「あ、あの……インゴさん?」 「――What?」 「や、『何か』じゃなくてですね、そろそろお終いにしといた方が良いんじゃ……」 「……ナマエ」 トン、と些か乱暴にテーブルに置かれたグラスの中身は既に空になっていた。 鋭い目がギロリと俺を睨んで思わず肩が竦んでしまう。 そうすると、インゴさんはなぜか機嫌良さそうにフンと小さく鼻を鳴らしてニヤニヤしながら俺の顔を覗き込んだ。 「さて、お前はいつからワタクシに意見できる身分になったのでしょうね」 「っい、いやでもですね、時間も時間ですし、インゴさん明日もしご、」 「お前は、身寄りの無いお前を拾ってやった恩人であるこのワタクシの、晩酌にすら付き合えないと?」 「うぐっ……!」 『わかったならさっさと注げ』 そう言わんばかりの視線をよこして、空になったグラスを向けてくる。 それを無視するわけにもいかず、しぶしぶ腕に抱えていたボトルを傾けて新たな琥珀色の液体をそこへ注げば、満たされていくグラスを見つめるインゴさんがゆったりと目を細めた。 インゴさんは、さっき本人が言った通り、いわゆる俺の『恩人』なのだ。 半年ほど前、いつも通りの電車に乗っていたはずの俺は、転寝して目が覚めるとポケモンの世界にトリップしてしまっていた。 しかもなぜだか性別まで変わっていたのだから、その時の俺の慌てぶりと言ったらもう……思い出すのも苦痛だ。 そして、そんな俺を拾ってくれたのが、偶然その電車に乗り合わせていたこのインゴさんだった。 だからつまり――俺はどうあがいてもこの人にだけは絶対に逆らえないのだ。 (いや――そりゃもちろん感謝はしてるんだけど、さ) 見るからにアルコール度数の高いそれを信じられないペースであけていく姿に戦々恐々。 インゴさんはかなりの酒豪だ。顔色も変えず、パカパカ飲んでいく。 ――だけどいかんせん、酔いが回ってくると『悪い癖』が出てくるらしい。 つまり、そう。 今、俺の腰にするりと回された手がその…っ……い、いやらしい、動きを、しているわけで! 「いッ、インゴ、さんッ!?」 「Huh?」 「や、あの!手の位置っ、おかしくないですかッ!?」 「Sorry, I don't know what you mean.」 「嘘つけあんた日本語通じてんだろー!!」 こういう時だけ日本語の不自由なふりしやがって! 更に身体を近づけてくるインゴさんを必死に引き剥がそうと腕を突っ張るが、力で敵わないことなんて誰の目にも明らかだ。 その上で、インゴさんはクツクツと喉を鳴らしながら半ば俺に圧し掛かり、いつの間にかまた空になっていたグラスをテーブルに置いたかと思うと、俺の持っていたボトルをひょいと取り上げてわざとらしく顔の横で揺らした。 「――たまにはお前も付き合いなさい」 「いやいやいや!俺未成年なんで!!」 「堅いことを仰らず。ああ、なんでしたらワタクシが飲ませて差し上げましょうか」 言って、ニタリと笑んだインゴさんが徐にボトルの口に唇をつけた。 マズイ この展開は、良くない。 直感的に理解して、逃げ出そうとしたけどもう遅い。 ふっと顔に影が落ちて、アルコールに濡れたインゴさんの唇が間近に迫る。 「ッ――!!!」 さい、あく。 これだから酔っ払いは―― 心の中で盛大に悪態をついて、身を硬くしながら強く目を閉じたその時 『コクリ』 頭上で、喉を鳴らす音が、した(え、) 「ぅ、え……?」 「何を本気にしているのやら。お前の様なお子様に、コレはまだ早すぎます」 可笑しくて堪らないと言いたげな青い目が至近距離から俺を覗き込んで笑う。 要するに、からかわれたのだ。この大人気ない大人に。 (なん、だ……) 憤りよりもまず、安心感が先立って、強張っていた体から力が抜ける。 その瞬間、インゴさんの目つきが変わった。 「――今は、味見だけで我慢しておきなさい」 「っふ、ぐ!」 騙された。 そう思った時には、インゴさんは俺の唇を易々と舌で割っていた。 完全に油断していた身体がソファに沈んで、上から覆い被さるインゴさんがそれを追いかける。 ちくしょう。これだから酔ったこの人の相手は嫌なんだ! 「んっ!んー!!」 アルコールの匂いが鼻を突いて、頭がクラクラする。 加えてインゴさんが意地悪くわざと俺の口内でやらしい音を立てるものだから、気が気じゃない。 舌を、舌で触られるの、苦手だ。 ぬるぬるして、熱くて、逃がしても逃がしても追いかけられて、諦めれば甘く噛まれる。 そうされると腰の辺りから背中にかけてゾクゾクして、自分の身体が、自分のものじゃないみたいに言うこと聞かなくなる。 からかわれてる、だけなのに からかわれてるんだって、思うと、なんか なんか――無性に泣きたく、なるんだ。 (――きっと、あんたはそんなこと、知りもしないんだろうけど) 「……『初めて』のお味はいかがですか?」 「ッ…サイッ、テー……!」 「おや。やはりまだ早過ぎましたか」 低く喉を鳴らして満足そうに笑いながら、俺が飲み込み切れずに唇の端から零してしまったものを拭った指をペロリと舐め取る。 その仕草に、上がりっぱなしだった心拍数がさらに跳ね上がって咄嗟に顔を背けた。 この男前のことだから女の人に不自由なんてしてないだろうに、こんな男だか女だかわからないガキにまでちょっかいをかけるんだから、本当にたちが悪い。 だけど一番救えないのはきっと――本気でこの人を拒むことができない俺自身なんだろう。 「……ところでナマエ、『ワカメ酒』というものを知っていますか?」 「は…ワカメ?いや、ワカメなら俺の世界にもありましたけど、お酒には入れませんよ普通」 「なるほど。では、お前の言う『ワカメ』とは別物なのかもしれませんね」 ――なんか、あんまり良い予感がしない、ような。 それでも今更抵抗するのも億劫で、インゴさんに押し倒されたような体勢のまま視線だけで頭上のその人を窺う。 ガラス球みたいな綺麗な瞳と視線が絡むと、僅かながらも摂取したアルコールにあてられたのか頬がポーッと熱くなって――不意に触れたインゴさんの掌の温度が妙に、心地よかった。 「……その、『ワカメ酒』っていうの……おいしいの?」 「さぁ。それを今から試してみようかと思いまして」 「ふぅん?そっか……じゃあ、今日はもうそれで最後にしといてくださいね」 クツクツ。インゴさんが笑う。 何がそんな愉しいんだろう。 なんでそんな――ギラギラした目、してんだろ。 「ご心配なく――お前はただ、座っていれば良いだけですから」 また新しいボトルの栓を抜いて目を細めたインゴさんに手を引かれ、ゆっくりと身体を起こす。 横目に見た時計の針は既に深夜零時を回っていて、 俺はただ、今日また出勤していくインゴさんが二日酔いで不機嫌にならなければいいなと、そんなことだけを考えていた。
(12.03.21)
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