ポケモン | ナノ


ヤバイ。

玄関の鍵を開けて、そこにノボリさんの靴を見つけた瞬間、嫌な汗が背中を伝い落ちた。

(あ゛あ゛あ゛そう言えばできるだけ早く戻ってくるって言ってたような……!!)

まだ日が沈む前だし、完全に油断していた。
どうしよう、俺、書置きとかしてないし。もちろん連絡も入れてないし、完璧に無断外出だ。
こ…これは怒られる……!!絶対怒られる……!!

「どっ、どうしようバチュル……」
「バチュ!」

どこまで理解してるのかわからないけど、バチュルは『そりゃお前謝るしかあるめぇよ!』と言わんばかりに力強く頷いた。
いやそれしかないってことはわかってるけど心の準備って物が……!

(クダリさんみたいにフライパンで殴られたらどうしよう……ノボリさん怒ると恐いからなぁ)

とは言っても、いつまでもこうして玄関に突っ立って悩んでいるわけにもいかない。
胸に手を当て深呼吸した後、覚悟を決めて靴を脱ぎ電気のついていない薄暗い廊下を静かに歩いていく。
テレビもついていないのか、部屋の中は妙に静かで、半開きになっているドアの向こうのリビングには灯りがついていなかった。

(ってことは寝室かどっかに――ッ!!)

まるでどこぞの家政婦みたいにドアの隙間から息を殺してリビングを覗きこんで、息を呑んだ。
そこには凄惨な殺人現場が――とか、そんなんじゃない。

ただ、電気もついていないリビングで、ノボリさんが立ち尽くしていた。


(あ、……ッ)


これは まずい

どこか虚ろな眼差しで空を見つめる目に、直感的にそう思った。


「ノ ボリさんッ!」


咄嗟にノボリさんの名前を呼んで、リビングの中に足を踏み入れる。
そうすると、一拍遅れてその声に反応したノボリさんがゆっくりとこっちを向いて、
俺を捉えた虚ろな双眸に、じわりと生気が戻っていくのがわかった。


「――ナマエ、様」


振り絞るような声で、ノボリさんも俺の名前を呼んだ。
それにホッとしたのも束の間、ドンと、強い衝撃が全身を打つ。

何が起こったのか、一瞬理解できなかった。

だけど、目の前にあるのは白いシャツと、青いネクタイ。
尻餅をつきそうになった身体は背中と腰に回った強い力に引き寄せられて、フローリングに両膝を突いた体勢で、窒息しそうなほど締めつけられる。
思わず止めてしまった息をどうにか吸い込んだ時、頭上でもう一度、震えた掠れ声が俺を呼んで――その時やっと、自分がノボリさんに強く抱きしめられているのだと理解した。

「ッ……!!」

ノボリさんに抱きしめられるのは、初めてじゃない。
だけど今までのそれはいつも、俺を元気付けるための淡くて優しいもので。
――なのに、『コレ』は 違う。

「ノボリ、さ…ッ」

咄嗟に身を捩じらせて腕の中から逃げようとした俺を、逃がすものかとばかりにまた強く抱きしめる。
背骨が軋んで、肺が潰れそうだ。
苦しくて、息ができない。それでも全然、ノボリさんは離そうとしない。
大きな掌が痛いほどに後頭部を掴んで、髪に頬を摺り寄せられた。その、震えた吐息が不意に耳を擽って、全身がぞわりと戦慄く。
いつの間にか心臓は、狂ったように激しい鼓動を繰り返していた。

(なん、だよこれ……ッ!!)

なんか、なんかわかんないけど、死にそうだ。
恥ずかしい。こんなんなら、フライパンで殴って怒られた方がマシだ。絶対。
だってこんなの――こんなノボリさん、どうしろって言うんだ。


「……ッ罰があたったの、だと」


身動きの取れないまま、ただ必死にこの状況に耐えていると、俺の名前を呼ぶだけだったノボリさんがようやくそれ以外のことを話し始めた。
だけど、その言葉は唐突過ぎて何のことだかわからない。
声をかけようにもゆっくり落ちてきたノボリさんの頭が今度は首筋に埋まって、あがりそうになった悲鳴を堪えるので精一杯だった。
そんな俺に圧し掛かると言うよりはむしろ縋りつくようにして、ノボリさんが途切れ途切れの言葉を続ける。

「元の、世界に帰ってしまわれたのかと…思いました……ッナマエ様、」




『 よかった 』




「――!!!」

小さな、ともすれば身じろぎの音にさえかき消されてしまいそうな、小さな声で
それでも確かに、ノボリさんはそう言った。

俺が、元の世界に帰らなくて、"よかった"って。

「――ッッ……ご、めんなさい!あのっ、俺…!」

なんで、そんなこと言うんだ。
ノボリさんは、俺が元の世界に帰るための力になってくれるって、そう言ったのに。
元の世界に帰れたなら、それが一番良いはずなのに。


どうして


「気分転換したくて、外に出てたんです!ノボリさんたちが帰ってくる前に戻れば平気だと思って…ッこ、っこんなことに、なるって思わなかったから……!」


拭いきれない疑問に無理やり蓋をして、聞かなかったことにした。

きっと言葉のあやだ。深い意味なんてないに決まってる。
ノボリさんはただ純粋に俺を心配してくれてたんだ、って。

そうやって自分を誤魔化しながら早口に捲くし立てれば、不意に拘束が緩んで少し呼吸が楽になった。
でもそれは顔を上げた先、さっきまでとは明らかに違う冷たい憤りを孕んだノボリさんの目に捕らえられたことでまたしても引き攣ったそれに変わる。
いつの間にか俺の肩を掴んでいた掌に、ギリッと音がしそうなほど乱暴な力が込められていた。


「お一人で、部屋の外に出たのですか?」


眼差しと同じ、冷ややかな声だった。
クダリさんを怒る時とはまた違う――いや、それ以上に怒ってる。
そんなノボリさんを見るのは初めてで、自然と身体が強張った。

「ご……ごめんなさい…っでも、一応バチュルも一緒で、」
「その様なことは言い訳になりません」
「ッ!!」

ピシャリと言われて怯まずにはいられない。
やばい。これは、思ったよりもキツイ。な、泣くかも、しんない。


「ナマエ様。わたくしはまだ、一人で外出する許可は差し上げていないはずですが」


多分、だけど。今のノボリさんは、冷静じゃない。頭に血が上ってる。
だって普段のノボリさんだったら、こんな責めるような言い方はしない。
俺の涙目を見て放っておけるような――ましてそれを更に追いつめて詰問できるような人じゃない。
自意識過剰かもしれないけど、ノボリさんは基本的に俺に対して甘いんだ。それなのに。

「……ごめん、なさい…ッ」
「――……今後、」


「引き続きお一人での外出は一切禁止させて頂きます。玄関のスペアキーもわたくしが管理いたします。それでもまた同じことを繰り返すようあれば、この手足に枷をつけて軟禁させて頂くことも厭いませんので、そのおつもりで」


「な゛っ――!!」


”軟禁”って
”枷”って

ノボリさんの口から出た言葉が信じられなくて――同時に、腹が立った。
何から何までノボリさんとクダリさんに頼りきりの、保護してもらってる分際で俺だってこんな事言いたくない。
だけど今のノボリさんの言い分は、絶対に聞き入れられるものじゃなかった。
だってそれじゃあまるで俺は――俺は、ノボリさんの”所有物”みたいだ。

「ッ…ノボリさん!俺っ……確かに黙って出掛けたのは、悪かったと思います!だけど、こうしてちゃんと帰ってこれた!!ここに来たばっかりとはもう違う!!」

そうだ。なにもわからなかった頃とは違う。
文字だってそれなりに読み書きできるようになったし、こっちの世界のことだって勉強した。
子供じゃないんだから、いつまでも過保護にされる必要なんてない。

それを必死に訴えかけるのに、ノボリさんは相変らず冷たい目のまま、苛立たしげに眉を顰めた。

「頃合はわたくしが判断いたします。来るべき時が来れば勿論外出の許可も差し上げます。ですから今はどうか、わたくしの言うことを聞いてくださいまし…ッ」
「ッだから、俺はもう一人でも、」
「――ッナマエ様!!」
「!!」

ここで引いたら、きっとなんだかんだでずるずる部屋を出してもらえない。
そう思って必死に食い下がったけど、強く恫喝されて、掴まれた肩がビクリと大げさに跳ねる。
そんな俺に一瞬だけ顔を歪ませて、だけどノボリさん自身堪えかねたように、短い呼吸の後吐き出された言葉は上擦って震えていた。

「あなた様のいない、抜け殻の部屋を見て、わたくしがどんな想いをしたか、あなた様は――ッ!!!」
「っ、でも……!いつまでも部屋に篭りっきりじゃ元の世界に帰る手がかりなんて見つけられないよ!!そんなんじゃいつまで経っても俺ッ、」



「元の世界になど、帰らなければいい――ッ!!」



「――……ぇ、」

いま なんて
俺の言葉を遮ったノボリさんの声が、部屋の中に――頭の中に、ぐわんと響く。


だめ だ

今度こそ、聞かなかったフリはできない。
だって、ノボリさんが

ノボリさんも、目を見開いて、動揺してる。
”しまった”って、顔 してる。


「――……」

俺も、ノボリさんも、お互いを凝視したまま、言葉が出なかった。
いっそ死んでしまいたいくらい居心地の悪い沈黙の中で、心臓の音と、時計の針だけがゆっくりと時間の流れを知らせる。

なにか、
なにか、言わないと
この空気を換えないと――そう思うのに、やっぱり声は喉に貼りついて、それ以上に、真っ白な頭には気の利いた台詞なんて何も思い浮かばない。

その時、玄関からクダリさんの声と慌しい足音が近づいてきて、二人でほぼ同時に息を飲んだ。


「ノボリ……!!ナマエがいなくなったってどういう――あ、…え?いる??」
「っぉ、おかえりなさい、クダリさん!」
「あ、うん。ただいま!……それで、二人はそんなとこで座り込んで何してるの?」
「!!い…いえこれはその……!」

どうしよう。なんて言えば良いんだろう。
しどろもどろ言葉を探していると、今までずっと俺の肩を掴んでいた掌が離れていく。
「あ、」と、立ち上がったノボリさんを思わず視線で追いかけると、ノボリさんはその視線には応えず、クダリさんと入れ代わるようにしてリビングを出た。

「ノボリ?どうしたの、その顔――」
「……少し、頭を冷やして参ります。クダリ、ナマエ様を頼みました」
「は?え?」

疑問符だらけのクダリさんと、床に座り込んだままの俺を置き去りにして、ノボリさんはそのまま玄関の外に出て行ってしまったようだ。
当然、クダリさんは目をパチクリさせ、残された当事者である俺の顔を不思議そうに覗きこむ。

「ナマエ、どういうこと?なにがあったの?」
「……え、っと…あの………」

正直俺も、まだ冷静になりきれてない。
だけどこれはきっと――多分、そういうことだろう。



「――ケンカ、しちゃいました」





(12.04.10)