ポケモン | ナノ


目が覚めたら、俺はいつもの電車の中だった。
ハッと息を呑んで周りを見れば、寝てる間にもたれかかってしまっていたらしい会社帰りのおっさんがちょっと迷惑そうに俺を見ていて、慌てて小声で「すみません」と謝る。
それから垂れてた涎を服の袖で拭って、鞄を抱えなおしてやっと一息。

『ああよかった、夢だった』

そうだ。いきなりゲームの世界にトリップなんて、漫画やアニメじゃねぇんだから。あるわけないない。
おまけに俺が女になるとかそんな、バカげた話が――

「ナマエ!おっはよー!」
「ぐえ!」

ドスン!いきなりの衝撃にカエルが潰れたような声が喉から飛び出した。
なんだ。なにが起こった。
頭が回らず、混乱したままとにかく声がした方へ視線を向けると、ドアップでクダリさんの顔。
そう、クダリさんの――

「ゆ…夢だった………」
「?ナマエ、どーしたの?」
「……何も言わずにもう一度寝かせてください」

朝からこんな落ち込んだのは初めてだ。
だって、夢だと思った出来事が悲しいかな今の俺の現実で、つい昨日まで当たり前な現実だった俺の世界は遠い夢の中。
クダリさんはその象徴みたいなものだ。
どうしようもなく気分が滅入って、寝てる俺のマウントポジションを取っているクダリさんを避けるように頭から布団をかぶり直して身体を丸めるとクダリさんが「えー!」と不満げな声を上げて俺の身体を揺すりだした。

「もう朝だよ!起きなきゃダメ!」
「いやです俺これからずっと夢の中で暮らすんですどうせ学校もないんだし」
「ダメったらダメー!もう!言うこと聞かない悪い子にはお仕置き!」

不穏な言葉が聞こえた。
寝ぼけたままの脳がそれを他人事のように受け流した次の瞬間、バサッと勢いよく布団が引っぺがされる。
寒い。
朝方の肌寒い空気に触れて、無意識に身体が縮こまった。
なにしやがる。上に乗っかったままのクダリさんに向けた抗議の視線に返されたのは、ひどく無垢な笑顔だった――のに、なぜだか一瞬悪寒が走った。

「くらえっ!」
「!!ちょっ、ゃめ!う、あ…っ!や、は!あは!あはははっ!」
「ここ?ナマエ、ここが良いの?」
「ひはっ!やっ、あ!ははっ!」

わきわきと動くクダリさんの両手が容赦なくわき腹をくすぐってきて、身体が悶える。
ダメだ、くすぐられるの弱い。もう息が苦しい。
ぜぇぜぇ言いながら肩を震わせて、悲鳴に近い笑い声の中で必死に止めてくれと訴えるのに、クダリさんは相変らずニコニコ笑ったまま手を休めようとしない。
身体を捩って逃げようとしても馬乗りになられた状態でそれが叶うはずもなかった。

「くだっ、クダリさ、っあ!だめ、ぇ、あ…は!も、ぃや…っ、やだぁ…!!」

なんつー情けない声だろう。
自分でもわかってるけど、絶え間ないクダリさんの攻撃に息が上がってどうにもならない。
それでも力の入らない手でクダリさんの手を抑えながら途切れ途切れに懇願すると、不意にクダリさんの動きがピタリと止まった。

「………ナマエ」
「…?」


「――ごめん、なんかムラムラしてきたかも」


「う゛え?!」

キシッ。絶妙なタイミングで、ベッドが小さく音を立てる。
クダリさんは相変らず笑顔で――だけどほんの少し、頬が、目が、熱っぽい(え、マジ、で?)

「ね、ちょっとだけ…ヤラシイことしちゃダメ?」
「――ッ!!!」

クダリさんの顔が、吐息が掛かりそうなほど近くに迫って、わき腹をくすぐっていた手はさっきまでとは違う意思を持ち、今度はゆっくりと動き出す。その手が乱れたシャツの裾の奥にもぐりこんで、指先が素肌を掠めた――その時。
息を呑んだ俺の視界の端で、ゆらりと黒い影が揺れた。

「オノノクス、クダリにドラゴンクロー!!」
「?!!ノボリッ、ジョーク!!ジョーク!!さすがに死んじゃう!!」
「問答無用です!行きなさいオノノクス!」
「ぎゃあああナマエ助けてー!」
「えええ俺ですか?!」
「ッ!ナマエ様から離れなさいクダリ!!」
「やだ!!離れたら僕殺される!!」
「ッッ…!!ナマエ様!!!」
「えええ俺ですか?!」

ポケモンの世界2日目の朝は、こんな感じで騒がしく始まった(寝室でポケモンバトルとか過激すぎるだろこの双子……)









「申し訳ございません。気持ち良さそうにお休みでしたので、もう少し寝かせて差し上げようと思ったばかりに……」
「い、いえ全然大丈夫ですからお気になさらず」
「ほらナマエもそう言ってる!冗談通じないのはノボリだけ!」
「お黙りなさいこのケダモノ」
「ぴゃっ!」

ゴツンと拳骨を落とされたクダリさんが子供みたいな悲鳴を上げた。
どうやらノボリさんが俺を寝かせたまま部屋を出て朝食を準備している間に、クダリさんがこっそり忍び込んできたらしい。
本当に無邪気なだけなのか、それとも頭脳犯なのか……疑いたくはないけど、そろそろ不審にもなる。
また助けを求めるように涙目で俺を見るクダリさんの視線からさり気なく目をそらし、ノボリさんが用意してくれたフレンチトーストを口に運んだ。ふんわり甘くて、おいしい。

「――話は変わりますが、ナマエ様。本日の予定について」
「ナマエはお留守番!いい子にしててね!」
「…ぇ、」
「申し訳ございませんが、本日は私ども二人とも通常出勤でして」

本当に申し訳なさそうに言って(っても微妙に眉が寄ってるくらいだけど)気遣わしげに俺を見るノボリさんにハッとした。
そうだ。俺と違って、この人達はこの世界で社会人。仕事に行くのは当たり前だ。
勿論、職場に俺みたいなわけのわからない奴を連れて行くわけにもいかない。

「……わ、かりました!大丈夫です俺、ちゃんと大人しくしてるんで!」

なんか――掃除とか、洗濯とかして適当に時間潰そう。俺一人で外に出ると余計な心配かけそうだし。

「僕のライブキャスター置いていくから、何かあったらすぐに連絡して!」
「明日は休みを頂いて参りますので、どうか今日一日は我慢してくださいまし」
「買い物一緒に行こうね!」
「ナマエ様、誰が訪ねてきてもドアを開けてはなりませんよ。それに危険ですので刃物や火にはくれぐれも近づかないでくださいまし」
「これ、バチュルのモンスターボール!寂しくなったら一緒に遊んであげて!」
「それから、」
「それから!」

「――いや本当に大丈夫ですから早くお仕事行ってください」

まるで幼児に初めての留守番をさせるかの如く交互にあれこれ忠告してくる二人にいい加減呆れて、玄関でまた立ち止まって俺を振り向く二人の背中を強引に外へ押し出す。
心配そうな二人の声と顔がドアに遮られて、カチャンと鍵を閉めればようやく静かになった。

「……まったく、俺はもう高校生だっつーの!」

シンとした広い部屋の中に俺の声と時計の音だけが聞こえる。
今の今まで騒がしかった分、それは思った以上にモヤモヤする胸の内を掻き乱すような、そんな虚しさがあって。

「………」

じっと見つめた時計の秒針が、やけにゆっくり進んでいるような気がした。




(12.01.27)