電車の座席にもたれ、眠るその少女は不思議ないでたちをしていらっしゃいました。 見たことのない学生服、それも、おそらくは男子用のそれをルーズに着こなした――と言うにはいささか無理がありましょうか。 とにかく、その少女は一目見ただけでも明らかにサイズの合わないそれを身に纏い、静かに眠り続けていて。 その姿はどこか、浮世離れしたような、そんな雰囲気さえあり、点検に来たわたくしが一瞬、声をかけることを戸惑ってしまった程でございました。 (――なんでしょう、この方は……) 静かに、静かに眠る姿に、不思議と胸がざわつく。 見慣れた電車の中であるはずなのに、ただ彼女がそこにいるだけで、まるで水面の向こうのような別世界に感じられました。 そしてわたくしは吸い寄せられたようにその世界の中心へふらふらと近づき、手を伸ばしたのです。 ……あの胸の高鳴りは、なんと表現すれば良いのでしょう。 軽く肩を揺すり、「お客様」と声をかけたわたくしを、瞼の向こう側に隠れていた黒真珠のような瞳が捉えた時、わたくしは確かな喜びを感じておりました。 その瞬間、見えない境界を越え、少女がわたくしの世界に溶け込んだ。 ――そんな風に、感じたのでございます。 「『なきむしバチュルのぼうけん』?うわーなつかしい!」 リビングから聞こえるクダリとナマエ様の会話に、夕食を準備する傍ら自然と聞き耳を立ててしまう。 少しお疲れのようでしたので、手伝いを申し出てくださったナマエ様には休んでいていただくようお願いしたのですが、例の如くクダリがちょっかいをかけているようでした。 「この絵本、僕らの家にもあった!どうしたの?」 「その……こっちの世界の文字を勉強したいって言ったら、ノボリさんが買ってくれたんです」 「ふーん…なるほどねぇ」 ……なにが『なるほどねぇ』ですか。 わたくしの背中を窺いつつ不敵に笑むクダリの顔が容易に想像でき、思わず野菜を切る手に力が入ります。 ああ、双子というものの、こういうところがうとましい。 わたくしには即座に、弟の考えていることが手に取るようにわかってしまいました。 「ねぇナマエ!僕が読んであげよっか!」 (――ほら、思った通りでございます) こめかみが引き攣り、まな板に叩き付けた包丁がダンッ!と大きな音を立てました。 この愚弟、ぬけぬけと。 「え、あ……いえ、ノボリさんが読んでくれるそうなので、」 「ノボリ、今忙しい!僕、今ぜんぜん手がすいてる!ね?」 「う…うーん……」 (断って良いのですよ、ナマエ様!!) 意識の大半以上をソファでの二人のやり取りに集中させつつ、手は休めずに調理を進める。 しかし、渋る様子を見せるナマエ様に心の中でエールを送る自分に気づいた時、わたくしは自分自身に呆れました。 (――なにを…考えているのでしょう) ナマエ様に、断って頂きたいなど。 ナマエ様の口から、クダリでなく、わたくしが良いと――そう言ってもらいたいなどと。 まるで小さな子供の独占欲のようではありませんか。 (その様な大人気のないこと、わたくしは……) 「ほーら、こっちおいで!読み聞かせって言ったら『お膝だっこ』だよね!」 「!!?ちょっ、クダリさん降ろしてください!」 「えへへー!ナマエってやっぱりやわらかーい」 「ひぎゃっ!ど、どこ触ってるんですか怒りますよ!?」 「………」 ――わたくしは、気づけばフライパンを握り締め、クダリの後頭部めがけそれを振り下ろしておりました。 ・ ・ ・ 「――気に入りましたか?」 「 へ?」 寝室のドアを静かに開けると、ベッドの中で例の絵本を開いていたナマエ様が驚いたように顔を上げました。 絵本に夢中になっていたことが気恥ずかしいのか、白い頬が徐々にうっすらと染まり、ふよふよと視線を泳がせる。 そんな姿が――こう言ってはナマエ様の機嫌を損なってしまうでしょうが、たいそう可愛らしく思え、への字に引き結ばれた自らの口元が僅かに緩むのを感じました。 「え…っと…その……なんて言うか、ですね」 「はい」 しどろもどろ、言葉を繋げようとするナマエ様を見守りつつ、わたくしもまた同じベッドに入る。 いつもは冷たいはずのシーツが、ほんのりとあたたかい。 誰かと――ナマエ様と寝具を共にするというのは存外、わたくしにとって心地の良いものでした。 「……こっちの世界でも、絵本って、変わらないんだな、と…思いまして」 照れくさそうにそう言って、誤魔化すように緩く膝を抱える。 そこに開かれたページには、ささやかな冒険を終えたバチュルが、母親のデンチュラの腕の中、安心しきって眠りに落ちる――そんなシーンが描かれておりました。 『 おやすみ わたしの かわいいぼうや 』 「――……」 「どこの世界でも、愛情に溢れてるって言うか……すごく、懐かしい気持ちにさせられます、ね」 へにゃりと笑う。 眉を、八の字にして。 震えだしそうな小さな身体を、細い腕で抱きしめて。 涙を、堪えて。 「ナマエ、様」 改めて、思い知らされました。 この方は、必死に闘っているのだと。 ふとした瞬間に押し寄せる孤独に、長く伸びた影の様な不安に。 わたくしの立ち入れない心の中で、いつも。 この瞬間も。 そう思うと、無意識に伸ばしかけていた手も中途半端に止まってしまい、己の無力さを思い知らされる様でした。 「――あ、や!えっとあの!すみませんなんか辛気臭くしちゃって……!」 黙り込んだわたくしに気づき、ナマエ様が慌てた様子で、殊更に明るく振舞う。 そんな姿にまた、胸がジクリと痛みました。 本当に辛いのは、わたくしではなく目の前のこの方だと言うのに。 当のナマエ様が、懸命に笑おうとするのです。 その身に圧し掛かるものに押し潰されそうになりながらも、わたくしを心配させまいと、けなげに――懸命に。 そんなあなたを、どうして愛しく思わずにいられるでしょう。 「――……ナマエ様」 「は、 い?」 伸ばしかけていた指で、あなたに触れて やわらかな額に、音を立てず唇を押し付ける。 ゆっくりとそれを離し、沈黙の中で見つめた瞳は大きく見開かれ、ぽかんとしてわたくしを見つめておりました。 ――ええ、そうです。 わかっております。 自覚など、とうに。 あなたと出会った、あの瞬間に。 「ノボリ、さ……」 「ナマエ様、どうか――わたくしのことを、『他人』だなどと思わないでくださいまし」 ナマエ様、わたくしは 「この世界での、あなた様の家族は、ここにおります」 あなたが元の世界に戻るその日まで、誰よりも近くであなたを守りたい。 わたくしのこの気持ちが、重荷にならないその距離で。 ――例えそれが、自らの首を真綿で絞めるようなことだとしても あなたが笑ってくださるなら。 「 ぁ、ぇ…っ、え、っと……っ」 じわりと浮かんだ涙の膜を隠すように俯いたナマエ様が更に身を縮め、小さく肩を震わせる。 それを、今度は戸惑うことなく抱き寄せて、シーツの波に包み込む。 わたくしのシャツを控えめに――けれど、縋るように握った掌の、ああ、なんと愛しいことでしょう。 眩暈さえ覚える甘いぬくもりの中、「おやすみなさい」と小さく小さく呟いたナマエ様に、わたくしは破顔せずにはいられませんでした。 「――おやすみなさい。わたくしの、」
いとしい ひと (12.03.11)
|