ポケモン | ナノ


「ノボリさんは、俺の“家族”だから」


その瞬間のノボリさんの顔を見て、胸の奥が締めつけられたように感じたのは、自分が少なからず罪悪感を抱いていたからだろうか。

「ッ、ナマエ、様」

息苦しさを覚えるほど強く抱きしめられて、泣き出しそうな声で呼ばれると、それは確かな痛みに変わった。
心臓が疼くように――責めるように、ずくずくと。
だけどそれを悟られるわけにはいかなくて、殊更明るく振る舞うしかできない俺に、どうか気づかないでと祈る。

これ以上踏み込まないでくれと、願う。


(――ノボリさん、俺は)


俺はあんたが思ってるよりもずっと狡くて、弱虫だから、

あんたの気持ちに応えることは、できないよ。



* * *



「……初潮が来たって話からなんでそこまでこじれたの」
「う、いや…あの、俺にもその辺りは……」

ノボリさんと何があったのかを一通り説明すると、クダリさんが肩を竦めてため息をついた。
……と言うか今この人普通に『初潮』って言ったな。ううう、やっぱりもう伝わってるのか。穴があれば入ってしまいたい。
正座したまま俯いて、居た堪れない気分で身を小さくする俺に、クダリさんは「でも、」と言葉を続けて、不意に真剣なトーンで話し始めた。


「まぁ、いつかはこうなるんじゃないかって思ってた」


「ッ――!!」

ドクン
大げさなほど強く、心臓が響く。

……何を言う気だ、この人。
いつの間にか膝の上で握りしめていた掌に、じわりと汗が浮かぶ。
自分の喉がゴクリと鳴る音が、やけに耳に残った。

「ナマエ、ノボリはさ、見た目ほどできた人間じゃないよ」
「…っ、そんな、こと」
「なくない。根っこの部分は僕とおんなじ」


「どうしてもほしくなったら、我慢なんてできない――ううん、我慢なんて、しない」


クダリさんの言葉の残響が消えた部屋に、シンと耳に痛いほどの静寂。
俺の前にしゃがんだクダリさんが徐に頬に触れて、顔を上げるように促された。
ノボリさんと同じあの目が、まるで可哀想なものを見るような眼差しで俺を捉える。
何か言わないと。そう思って絞り出した声は、上擦って僅かに震えていた。

「……なに、が、言いたいんですか」
「もう気づいてるくせに」
「ッ、!」
「言ってほしい?それとも、まだ知らんぷりしてたい?」

そこにおそらく、悪意の類は一切ないんだろう。
クダリさんはただ、俺の出方を窺っているだけ。

――ゴクリ。もう一度、耳の奥で警告音がした。

「お、れ…は」

本当は、クダリさんの言うとおり、気づいていた。
出会ったあの日から、ノボリさんが俺を見る目は、同じ男に向けるべきそれじゃなかった。
いや、事情を知らなかったうちは仕方がないだろう。だけど。
俺の事情を知ってからも時折、ノボリさんが不意に見せるあの熱を帯びた眼差しに、本当は気づいてた。
気づいてて、だけど、知らないフリをした。自分自身に対しても。

だって俺は、

「ノボリさんのこと、好きです。もちろん、」



「――“家族”として」



俺は、ノボリさんの気持ちに応えることなんて、できない。

「……だから、ノボリさんが言ったこと、別に裏切りだとか、そんな風には思わない。ノボリさんは、俺の“家族”になってくれるって言ったんです。だったらクダリさん、離れたくないって思うのは、普通のことでしょう?」
「、ナマエ」

クダリさんが珍しく眉を寄せて、苦々しい顔をする。
ああ、そうか俺、うまく笑えてないのか。でもさ、そうするしかないだろ。
これが間違いだって言うなら俺は、もうどうすれば良いのかなんてわからない。

「――わかった。それがナマエの“答え”だね」

無理やり作ったようなぎこちない笑顔で、クダリさんはまた、憐みさえ含んだ眼で俺を見る。

「それじゃ、そろそろ迎えに行こう。ノボリきっと、今頃凍えてるよ」

ポンと軽く頭を撫でられて、自分でも気づかないうちに、それをノボリさんに重ね合わせていた。
どこまでも優しい目で俺を見る眼差しの面影が過り、胸が焼かれたように、痛みを訴える。
だけどそれさえも抑え込んで自分を騙し、これで良いんだと繰り返し言い聞かせた。
自分を正当化して、守ることに躍起になった。

これから自分のすることが、狡いことだとわかっていたから。




* * *



「――ね、だから。一緒に帰りましょう、ノボリさん」


予防線を張る。
何も知らない風を装って、言葉の下に棘を隠す。
ノボリさんがそれ以上、何も言えなくなるように。

(ごめんなさい。だけど、)

いつか来るお別れが寂しいと思うのも、
あんたを“家族”みたいに大切だと思うのも、嘘じゃないんだ。
傍にいたいのは本当なんだ。
だから


(俺は、気づいちゃいけない。認めるわけにはいかない)


そうじゃなきゃ、“ここ”にいることはできないよ。


(――ああ、結局俺、何のためにこの世界に来たんだろう)

ちぐはぐな心と身体じゃ何もかもが中途半端で、こんなにも優しい人に向き合うこともできず、何一つ上手くいかない。
そもそも俺がここに来た理由なんてあるのだろうか。
この苦しさにも意味があるのだろうか。
ノボリさんに、この世界に、笑って『さよなら』を言える日が来るのだろうか。



『アナタなら、きっと!!』



( シキミ、さん)

藍色の空を見上げると、不意にあの人のことを思い出した。

はじけるようなあの笑顔で、『大丈夫』だと言ってほしかった。





(12.05.11)