ポケモン | ナノ


(※ノボリさんが愛煙家)







「あ?ナマエお前煙草吸う奴やったか?」
「ええー?やっぱり匂いますか?」

すれ違いざまクラウドに指摘され、顔をしかめたナマエがスンスンと鼻を鳴らして制服の腕の辺りを嗅ぎ、憂鬱そうにため息をついた。

「私じゃないですよ。さっき相手した挑戦者が注意しても吸うのやめてくれなくて……腹が立ったから速攻でストレート勝ちしてやりましたけど」
「先輩煙草ダメなんですか?」
「うん。無理」

「あの匂いする人にはあんまり近寄りたくない」

何の悪意もなく、ただの世話話としてポロリと零したナマエの一言に、その場にいた彼女以外の鉄道員達は凍りついた。
たまたま駅員室に居合わせていた彼らの黒いボス――愛煙家のノボリが、無言のままポケットから取り出したシガレットケースを乱暴に屑箱に投げ入れた。





ビター・ハニー・ビター





「うおぉー…むっちゃしんどー……!」

サブウェイマスターの執務室に書類を提出して戻ってきたクラウドの顔色が優れない。
ヘロヘロと自分の席に戻り、糸が切れたように机にうつ伏せる姿を見て周りの同僚が「お疲れ様」と苦笑いで労いの言葉をかける中、ナマエだけはきょとんとして不思議そうにクラウドを見つめていた。

「クラウドさん、もしかしてボス機嫌悪いですか?」
「……お前がそれを言うか」
「へ?え…?もしかして私また何かしでかしました?」

『はあぁぁ……』
鉄道員一同の重いため息が一つになって駅員室に淀んだ空気を作る。
しかしやはり、ナマエだけはその中に溶け込むことができず、一斉に肩を落とした同僚達を慌てて見回した。

「こんのアホ。バトル廃人。お前のせいでただのシングルでさえここんとこ21連勝できた奴おらんのやぞ」
「えぇ?!それ私のせいですか?!」
「お前やお前。どう考えたってお前しかおらへん」
「いやだって……思い当たる節は……な、なきにしもあらず、ですけど」
「あるんやないか」
「いやいや!でもボスが機嫌悪いのなんていつものことじゃないですか!」

『それはお前にだけだ』
誰もが心の中で思ったことを、しかし誰一人口にすることはなかった。
下手なことを言ってただでさえ機嫌の悪いあの黒いサブウェイマスターの不興を買うのは避けたい。
それならばむしろ、この自覚のない事の発端を生贄を捧げることでそろそろ機嫌を直してもらおうではないか。
駅員達の心はその瞬間一つになった。

「ナマエ、お前ボスの機嫌とってこい」
「え、ええぇー?!!無理無理!無理ですよ!私が行ったら余計機嫌悪くなるに決まってます!」
「えぇから黙って行ってこんかい!このままじゃ挑戦者から苦情くるわ!」
「やだっ!やだやだやだぁー!!ちょっ、カズマサ君!シンゲンさん!キャメロンー!」

クラウドに引き摺られ、泣き喚きながら執務室に連行されていくナマエから皆が目を逸らし、口を閉ざしていた。
誰しも結局我が身が一番可愛いのだ。
ナマエは世の世知辛さというものを身をもって学んだ。









「ぷぎゃん!!」
「!」

ノックも無しに開けられたドアから飛び込んできたのは何とも間抜けな悲鳴を上げて床にぶつかったナマエだった。
ノボリが反射的に席を立つと、その瞬間床に崩れたナマエの背後で人為的にドアが閉められる。
それだけで、大方の事情を理解したノボリはため息をついた。

「〜〜〜っい、た…!」
「……何をしているのですかあなたは」
「!!ぼ、ボスッ!ごごごご機嫌うるわしゅう…!」
「バカなことを言っていないで起きなさい。仮にも女性がいつまでも床に転げているものではありません」

やれやれとばかりに肩を落として屈んだノボリがすいと伸ばした手でナマエのわき腹の少し上を掴み、軽々と抱き上げる。
そのまま優しく床に降ろされて、ナマエは気恥ずかしさにほんのりと頬を染めた。
『仮にも』と皮肉がついたものの、肝心の時にはきちんと自分を女性として扱ってくれるノボリの態度がなぜだかくすぐったい。
しかし彼の顔を見れずにふいと視線を斜め下に逃がした時、何か違和感を覚えた。
――いつもの彼とは、違う気がする。

「ぁ――もしかしてボス、禁煙とかしてます?」

ピクリ。
帽子のせいで見えづらいが、微かにノボリの眉根が動いた。
それを肯定と受け取り、ナマエはなにかとても珍しいものを見たように「ぉお!」と声をあげ、ノボリに一歩近づいて背伸びをする。
シャツの胸元でスンと鼻で息を吸い込んでも、いつものあの香りがしなかった。

「煙草の匂い、しないです……あぁ!禁煙中だからイライラしてるんですか?」
「……別に、そういうわけでは」
「聞きましたよ!手加減抜きで挑戦者の相手してストレス発散してるって!そういうの、コウシコンドーじゃないですか?」

普段虐められている腹いせなのか、ここぞとばかり説教じみたことを言いつつ、どうなんだと顔を近づけてくる。
そうすると、必然的に二人の距離は縮まるわけで、今ならば少し腕を伸ばせば彼女の小さな身体は逃れる間もなくスッポリとノボリの胸に収まってしまうだろう。
しかしそんなことには一向に気がつかないナマエに、ノボリは視界を細めて掌を握り締めた。

(――全く、このおバカは誰のせいだと……)

「そんなにイライラするくらいなら禁煙なんてしなきゃいいじゃないですか」
「………」

プツン

ノボリの中で、何かが千切れる音がした。
それは堪忍袋の緒だったのか、はたまた理性の糸だったのか。
とにかく、自制心を捨てたノボリは遠慮なく彼女の腰を抱き寄せ、もう一方の手で彼女の顎を上向きのまましっかりと固定した。
勿論、いきなりの出来事にナマエはまた情けない悲鳴を上げ、全身を強張らせて警戒の姿勢をとる。

「ボッ、ボス…ッ?あああの、調子に乗ってすみませっ」
「――あなたは、わたくしがなぜ禁煙しているかわからないのですか」
「ぅっ、え……?……け、健康のため、とか…?ヒィィ!!」

涙目でしどろもどろ答えたナマエに、ノボリはニコリと微笑んだ。
しかし、同じ顔で笑っているのに、彼の弟とは全く異なるどす黒い影を含んだ微笑みにナマエが肩を震わせる。

ダメだ。なんだかわからないけれど、本気で怒らせてしまった。
これはもう、自分は今日ここで死ぬのかもしれない。
悲痛な覚悟を決めたナマエがひくりと喉を鳴らした瞬間、顎を掴んでいたノボリの親指が、不意に戦慄く唇をなぞった。


「――ちょうど、口寂しかったところです。責任を取ってあなたが慰めなさい」
「ぇ ん、む?」


むに。
弾力のある何かに押し潰された唇が形を歪める。
目の前がぼやけるのは涙の膜のせいか、それとも――ノボリの顔が、近過ぎるせいか。
一瞬頭が真っ白になり、思考ごと身体の全機能を停止させたナマエだが、薄っすら開いていた唇の割れ目にぬるりとしたソレが這った瞬間、ハッと我に返った。

「ン?!っん゛ーーっ!!」

目の前の、上司にキスをされている。
それを理解したのと同時に頬がカッと熱を持ち、心臓が加速した。
彼の腕の中から逃れようと身を捩り、胸を押し返すが力の差など歴然としている。
それでもなんとか、唇の奥への侵入だけは阻もうと頑なに結んだ唇を、先程の熱い舌が誘惑するように往復し、時折甘く吸い付かれてしまうと足が震えだしそうになった。

「ふっ、ン、う…っ」
「――まだ、足りません……ナマエ」
「っ……ぁ、む…!」

唇を触れ合わせたまま囁く声は『口を開けろ』と言外に命令する。
濡れた唇に触れるその吐息はあまりに熱く、名前を呼ぶ声は普段の彼からは想像もできないくらいに甘く掠れて、思わず震える息を漏らしてしまったナマエの隙を逃さず、口付けはより深くなる。
いつの間にか腰が抜け、床にへたり込んでしまっても尚その身体を追いかけて覆い被さったノボリに思う様味わいつくされ、絡んだ舌がようやく解かれる頃にはナマエの意識は朦朧として、まともな思考回路など機能していなかった。

「――『ご馳走様』、でございます」

珍しく口角を上げ、どちらのものとも言えない唾液に濡れた唇を妖艶に舌で舐めたノボリが掌でナマエの頬をなでる。
ただそれだけのことにビクリと身体を震わせ、潤んだ瞳で彼を見上げるナマエに彼はひどく優しい声で囁いた。


「わたくしに禁煙させた責任、しっかり取っていただきますので、ご覚悟を」




翌日から、執務室に呼び出されては真っ赤になって帰ってくるナマエを見守る鉄道員達の間に、「ナマエがとうとうボスに食われた」という噂が広まったことは言うまでもない。





(11.12.04)