「ま、また負けた……」 スーパーシングルトレイン、25戦目にして敗退。 がっくりと肩を落としたナマエの背後で電車のドアが無情に閉まり、再び走り出す。 何気なく振り向いた先、等間隔に並んだ窓ガラスの向こうで勝ち抜いたトレーナー達が新たなポケモンバトルを始める様子が見て取れて、掌を握り締めて俯いたナマエの顔を心配そうに見上げるイーブイが小さく鼻を鳴らした。 「――うん、ごめん。大丈夫だよ、心配しないで!」 まだ生まれたばかりの小さな身体を抱き上げ、ふわふわの頭を撫でてやる。 ナマエが微笑んで見せればイーブイは安心したように目を閉じてパタパタと尻尾を振った。 その様子に目を細め、ナマエはゆっくりとプラットホームを歩き出す。 『悔しいのは、諦めていない証拠でございます。そのお気持ちを忘れないでくださいまし』 不意に思い出したのは黒いコートを着たサブウェイマスターの言葉だ。 彼の言葉はいつだって、一歩前進するための力をナマエに与えてくれる。 ――だからこそ、彼の期待を裏切りたくないという想いは日に日に強まった。 (これで3週間連続敗退……ノボリさん、私のことなんて忘れちゃってるかも) シングルトレインならば毎週必ず彼の元までたどり着くことができた。 けれどスーパーシングルトレインはナマエが思っていたよりもずっとつわもの揃いで、なかなか彼の待つ49戦目まで勝ち進むことができない。 トボトボと歩くナマエからため息がこぼれ、腕の中のイーブイがくすぐったそうに耳を動かした。 (大体ノボリさんに勝ったあの勝負もまぐれだったのかも……なんだかあの日、ノボリさんいつもと違ってたような気がするし) 心ここにあらずといった様子だった彼を思い出して、ナマエはぎゅっと眉を寄せる。 自分にはまだスーパーシングルトレインに挑戦する資格がなかったのだろうか。 (諦めるつもりは、ない。……だけど、さすがに落ち込む、なぁ) 思うように勝ち進めない、この焦燥感。胸の奥が重くなっていくようで、足取りも自然とそれに比例する。 バトルサブウェイに挑戦するのは週に一回だと決めているので、次にここに来るのはまた一週間後になるだろう。 それまでにポケモンを鍛えなおして、選抜を決めて、作戦を練って―― 「――ノボリさんに、会いたいなぁ」 「?」 心の中で呟いたはずの言葉が、どうやら声に出てしまっていたようだ。 不思議そうに自分を見上げるイーブイの姿を見てそのことに気づき、ナマエがハッとして顔を赤らめる。 幸い周囲は忙しそうに急ぎ足で去っていく人ばかりだったので誰かに聞かれたりはしていないようだが、そもそもそんな思考に至った自分がたまらなく恥ずかしい。 「い、今のなし!!なんでも――ぁ、」 言いかけた言葉が途中で途切れた。 視線の先で、見慣れた黒いコートを――今まさに会いたいと思ったその人の後姿を、見つけてしまったから。 胸の奥で心臓が飛び跳ねて、一瞬息が詰まった。 「ッ、ノボリさ、」 反射的に彼の元へ駆け出そうとしたその足が、たった一歩踏み出しただけでピタリと止まる。 視線の先のノボリはバトルサブウェイの受付の女性と何やら話をしているようだ。 (う――お仕事中、かな……) だとしたら、今自分があの場に行って彼に声を掛けては仕事の邪魔になるかもしれない。 そう思い、ナマエは彼の名前を呼びかけた唇を咄嗟に引き結ぶ。 けれど丁度その瞬間、視線の先にいた彼が不意にナマエを振り向いて、灰色の瞳を丸くした。 「――ナマエ様ッッ!!」 「!!ぅあ、はいっ!!」 普段の彼からは想像できないくらい大きな声で名前を呼ばれ、ナマエは思わずビクリと肩を跳ねさせながら返事をした。 そうすると、なぜだか怒っているようにまなじりを吊り上げた彼がズンズンと大股で歩き出す。 まるで獲物を追い詰める獣のような目つきで近づいてくるその剣幕が恐ろしくて、動物的な本能からなのか、ナマエの足が逃げ出そうとするかのように、無意識に一歩後ろへ下がる。 そんな彼女を咎めるように、素早く伸ばされたノボリの手がしっかりとナマエの両肩を捕まえた。 「?!の、ノボリさん…?」 「ッ!ハッ、し、失礼致しました!わたくしとしたことが…!」 恐る恐る声を掛ければ正気を取り戻したノボリが慌ててナマエの肩から手を離す。 腕の中のイーブイが恐怖のあまり縮こまって涙目になっていたので、ナマエは震えるその頭を撫でてやりつつ困惑した様子のノボリを見上げた。目が合った瞬間、彼の色白の頬がパッと赤くなったように思える。 「あの、どうしたんですか?私に何かご用が?」 「あっ、いえそのですね…!と、特に用事があったわけでは、ございませんが…その……」 「……?」 珍しく歯切れの悪いノボリに首を傾げずにはいられない。 そうするとまた顔を赤くして口元を手で覆ったノボリに視線をあらぬ方向へ逸らされた。 どこか体調でも悪いのだろうか。今日の彼は、なんだかいつもの彼とは違う気がする。 「ノボリさん、もしかして風邪とかひいてます?顔が赤いみたいですけど」 「ッいえ!そうではございません!そうではなくてこれはただ……」 「――久しぶりにナマエ様にお会いできたことが嬉しくて……」 はは、と、未だに顔を赤くしながら困ったように微笑う。 はじめて見る彼のそんな表情に胸の奥がきゅっと締めつけられたように息苦しくなった。 男性からそんなことを言われるのは初めてで、なんだかとても照れ臭い。――だけど、嫌じゃない。 (ノボリさんも、私に会いたいって…ちょっとだけでも、思ってくれたのかなぁ) ドキドキと高鳴る心臓の音が彼に伝わってしまわないよう腕の中のイーブイを少し強めに抱きしめながら、ナマエは思わず破顔してしまうのを押さえきれないままノボリを見上げた。 「私も…っ私も、ノボリさんに会いたかったです!」 「――ッ!!!!」 その瞬間のノボリの顔を見てしまったイーブイは、今度こそ全身の毛を逆立たせて失神した。 ・ ・ ・ 「なるほど、ではこの3週間はスーパーシングルに挑戦していらっしゃったのですね」 「はい。だけどなかなかノボリさんのところまで勝ち進めなくて……」 気を失ってしまったイーブイをモンスターボールに戻してパソコンに預け、立ち話もなんだからというノボリの勧めで二人は現在ベンチに並んで腰掛けている。 しゅんとして俯くナマエを見つめるノボリの瞳は落ち着きを取り戻し、優しく細められていた。 「だから、丁度ノボリさんに相談したいなって思ってたところだったんです」 「そうですか。それは光栄でございますね」 「……迷惑じゃないですか?」 「まさか。ナマエ様に頼っていただけるなんて、サブウェイマスター冥利に尽きます」 「っ……」 ノボリは優しい。 いつも彼に負けては悔しがっていたナマエに優しく語りかけ、電車を降りるまでの時間親身になってアドバイスをしてくれた。 そんな彼はナマエにとって越えるべき壁であり、師でもある。 いつものように髪が崩れないよう優しく頭を撫でられ、3週間ぶりになるその感覚に嬉しさと気恥ずかしさを覚えたナマエは小さく肩を竦めた。 そんな時、ノボリの耳に付けたインカムから通信が入る。 「――はい、了解致しました。すぐに向かいます」 内容を察するに、どうやら挑戦者が現れたようだ。 (そっか…ノボリさんまだお仕事中だったんだ……あ、でも相談……ノボリさんに相談するには48勝してノボリさんに会いに行かなきゃだけど、そもそもその48勝できないのが私の悩みなわけで……あれ?それじゃあ私一体どうすれば…?) 座ったままグルグルと考え込んだナマエの目の前に二つ折りにした白い紙が差し出される。 「え?」と疑問符を浮かべながら顔を上げれば、それを差し出しているのは既にベンチから立ち上がったノボリだった。 「わたくしのライブキャスターの番号でございます。良ければ今夜にでもご連絡くださいまし」 「え、えっ…?で、でも!」 「ご都合がよければ明日にでもお会いしましょう。では、詳しいことはまた後ほど」 「明日って…!明日は土曜ですよ!お仕事忙しいんじゃ…!」 「ご心配なく!明日はシングルもダブルもマルチも、全てクダリが一人でこなしてくれる予定でございます!」 「(マルチも?!)」 彼の言葉を鵜呑みにして良いのか否か、走らず律儀に大股で歩いていくノボリを追いかけることができなかったナマエには確かめようがない。 ただ、彼から手渡された白い紙の端にはほんの少しだけノボリの体温が残っていて、それを感じ取った指先が妙に、熱かった。 ・ ・ ・ 「クダリ!聞いてくださいまし!わたくしついにナマエ様に番号を渡すことができました!!」 「うん知ってる。ノボリが大声で女の子呼び止めたって噂になってるから」 「なんと!ではわたくしとナマエ様の仲は既に公認だということでございますか…!」 「いやそうじゃないから。そもそもまだキャス番渡しただけで付き合ってないでしょ」 「ああ!それはそうとクダリ!わたくし明日は一日休みを頂きますので、全トレインよろしくお願い致しますね!」 「ちょっと待って何それ聞いてない」 ギアル型ペロペロキャンディーを真っ二つに噛み砕いたクダリに微笑みの圧力をかけられ、ノボリは弟の溜め込んだ一週間分の書類を引き受けることと引き換えに翌日の自由を手に入れた。
(11.10.25)
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