ポケモン | ナノ


次に目が覚めたのは、昼を少し過ぎた頃だった。

薬がちゃんと効いているのか、腰の痛みも吐き気もない。
あるのは起き抜け特有の気だるさと、靄のように胸を覆う虚脱感。
だけど病気でもないのにベッドで寝たきりって言うのはさすがにどうかと思うわけで、のそりと起き上がった俺は静かなリビングを横切り、とりあえず日の光でも浴びてみようとベランダに出てみた。

「………」

風の音に紛れて、時折遠くに人の声がする。
午後の陽射しは柔らかくて、細めた目で太陽を見上げれば少し気分が軽くなったように感じた。
同時に、ふと思い立つ。

(外に、出てみようかな……)

もちろんベランダではなくて、この部屋の外に、ということだ。
まだ二人から一人で外出する許可はもらってないけど、玄関の鍵の場所は知ってるし、買い物に出掛けたこともあるんだから駅くらいまでなら大体の地理もわかる。
二人が帰ってくるのはいつも19時にはなってるから、ちょっと出てすぐに戻ってくればバレることもないだろう。

(気分転換、するだけだし)

きっと大丈夫だ。どうにでもなる。
何だかこっそり探検しに行くみたいで少しわくわくしてきた。その小さな高揚感を、今は手離したくない。
部屋の中で鬱々と蹲っているよりもそっちの方が良いに決まってる。

「……一緒に行こうか、バチュル」

リビングを通り抜ける時、テーブルの上で物言いたげに揺れたモンスターボールを手にとって中に居たバチュルを外に出すと、バチュルはやる気満々といった風に短く鳴いた。
なんだ、ボディーガードでもしてくれるつもりなんだろうか。

「……よし、何かあった時は頼んだぞ」
「バチュ!」

肩にちょこんと乗って得意げに鳴いた小さなボディーガードに、思わず笑みが零れた。







週末でない限り、カナワタウンはただの長閑な田舎町だとクダリさんが言っていた。
その言葉通り、住宅地の周りに集まったコンビニやドラッグストアを抜ければ駅までの道のりも静かなものだ。
その途中、割と大きめな公園があったことに気づき、なんとなくそこに行ってみようと思った。

(静かだ……)

マメパト、だっただろうか。鳥ポケモンの鳴く声と、頭上の木の葉が揺れる音しか聞こえない。
ちょっとした森林公園のようになっているこの場所は、まるで時間がゆっくりと流れているかのように穏やかな空気に包まれている。
足元で揺れる木漏れ日に視線を落としながら宛てもなく奥の方へ歩いていると、ふと道の脇に何かが落ちているのを見つけた。

(……スケジュール帳、かな?)

落し物であろうそれを拾い上げて、周囲を見回す。
黒い皮製の表紙は綺麗なまま、雨風にさらされた感じもないし、きっと落として間もないんだろう。
だとしたらまだ近くに持ち主がいるかもしれない。

(名前とか、連絡先書いてないかな……いやでも、勝手に中見るのもなぁ)

警察に届けようにも場所がわからない。ノボリさんかクダリさんに届けてもらうという手もあるけど、俺が勝手に外出したことがバレてしまうのでできればそれは避けたい。

この辺りを適当に探してみて、見つからなかったらなにか目立つようにして元の場所に戻しとくしかないだろう。
そんな風に考えながら更に奥に進んでいくと、なにやら人の声が聞こえてきた。

「あぁん!どこ行っちゃったのかしら……!」

若い女の人の声だった。
口ぶりは明らかに何かを探している。
手に持ったスケジュール帳を改めて見て、肩にいるバチュルと視線を交わせば、バチュルも俺に同意するように頷いた。
多分、あの人がこれの落とし主で間違いない。

「――あ、あの!」
「キャッ!はい!?」

ガサガサと茂みの中に頭を突っ込んでいたその人の背後から思い切って声をかけると、小さく悲鳴を上げたその人が茂みから顔を出してこちらを振り向く。
――瞬間、心臓がドキリと鋭く跳ねた。

綺麗な、人だ。
真っ直ぐな髪をボブカットに揃えて、夢見るような大きな瞳がメガネの向こうから俺を捉える。
そして、大胆に胸元の開いた紫色のワンピースからは、俺のそれとはあまりにも違う、豊かな丸い曲線を描いた白い膨らみが顔を覗かせていた。身体はともかく、心は健全な男子である俺には目の毒でしかない光景だ。

「あッ…その、さっき、向こうでこれを拾って……!もしかして、あなたのものじゃ、ないかと……ッ!」
「え――あ!ああー!!そうです!そうなんです、これを探していたんですっ!!」

差し出したそれを見て、その人は瞳を輝かせて立ち上がった。
よかった、俺の思い違いではなかったらしい。
ほっとして息をつき、「それじゃあ」とそそくさ踵を返す。その俺の手を、後ろから華奢な掌がしっかりと捕まえた。

「あのっ!ありがとうございました!何かお礼をさせてください!」
「え?い、いえただ拾っただけですからそんな、」
「そうだ、近くにおいしいクレープ屋さんがあるんですっ!ご馳走しますからそこのベンチで待っててください!」
「うえっ!?まっ、本当に、そういうわけには……!」
「すぐ戻ってきますから!待っててくださいねー!」

(え…えええー……?)

あれよあれよと言う間にベンチに座らされて、止める間もなく駆け出していった後姿を見送る。
悪気はないんだろうけど、少しマイペース過ぎやしないだろうか。
呆気に取られたまま肩のバチュルを見ると、バチュルも心なしかぽかんとしていた。これがシンパシーか。

「……なんか、変な人に捕まっちゃったなぁ」

言いながら、自分が笑ってることに気がつく。
髪にも服にも茂みの葉っぱをつけたまま行ってしまったその人のことを考えると、妙に胸がふわふわした。


・ 




「お待たせしましたー!」

走り去っていった時のまま、茂みの葉っぱをつけたその人が両手にクレープを持って戻ってきた。

「デザート風とサラダ風、どっちにします?」
「……えっと、じゃあ、サラダの方で」

思えば朝から何も食べてないわけで、正直おごってもらえるのはありがたい。
素直に受け取った俺にその人はにっこりと微笑んで、生クリームの乗っかった方のクレープを片手に隣に腰を降ろす。
結構近い距離に、落ち着きをなくした心臓が世話しなく収縮を始めた。

「っ、あの……なんかすみません、ご馳走になってしまって」
「そんな!良いんですよ、アタシがお礼したいだけなんですから!」
「………大切なもの、なんですか?」

口の中のものを飲み込んで訊ねれば、同じようにこくんと小さく喉を鳴らしたその人が苦笑する。

「中身、見ちゃいました……?」
「!?やっ、み、見てないですけど!なんとなく…!」
「……そうですか」

良かった、と小さく呟いたその人の頬が僅かに赤くなる。
さっきまでの勢いはどうしたのか、急にモジモジと恥ずかしそうに視線を落として、その人は意を決したように小さく息を吸い込んだ。

「アタシ、これでも小説家なんです。――その、まだ駆け出し、ですけど」
「……じゃあ、あれって、」
「いわゆる『ネタ帳』ってヤツです。だから誰かに見られたらと思うと恥ずかしくて……」


「でも、拾ってくれた人がアナタで良かった」


「っっ!!!」

にっこり、赤い顔のまま微笑う。
そんなの反則だ。

(や、ばい……どうしよう!)

いや、本当はわかってた。顔を見た瞬間に、直感してた。
この人――好きだ。すごく、好きだ。
年上で、綺麗で、む…胸が、おっきくて、そんでちょっとおっちょこちょいとか、ツボ過ぎる。

どうしよう どうしよう どうしよう

心臓の音が、やばい。なんかわかんないけど、恥ずかしくて、消えてしまいたい。
だけど知ってる。この苦しさは――この、感情は、

「ああ、そうだ!ごめんなさい、申し遅れました。アタシ、シキミと申します」



「アナタの、名前は?」



――この感情は、『恋』だ。


唇の端に白いクリームをつけて笑ったその人――シキミさんに、鮮烈にそれを自覚する。
……だけど、どうしてだろう。

「ナマエ…です……」

胸を衝いたシキミさんの笑顔の向こうに一瞬、
今朝見たノボリさんの、あの寂しそうな微笑が重なった気がしたんだ。



(12.04.02)