ポケモン | ナノ


「まったく、あなたは何度言えばわかるのですか」
「ひゅ、ひゅみまひぇん〜!」

ああ、またやってる。
ドアの向こう、ボスの執務室から聞こえてくる会話に思わず苦笑い。こうなるとこの人達は長い。
けれど新米の自分が割って入るのもあれなので、提出する書類を腕に抱えて、ドアの横の壁に背中を預けて取りあえず待ってみることにした。

「どうしてあなたは時間を守れないのです。幸いお客様がいらっしゃらなかったので事なきを得ましたが、鉄道員が電車に乗り遅れるなんて格好がつかないにも程があります。あなたはおバカなのですか」
「ひ、ひがいまひゅ!ていうかぼひゅ、ひたい!ひたい!」
「痛くなるようにしているんですよこのおバカ」

灰色の瞳をジロリと細め、ナマエ先輩の頬をぐいぐいと両側に引っ張るボスの姿が容易に想像できる。
というのも、それはここに勤め出してからの数ヶ月で数え切れないほど目撃した光景だからだ。
初めてその場に出くわした時はかなり驚いて慌てて止めに入ろうとしたけど、どうやらそれはごくごく普通の日常茶飯事だったようで、居合わせた他の先輩にも『良いからあの二人は放っておけ』と止められてしまった。

バトルサブウェイが誇る黒のサブウェイマスターは、直属の部下であるナマエ先輩を事あるごとにこうして自分の執務室に呼びつけ、チクチクと針で刺すような小言と同時に小学生にするような体罰を与えるのが日課のようなものなのだ。

「ごっ、ごめんなひゃい〜!つぎからはきをふけまひゅ!」
「その台詞はもう聞き飽きました」
「ひゃうぅ!!ほ、ほんろ!ほんろらから!!」

頬を引っ張られているせいで何を言っているかちょっとわかり辛い先輩の言葉も、ボスには苦もなく聞き取れるらしい。
いよいよ痛さが限界に達したのか、涙混じりの声で叫んだ先輩の言葉にボスが意地悪くフンと鼻を鳴らした。

「――でしたら、その言葉を守れなかった場合は、あなたには一ヶ月わたくしの肉奴隷になって頂きます」

(…………っでぇええええ??!)
ちょっ、ちょっと待て。ちょっと待て!今ボスなんて……?!
いやでもまさかボスに限ってそんな…!えええなんだ俺疲れてるのか?!

「へ?に…にくろれ……?」

(いややっぱりそうだったー!!ボス『肉奴隷』って言ってたー!!)
どうやら疲れすぎて幻聴が聞こえたわけではなく、ボスは確かにナマエ先輩に向かって自分の肉奴隷になれと言ったようだ。――いや、『ようだ』なんて冷静に言ってみたものの頭の中は混乱を極めている。
あああ、なんてことだ。なんてことを聞いてしまったのだ。
不可抗力で思わず想像してしまい、急激に高まった熱が顔に昇る。腕の中に抱えていた書類が、グシャリと潰れた音がした(あ、)
と言うか!と言うかこれは先輩絶対意味わかってないだろ!!(あの人ポケモンバトル以外はさっぱりだから!)

「ほら、お返事はどうしたのです」
「ひゃ!ひゃい!わかりまひ、」

「――っっと待ったぁぁああ!!!」

バン、とナマエ先輩の声を掻き消すためにわざと乱暴にドアを開き大声を出して、ついに突入してしまった(いや、だってこれを放っておくのは人としてさすがに……!)
視線の先では散々つねられたせいで頬を真っ赤にして、驚いたように目を丸くするナマエ先輩と、こちらに向かってプレッシャーを放っているボスの姿(ひぃぃ!!)
『カズマサの 素早さ が 下がった!』なんて、のんきに考えている場合じゃない。

「せっ、先輩ダメですって!意味もわからないのに頷いちゃダメです!!」
「うぇ?あ、え?なんだカズマサ君聞いてたの?」

ようやくボスの手が頬から離れて、先輩は赤くなった頬をさすりながら首を傾げる。この反応、やっぱり意味を理解していないのだろう。それに対してボスは思い切り俺に聞こえるように「チッ」と鋭い舌打ちをした(怖ぇ!)

「――興が削がれました。ナマエ、持ち場に戻りなさい」
「!はっ、はい!失礼しまーす!」

『ラッキー!』とばかりに笑みを浮かべ、先輩がさっと執務室を出て行くと、その場に残されたボスとの間に嫌な沈黙が流れた。
これは、マズい。ボスの機嫌を損ねた自覚があるぶん、とばっちりを受ける覚悟を決めた。
ちょうどその時、ボスがドサッと椅子に腰を降ろしたせいでつい肩が飛び跳ねてしまったのは仕方がないことだと見逃してもらいたい。

「――それで?その腕にあるものは報告書ですか?」
「っ!!はい!ど、どうぞっ…!」
「……次からは書類を握り潰さないでくださいまし」

皺だらけになってしまった報告書をため息混じりに受け取って、ボスはやれやれと軽く肩を落とす。
だが、それだけだ。
ナマエ先輩のように、嫌味を言われたり体罰を受けることなんてない。
要するに、ボスがあんな風に接するのは先輩だけだということだ。
――そう考えると、どうにも胸の奥のほうがモヤモヤして、口を開かずにはいられなくなった。

「……ボス、先程のナマエ先輩の件ですが、先輩が電車に乗り遅れたのは先輩のせいではなくて、」
「知っていますよ」
「……え?」

え?
思わず聞き返すと、ボスは椅子を回して机に向かい、提出した報告書に目を通しながら淡々と答えた。

「知っております。迷子を見つけて、その面倒をみていたのでしょう?」

まさしくその通り。
自分はたまたまその姿を見かけたから知っていたわけだが、ボスもそうだったのだろうか。

「あれの行動はいつも監視カメラで追っておりますので」
「っ、でしたらどうして、あんな風に頭ごなしに先輩を叱るのですか」

サラリと妙なことを言われた気がしたけれど、それよりも今は目の前のボスの理不尽さに納得がいかない。
その苛立ちに、つい語気を強くして詰問のように問いただすと、返された回答に更に耳を疑うことになった。


「そんなこと…あれを苛めるのが楽しいからに決まっております」


「――――、は ?」
心の底から零れたその一言に重ねるように、ボスは引き出しから取り出した判子を報告書の端に押し、再びこちらを振り返った。

「…ところで、あなた様こそ妙に彼女の肩を持つではありませんか」
「っぇ、え?いえ…そんなことは……」
「もしや彼女に気があるのですか?――だとしたら、お生憎様でございます」

一度言葉を区切ったボスが、鋭い目をゆったりと細める。
そこに浮かんだ凄絶な微笑を、俺は恐らく生涯忘れられないだろう。


「あれは、わたくしのものですので」









「はぁ……」
「なんやなんや、辛気臭いツラしてどないした?」
「先輩……ナマエ先輩と黒いボスは恋人同士なんですか?」
「はぁ?ちゃうちゃう、あれは完全にボスの片思いや。ナマエはなーんも気づいとらん」
「(ですよねー)」
「まぁボスもあれやからな…好きな子ほど苛めたいタイプっちゅうか…ナマエに対してはもはや単なるいじめっ子と言うか…」
「おっしゃる通りで」
「あの二人のことは余計な気ぃまわさんと、遠目に見守っとくに限るっちゅうことやな」

言ってる傍から、ホームをてこてこと歩いていたナマエ先輩がまたしてもボスに捕まった。
ここからは離れているので何を言っているのかは聞こえないが、また何かしでかしたのか先輩はお説教を受けているようだ。
逃げ腰になりながらペコペコと頭を下げる先輩の腕を、ボスの手が捕まえる。
あっと言う間に先輩の身体はボスの小脇に荷物のように抱えられ、慌てふためく先輩とは対照的に、ボスはいつもの無表情ながらどこか満足げだ(あああ……)

(……ご愁傷様)

どこかへ連れ去られていく先輩を遠目に見送り、俺は静かに踵を返して持ち場に戻った。






(11.11.15)