罰があたったのだと、思ったのです。 こちらの世界に来て変化したナマエ様の身体が、女性としての機能を始めた。 そのことがまるで、”適応”のようだと。 見知らぬ地に落とされた一粒の種が、大地に根を張っていくように、 ナマエ様が――”彼女”が、この世界で生きていくことに順応し始めているようだと感じて、仄暗い喜びを覚えたわたくしへの『罰』が下されたのだと、そう思ったのです。 (――……やってしまいました) 鉛を詰めたように重い胸から出たため息が一層気分を滅入らせる。 丘を吹き抜けていく夜風はコートのない身には少々肌寒く、自然と背が丸くなるのを堪えて手摺の上で肘を組めば、転車台を見下ろす橋の上を一組の親子が手をとって渡っていくのが遠目に見えました。 「………」 やはり、ナマエ様は元の世界に帰りたいのでしょう。 いくら言葉を尽くしても、時間を重ねても、所詮は他人。 血を分けた家族を恋しく思う気持ちに敵うとは思っておりません。……ええ、わかっておりますとも。 ですからわたくしはその代用品で良いと――元の世界に戻るまで、ナマエ様の寂しさを、心細さを少しでも紛らわすことができる存在でいられれば、それだけで構わないと、思っていたはずでした。 ――いえ。実際は、『そうであるべきだ』と、自分に思い込ませていたのです。 『元の世界になど、帰らなければいい――ッ!!』 身体の奥底から込み上げた激情に歯止めの効かなくなったあの瞬間、冷静な自分を押しのけて叫んだその言葉は、紛れもなくわたくしの本心でございました。 お綺麗な言葉で包み隠して、欲のない聖人のように振舞ってその実、わたくしは心のどこかで願っていたのです。祈っていたのです。 愛しいあの方を手離したくないと。 ずっとこの世界に、わたくしの傍にいてほしいと。 いつも――孤独と不安に瞳を揺らすナマエ様を、傍らで慰めているその時でさえ。わたくしは。 そんな卑しい自分を、あの方には知られたくなかった。 知られてはいけなかったのに。 (……きっと、取り返しはつきませんね) ナマエ様の、あの瞳。 信じられないと言いたげに見開かれたその眼に、わたくしはどのように映ったのでしょう。 裏切り者だと、嘘吐きだと、思われたでしょうか。 騙されていたのだと感じたでしょうか。 わたくしのことが信じられないと、なじられるだけならまだ堪えられる。 けれど、あの胸を衝く微笑みが、眼差しが、再びわたくしに向けられる日は永遠に訪れないというのならば それならば、わたくしは――…… 「ノボリ さん……!」 「ッ!!?」 不意に、暗闇の中からわたくしを呼んだのは今まさに思い描いていたナマエ様の声でした。 思わず肩を跳ねさせ、弾かれたようにそちらを振り向けば、少し息を上げたナマエ様の姿。 その途端心臓が重い音を立てて脈打ち、掌にじわりと汗が滲みました。 「な、ぜ……ッまた一人で――!!」 「!?ちっ、違います!クダリさんがっ…きっとノボリさんはここにいるって、あの…っ、あっちの、街灯のところで、待ってもらってて……!」 駆け寄ってくるナマエ様が一人であることに気づき、再びあの激しい感情が牙をむく。 そんなわたくしの手前で立ち止まり、ナマエ様は慌てて後ろを振り向きながらしどろもどろに言いました。 彼女の指差す方を見れば確かにクダリのものと思わしき人影があり、納得がいく。 幼い日に見つけたこの場所はわたくしとクダリの、いわゆる秘密基地のようなものでした。 ナマエ様の言葉が途切れた後、ぎこちない距離の開いたわたくしたちの間を冷たい風が吹き抜ける。 何か言わなければいけないのはわかっておりました。 ですが、それ以上にわたくしは、大人気なく恐れていたのです。 次にナマエ様の口から発せられる言葉を。その先にあるかもしれない拒絶を。 それを思うと、冷えた指先から感覚が消えて、首を絞められたように息が、苦しいのです。 「ッ……あ の」 「――ノボリさん、俺さ、」 絞り出した声を、先程とは違う、はっきりとしたナマエ様の声が遮る。 それだけでまた痛いほどに心臓が軋んで、胸が、凍える。 ドクリドクリと耳元で煩く喚く心音の中、いつの間にか逸らしてしまっていた視線をナマエ様に戻せば、その瞳はひたりとわたくしを捉え――そしてふと、やわらかに細められました。 「さっきのこと、怒ってないよ」 「――ッッ!?」 なにを、おっしゃるのでしょう この方は。 予想もしなかった言葉に身体が強張り、言葉が、喉に張り付く。 驚愕に目を見開くわたくしを、ナマエ様はやはり、真っ直ぐに見つめ返して続けました。 「……さすがに、ビックリはしたけど。でも、『嫌だ』とは、思わなかった」 「ッですが、あなた様は……!」 「うん。そりゃあ、帰れるなら帰りたい。その気持ちは変わらないよ。だけど、」 ナマエ様の一言一言に、いっそ笑いたくなるほど揺さぶられる。 それを知ってか知らずか、思わせぶりに一呼吸置かれた際の沈黙にごくりと自らの喉が鳴るのが聞こえた。 まるで審判が下る瞬間を待つように息を呑むわたくしと対照的に、ナマエ様はどこまでも穏やかで、その口元には薄っすらと微笑みさえ浮かんでいるように見えました。 「――……ずっと、思ってたんだ。どうして俺、こんなところに来ちゃったんだろう。なんで俺がこんな目に合わなきゃいけないんだろうって。この世界のことを知りもしないのに、そればっかり」 自嘲するような、寂しげな微笑みでした。自分を責めているかのような。 けれど、それは仕方のないことではありませんか。 何の前触れもなく、突然違う世界にやってきて、性別まで変わってしまって、その境遇を呪わずにいられる人間などきっと、いないに等しい。あなたを責めることなど、誰も、 「だけど、今日外に出てみて気がついたんだ。 この世界は、俺の知らないことで溢れてる。新しい出会いに満ちている――なんて言えば良いのかわからないけど、それってすごいことじゃないか、って……それを知らないままでいるのは、すっごくもったいないんじゃないか、って」
「――それから……」 一歩、言葉と同時にナマエ様が踏み出す。 手を伸ばせば触れられる距離まで近づいて、その瞳がわたくしを見上げる。 そこに浮かぶ微笑みはもはや、先程までの寂しげなものとは違い、ただ、 「俺がそう思えるようになったのは、ノボリさんのおかげだって、思ったんだ」 ――ただ、わたくしの胸を衝く、ひたすらに愛おしい 眼差し 「……ノボリさん、言ってくれたよね。俺の、この世界での家族はここにいる、って」 「ッ……」 「あの時、嬉しかった。ここにいても良いんだって、言ってもらえたみたいで、ほんとに嬉しかった」 「ノボリさんが俺に”居場所”をくれたから、だから俺、少しだけ 前向きになれた」 ――だから、許せると言うのですか。 帰りたいと願うあなたを慰めながら、閉じこめたいと願っていたわたくしを。 あなたは、 「 わたくし、は……ッ、先程の、あの言葉は…勢いで出たものでは、ございません……ッあれは――あれが、わたくしの本心なのです、それでも、あなた様は……!」 ああ まるで、わたくしこそ迷子のよう。 冷え切ったまま硬く握り締めた手に、やさしいぬくもりが触れる。 それだけで年甲斐もなく、無性に泣きたくなりました。 「……本音を言うとさ、複雑だけどでも、嬉しいんだ。 いつかお別れする日が来るって思ったら、俺も寂しい。だって」 「ノボリさんは、俺の”家族”だから」 照れくさそうな笑顔を、向けられた瞬間。 胸に込み上げてきた渦巻く二つの感情を抑えることなどできるはずもなく、わたくしは、わたくしの手に触れていたナマエ様の小さな掌を捕まえて自分へ引き寄せ、胸の中に掻き抱いておりました。 「ッナマエ、様」 「……はい」 「ナマエ様、ナマエ様、ナマエ様、」 「あはっ、なんですかノボリさん。苦しいですって」 「申し訳ございません…ッ、ナマエ様、」 ナマエ様 足りないのです。 何度呼んでも。どれだけ抱きしめても。 もう足りないのです。 ”家族”では、足りないのです。 「――ね、だから。一緒に帰りましょう、ノボリさん」 そう言って、遠慮がちに回った手が優しく背を叩く。 そこに居るのはもはや、あなたの求めた”家族”ではないのだと気づかぬまま、愛しげに、愛しげに。 わたくし達が既に、すれ違ってしまったことを知らぬまま。 あなただけは、穢れることなく。 (ナマエ様、わたくしは、) ゆるされたくなど、ないのです。
(12.04.17)
思わせてくれたのはこの人 気づかせてくれたのはあの人
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