こっちの世界に来てから、なんやかんやで二週間が経とうとしていた。 文字の勉強を始めた俺のために、クダリさんは図書館で絵本を大量に借りてきて、ノボリさんは幼児向けのドリルをいくつか用意してくれた。 まだまだ一人で外出することは許可されていないので、俺は日々の殆どを勉強に費やした。 もともと会話はできるんだし、どうやら数字に関しては共通らしく、思っていたほど難しいわけでもない。 それしかやることがないってのもあって、大分読み書きできるようになってきたんじゃないかと思う。 現に昨日は、ドリルの採点をしてくれるノボリさんから初めての花丸をもらった。 余談になるけど、余白に書かれた赤ペンの「たいへんよくできました!」の一言が嬉しすぎて泣きそうになった。 ノボリさんもクダリさんも、自分のことみたいに俺の成長を喜んでくれるから、尚更。 二人は本当に、本当の『家族』みたいに、俺のことを大切にしてくれた。 クダリさんは構いたがりの兄であり、手のかかる大きな弟。 ノボリさんは――何と言うか、父親というよりはむしろ母親だ。おかんだ。 親鳥のごとく世話を焼いて、なにかにつけて俺を甘やかそうとする。 お陰で俺は、事あるごとにノボリさんに頭を撫でられても何の違和感も覚えなくなってしまった。 そのくらい自然に、ノボリさんは俺に触れて、俺もそれを嫌だとは思わなくなってしまったということだ。 この世界に来たあの日感じた恐怖も孤独も、随分和らいだように思う。 そりゃあもちろん、今だって不意にどうしようもない焦燥感に駆られる瞬間はある。 だけどそんな時は、決まってノボリさんが気づいてくれる。 『大丈夫だ』って言うみたいに寄り添って、優しく頭を撫でてくれる。そうされると俺はもう、無条件に安心してしまうのだ。 まるで、母親に全幅の信頼を寄せる、小さな子供みたいに。 「ん、……っ」 朝、普段ならノボリさんが起こしてくれるまで目が覚めることなんてないのに、今日は違った。 なんか、お腹――って言うか、腰?が、痛いような。 そんな不快感が眠気を上回って、しぶしぶ閉じていた瞼を押し上げる。 カーテンを引いたままの部屋の中はまだ薄暗かったけど、リビングの方から物音がするからノボリさんはもう起きてるんだろう。 広いベッドには俺一人きりで、それがどうしてか――妙に、心許ないような不安な気分を煽った。 (なんだろ……風邪、じゃないよな……) 寝転がった体勢のまま、今まで経験した事のない鈍い痛みを覚える腰に意識をやる。 知らず知らず変な寝方でもして痛めただろうか。外に出てないから激しい運動したわけでもないし。 それに――心なしか、胃の辺りが気持ち悪い。まだ耐えられる程度だけど、吐き気がする。 (どうしよ、ノボリさんに言った方が……いや、でも今日も仕事、だし、) そうやってぐだぐだ考えているうちにいつもの時間になってしまったようだ。 ドアの向こうからノボリさんの足音が近づいてくるのがわかって、反射的に身体を起こす。 やっぱりこれくらいなら寝てれば平気だし、余計な心配かけたくない。 ――だけど、そんな殊勝な心がけは起き上がって身じろいだ瞬間、無視することができなかったその違和感によって遠いどこかに消え去ってしまった。 「 え、」 なんだ、これ。 脚の間に、ぬるりと濡れた感触。 反射的に布団を捲って、そこにあった光景に今度こそ思考が停止しかけた。 赤い、血が 買ってもらったパジャマを、真っ白なシーツを、汚している。 頭の中が、ぐらりと揺れた。 丁度そのタイミングで、控えめなノックの音に続き、ドアの向こうからノボリさんが姿を見せる。 きっと、俺がもう起きていることに少なからず驚いたんだろう。 僅かに見開かれた瞳と視線がかち合って、俺は、もう何がなんだかわかんなくて。 ただ、死にそうな声で、ノボリさんの名前をうわ言みたいに呟いていた。 「ナマエ様――?」 「ど、しよ…っ、ノボリさん……俺、」 震える俺を見て、異常事態を悟ったノボリさんの視線が俺の下の、赤く染まったシーツを捉える。 その瞬間、ノボリさんが鋭く息を呑んだのがわかって――途端に込み上げてきた涙が、止める間もなく頬を転がり落ちた。 「俺……しっ、死んじゃう、の……?」 「――!!!」 そこからのノボリさんの行動は迅速だった。 ベッドに駆け寄って、ブランケットで俺を包んで腕に抱き上げると、リビングを突っ切って玄関へ。 何事かと追いかけてきたクダリさんに「診療所に行って参りますので後は頼みました!!」と半ば怒鳴るように大声で言って、部屋を飛び出す。 ノボリさんに抱えられたまま、ブランケットに顔を埋めて泣き続ける俺に、ノボリさんはずっと「大丈夫です」と声をかけ続けてくれた。 「わたくしがついております、ナマエ様」 「わたくしが、あなた様を守ります」 「絶対に、」 「絶対に……ッ!!」 俺を抱えて強く抱きしめるノボリさんの指が、ブランケット越しにも痛いくらいだった。 「ジョーイ様!!ナマエ様をどうか……!!」 「あらまぁ、どうしたんですか?」 駆け込んだ診療所はまだ早朝と呼べる時間帯なだけあって受付時間にもなっていないようだった。 閉められた自動ドアの前で、運良くプランターの花に水をやっていたナース服の女の人を捕まえ、ノボリさんが息を切らしながら事情を説明する。 その頃には俺の嗚咽もいくらか治まっていて、ノボリさんの話を聞き終えたそのジョーイさんの質問にぽつぽつ返事をすると、ジョーイさんが明るい声で「なるほどね」と一つ頷いた。 「わかりました。ではナマエさんは私と一緒に……あなたはそちらの待合室で少し待っていてください」 「ッ、わたくしも一緒に……!!」 「いえ。大丈夫ですからお兄様はそちらで!」 にっこり。朗らかながらもどこか有無を言わせない笑顔で、ドアの鍵を開けたジョーイさんはノボリさんに待合室での待機を命じた。 その微笑みに逆らいきれず、診察室まで俺を運んだノボリさんがしぶしぶ踵を返して部屋を出て行く。 その直前、やっぱり心配そうに振り向いたノボリさんを少しでも安心させようと、俺もどうにか力なく笑って見せた。 「――さて、それじゃあナマエさん。あなたにこれから大切なお話をします」 「ぅ……は、い」 てっきり今からあれこれ変な機械とか使って検査をするんだと思っていたけど、どうやらそうではないらしい。 俺と向かい合って座ったジョーイさんは、人を落ちつかせる穏やかな微笑を湛えて、優しく俺の目を見つめた。 「あなた、お年は?」 「え?えっと……16、です」 「そう。なら、普通のことだわ。初潮の経験はないのよね?」 「しょ、ちょう……?」 なんだろう。聞きなれない言葉だけど、どこかで聞いたことがあるような…… 首を傾げてまたスンと鼻を鳴らした俺に、ジョーイさんはにこりと微笑んだ。 「おめでとう。あなたは、女の子として一歩大人に近づいたのよ」 「――………」
え?
(12.03.24)
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