ポケモン | ナノ


「ナマエ様、こちらへ」


風呂上り、リビングに入るとソファのノボリさんに手招きされた。
特に断る理由はなくて、冷蔵庫から取り出したスポーツドリンクを手にノボリさんの隣に腰を下ろす。
そうすると、首に掛けていたタオルがスルリと抜けて、「あ」と思った時には頭から被せられていた。

「まだ濡れています。風邪をひきますよ」
「……ありがとうございます」
「いいえ」

クシュクシュと心地いい力加減で、適当にぬぐっただけだった髪をノボリさんが丁寧に拭いてくれる。
ほんと、こういうところはマジで“母親”だ。なんと言うか、安心させられる。
ノボリさんにされるがまま俯いて、垂れた前髪の合間からチラリとその顔を覗き見ると、ノボリさんも眦を和らげ微笑っているように見えた。
……うん。これは多分、機嫌が良い。

――だったら、今なら言えるんじゃないかな。

「 ノボリさん、あの」
「はい?」
「えっと……は、話が、あるんですけど……」

「………」

ピタリ。
切り出した途端、ノボリさんの手が止まる。
待て待て兄弟そろって勘が良すぎるんじゃないだろうか。
やさしげだった眼差しが冷えたものに変わるのを感じながら、それでもここで後戻りはできないと覚悟を決めた。



「俺、ポケモントレーナーになって、旅をしてみようかと思うんです」



そうだよ。クダリさんに負けず劣らずポケモン大好きなノボリさんのことだ。
もしかしたら案外すんなりOKをもらえるかもしれない。

――そんな甘い考えは、すぐに打ち砕かれた。


「いけません」


「ッ!!」

取りつく島もない。まさにそんな言い方だった。
一言でバッサリと俺の希望を切り捨てて、ノボリさんは今の会話なんてなかったかのように、またせっせと俺の頭を拭きはじめる。
さすがに腹が立って乱暴にそれを振り払い、タオルを取ってノボリさんを睨みつけると、想像以上に冷え切った――あの日と同じ目が俺をヒタリと捉えていた。

「ノボリさん!俺、冗談で言ってるわけじゃ……!」
「ええ。わたくしとて同じでございます」

怒っているのがよくわかる、いつもより低い声。威圧感は半端じゃない。
正直圧倒されるものがある。けど、俺だって引くわけにはいかない。

「っ…俺、ポケモンのことも、この世界のことも、もっとちゃんと知りたい。それってそんなに、いけないこと……?」

クダリさんの助言通り、その切っ掛けのことは――シキミさんのことは、言わなかった。
それでもこれは俺の本心だ。
いつまでも部屋に閉じこもって、誰かに守られて、慰められて、自分の境遇に酔っているようなまねはしたくない。
外に出て、色んなことを自分の目で見て、知っていきたい。体験したい。
そうしていればそれはきっと、元の世界に帰る手掛かりに繋がると信じてる。

だけど、俺のそんな願いは、ノボリさんの次の言葉で完全に挫かれてしまった。



「では、あなた様のポケモンはどうなるのです」



「っえ――?」

俺の、ポケモン……?
返された予想外の言葉にその先が詰まる。
そんな俺を見て、ノボリさんは無表情のまま、淡々と続けた。

「もしも、ナマエ様が旅の中で手掛かりを見つけ、元の世界に帰ることになったら、ポケモン達はどうなるのです」
「ッ!!」
「……以前、仰っていましたね。『突然来たのだから、帰るのも突然かもしれない』と。だとしたら尚更、何の心の準備もなしにトレーナーを失ったポケモン達がどうなるか」


「――おわかりになりませんか?」


目の前が、真っ暗に閉ざされた。そんな気がした。

「ッ……!」

ノボリさんに返す言葉が、なにも見つからない。
だって、ノボリさんの言うとおりだ。
もしも自分がポケモントレーナーになったとして、残されたポケモンはどうなるのか。情けないことに俺は、そこまで考えていなかった。
――いや、考えもしなかったんだ。

「……わかって頂けたのなら、この話は終わりにいたしましょう」

意図的にこの重い空気を払拭するように、ノボリさんが殊更穏やかな声で話を締めくくる。
それに食い下がることもできず、小さく頷いてソファから腰を上げた。

ああ。ちくしょう。体まで重い。
別にノボリさんは意地悪でそう言ってるわけじゃなくて、あれが正論なんだ。
そうわかっているのに、ダメだ。今は。
胸が嫌な感じにざわざわして、当り散らしたくて堪らない。

「……今日は俺、クダリさんのとこで寝かせてもらいますから」
「………ええ、承知しました」

気まずさ半分、八つ当たり半分。
顔も見ずにぼそりと言った言葉に了承があったのを確認して、踵を返す。いつものノボリさんの寝室じゃなくて、クダリさんの寝室の方へ。

「〜〜〜〜ッ、くそ!」

背中に突き刺さる視線を無視してドアを閉めた時、耐えていたものが決壊した目からはボロリと涙が零れ落ちた。



* * *



「随分ズルい言い方をするんだね、ノボリ」
「……盗み聞きですか」
「ちょうど帰ってきたトコロだった」

ナマエ様のいなくなったのを見計らったように玄関に続くドアが開き、現れたクダリが肩を竦める仕草をする。
それが妙に癇に障り、睨み返してやりますと、いつものあの貼りつけたような笑顔は鳴りを潜め、そこにあったのは憐憫さえ思わせるような苦々しい笑みでした。

「あれじゃナマエ、かわいそう。明日何が起こるかなんて誰も知らない。いつ離れ離れになるかなんて、そんなの僕らだってわからないよね」
「………」

ええ。自分でも、詭弁だとわかっております。
ですがああでも言わなければナマエ様は、


「ホントに置いてかれたくないのは、ポケモンじゃなくてノボリのくせに」


――ナマエ様は、わかってくださらない。

置いていかれるかもしれぬ者の気持ちを。
失う恐怖を。

苦しいほどにあなたを求める者の、胸の痛みを。



* * *



「……なぁバチュル、お前はさ、俺が突然いなくなったら寂しい?」
「バチュ!?」

寝転がってバチュルの鼻先をくすぐりながら問いかけた俺に、バチュルは驚いたような鳴き声を上げて、大きな潤んだ眼を更に潤ませた。

「バチュ!バチュ!」

ひしっと小さな前足が俺の指先を掴んで、しがみつくように身体を摺り寄せる。
まるで小さな子供が『イヤイヤ』をするように懸命に首を振られると、こっちまで泣きそうだ。

「ごめん、そうだよな。俺も寂しい。――寂しいに、決まってるよな」

身勝手だった。自分のことしか見えてなかったんだ、結局。
自分の目的のためだけにポケモントレーナーになろうなんて、そんなのノボリさんに叱られて当然だ。
浮かれ過ぎた自分が恥ずかしい。頭を冷やせ。

あれじゃノボリさんに『無責任な奴』だと思われたって仕方がない。


「――……それは、やだな」

「なにが?」
「………っぅおわ!!」

い、いつの間に部屋に入ってたんだこの人……!!
いきなり隣から声がしたかと思うと、クダリさんの瞳孔かっぴらいた目がすぐ横にあって飛び上がりそうなくらい驚いた。ちょっ、マジで心臓に悪い……!!

「なっ、い、いつから……っ!」
「ん?えっとね、『では、あなた様のポケモンはどうなるのです』、くらいから」
「は、?え……っ!!?」

『いつから部屋にいたんですか』って聞いたつもりが、想定外の返事に一瞬頭が追い付かない。
だけどそれがノボリさんとの会話だということに気が付いた時、さっきよりももっと驚かされた。

「ッ…聞いてたんですか……」
「うん。ごめんね?入りづらい雰囲気だったから」
「……別に、いいですけど……」

いや、ほんとは別によくないけど。あんまり聞かれたい内容じゃなかったし。
つい唇を尖らせて視線を逸らすと、腰を掴んだ手にぶわりと持ち上げられた。

「今日はこっちで寝るんでしょ?そんなところじゃなくて、一緒にベッドで寝ようよ!」
「ぃっ、良いですよ俺は床で……!」
「ダメー!ノボリとはベッドで寝てるんだから、僕とも一緒っ!!」

きゃっきゃっとまるで子供みたいに嬉しそうに笑いながら、俺を抱き上げたままベッドに倒れこんだクダリさんがぎゅうぎゅうと苦しいくらいに抱きしめてくる。いや、苦しい『くらい』じゃなくて実際苦しい。中身はこんなだけど身体は立派すぎる成人男性なんだからもうちょっと力加減をしてくれ。
内心でそう文句を垂れつつ、しかし部屋に泊めてもらう身であれこれ突っかかるのも気が引けて、結局はなされるまま。
そんな俺の頭をわしゃわしゃと撫でる手を止めて、クダリさんが不意に、真面目なトーンで切り出した。


「――僕も、寂しいよ」


「……ぇ、?」
「ナマエがいなくなっちゃったら、寂しい」

「………」

ぎゅっと、もう一度抱きしめられてクダリさんの胸に顔を押しつけられる。
そうされると、その言葉が嘘や冗談なんかじゃないことが嫌でも伝わってきて、どうしていいのか、わからない。
ただ、わからないなりにもクダリさんの気持ちに応えたくて、恐る恐る回した腕でシャツの端を控えめに握ると、頭上で小さく苦笑した気配が伝わってきた。

「……ノボリも同じだよ。だからさ、ノボリのこと、嫌わないであげて」
「?いやそれは……ノボリさんは正論言っただけですし、むしろ考えなしなのは俺だったわけですから嫌うも何も……」
「………ナマエさ、お人好しって言われるでしょ」
「は?」

どこか呆れたように言うクダリさんにその意図を訊き返しても、返事は「やれやれ」と言わんばかりのため息一つだけ。
そうしてるとやっとのことでベッドによじ登ってきたらしいバチュルがまた「バチュバチュ」鳴きながら俺の頬に必死にすり寄ってくる。
ちょっとチクチクするけど、それ以上に嬉しかった。

「……ねぇナマエ、そのバチュル、ナマエにあげるよ」
「えっ?」
「バチュ?」

突然のその言葉に、俺もバチュルも驚いてほぼ同時に声を上げる。
思わず勢いよく身を起こしてクダリさんをマジマジ見つめ返すと、クダリさんはにっこり笑いながらバチュルの頭を愛しげに撫でた。

「もうかなりナマエに懐いちゃったし、一緒にいてあげてほしいんだ」
「っ、で、でも俺……!」
「――共有できる時間があるなら、その限り傍にいた方がいい。後から『もっと一緒にいればよかった』なんて思っても遅いんだから」
「ッ……」
「ね、バチュル。君もそう思うでしょ?」

でも、だけど
俺で、良いのか。
こんな、いついなくなるかわからない奴で、後悔しないか。


「バチュッ!!」


そんな不安を吹き消すように、いつもよりも力強く、高く鳴いたバチュルの声に、鼻の奥がツンと痛む。


「――ああ、こちらこそよろしく、バチュル!」


隠しきれない涙声で言ってバチュルを掌に抱き上げた俺に、クダリさんは「おめでとう」と優しく笑った。





(12.07.03)