こんな小娘の一挙一動に振り回されるなど、ワタクシのプライドが許しません。 イニシアティブを握るのは常にワタクシ。 ――そう。このワタクシなのです。 「……お前の、国では」 「っ、はい?」 「バレンタインデーには、女性が男性に贈り物をするのだとか……?」 「――ああ!」 バカで鈍いお前にも、さすがにここまで言ってやればわかりますか。 なるほどとばかりに声を上げたナマエが逸らしていた顔を戻し、マジマジとワタクシを見る。 その目に、実は一瞬怯みかけたなど絶対に悟られてはなりません。 「ボス、チョコレートほしかったんですか?」 「フン。受け取ってやらないこともございませんが」 「え、何それツンデレのつもりですか?」 「は……?(ツン…?)」 「いえ何でもないです。と言うかですね、チョコならちゃんと用意しときましたから、食べたいなら駅員室のテーブルのカゴの中のチロルチョコ好きに食べちゃってください」 「………」 何を言っているのでしょうこのバカは。 このワタクシを、その他大勢と同じに扱って許されるとでも思っているのでしょうか。 フム。なるほどこれは、一度キッチリ教えてやった方がよろしいでしょう。 「――他には?」 「へ?」 「他にはないのかと訊いているのです」 声のトーンを一つ下げて、視線を絡めたまま背を屈めれば黒い瞳が揺れる。 「えっと……」と、絞り出すような、微かに震えた声で言ったナマエがコートのポケットの中を探り、小さな包みにくるまれたチョコレート(おそらく)をおずおずとワタクシに差し出した。 「あのこれ……帰るときに食べようって思って自分用に一つだけ取っといたんですけど………ボスがそんなにチョコレート好きなら…どうぞ……っ」 ……そんな、見るからに未練たらたらな顔で渡されても受け取り辛いのですが。 ですが、まぁ、これしかないと言うのなら、今回はこれで我慢してやりましょう。 白い掌の上からチョコレートをひょいと摘み、「あ、」と名残惜しそうな声を上げたナマエの目の前でそれを口に含む。 ナマエの体温で既に少し溶けだしていたミルクチョコレートが舌の上にじわりと拡がった。 甘ったるい、まるでナマエそのもの。 そんなに物欲しそうな目で見ずとも、すぐに返してやりますとも。 「――ふ、む?」 顎をすくい、目の合ったまま唇を重ねれば瞳の奥が見える。 見開かれたその奥には動揺が――そして次に羞恥が込み上げ、瞼に遮られる。 ビクリと強張った体がワタクシを突き放そうとしますが、力の差など考えなくともわかること。 逆に後頭部を片手で押さえつけて更に深く唇を合わせ、咄嗟にも引き結ばれていたその奥へ強引に舌を捩じ込んでしまえば、後はもうこちらのもの。 甘いチョコレートをコロリと移し、逃げるナマエの舌と一緒に絡めてやれば、震えながらワタクシに縋ることしかできななくなってしまったナマエに思わず熱くなり、加減を忘れそうになる。 「ン、んっ…ぅ!」 気づけばチョコレートなどとっくに溶け切っていたにも関わらず、僅かに残ったその香りまで、余すところなく我が物にしようとナマエを貪るワタクシがおりました。 弱々しい拳が力なくワタクシの胸を打ち、その振動でようやく正気に戻れば、うまく飲み込みきれなかった唾液をだらしなく口の端から零したナマエが絶え絶えな息で震えている。 ――いっそこのまま、口付けで呼吸を止めてやろうか。 一瞬過ぎった物騒な考えに内心で自らを嘲り、最後にと存分に唇の柔らかさを味わってから、顎に伝った唾液を舐め取ってやる。 それにさえビクビクと震えて反応を返すのですから、この小生意気な娘から目が離せない。 ワタクシの手で、じっくりと、淫靡に開発してやりたくなるのです。 「ボ、ス……ッあ、の…っ!」 「言ったでしょう。こういう時には、『インゴ』と呼びなさい」 「うっ、え?ゃ、えっと…!そうじゃ、な、ッいあ!?」 首筋に顔を埋め、薄い皮膚に強く吸い付けばナマエが声を跳ねさせる。 自然と込み上げた笑いにクツクツと喉を鳴らすワタクシに、ナマエは未だあわあわと意味をなさない言葉を続け、ひどい混乱状態にあるようでした。 この分ではまだ、当分気がつかないでしょう。 バカな子ほど可愛いというのは、あながち間違いではないかもしれませんね。 「――今回は、これで許して差し上げましょう」 『ゴチソウサマでした』 もう一度、掠めるようにして唇を奪いニヤリと笑んでやれば、不意打ちをくらったナマエが赤い顔をしたまま凍りつく。 その首筋に贈った一片の赤い花弁の意味に、お前が気づくのはいつになるでしょう。 ――ただ一つだけ言えるのは、ワタクシはあまり、気が長くはないということ。 それだけでございます。 (12.02.14)
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