ポケモン | ナノ


「ぅ、そ…だぁ…っ」

むむむ、むね、胸が、あるとか、まさか、嘘だろ(いや見事なちっぱいだけど!)
そんな。そんな。バカな。
普通に電車に乗ってただけだ。別に変な物食わされたりとか、飲まされたわけじゃないのに。
寝て、目が覚めたら男が女になってたとか、あっていいのかそんなこと。

「………」

あまりのショックに足の力が抜けて、ペタリとその場に座り込んだ拍子に、俺はまた一つ重大な変化に気づいて今度こそ泣きそうになった。――だ、だって……『ない』。足の間にあるべき物の感覚が、ない。
男としてこれ以上に辛いことなんてあるだろうか。

「お、お客様、どうかなさいましたか?」

へたりこんだ俺に合わせて膝を付き、黒い人が若干焦ったように顔を覗き込んで来た。
心配そうな手が、肩に触れていいものかどうか、悩んでいるように所在無く宙に浮かされている。案外優しい人みたいだ。
いや、でもすみません今俺それどころじゃないで。もうマジで泣きてぇ。

「どーしたの?もしかして迷子?」
「いや迷子ってボス…」

黒い人に続いて白い人も俺の横にしゃがみ込み、子供にするみたいにぐりぐり頭を撫でるのを駅員さんが苦笑いでやんわり諌める。うるせー今は迷子どころの話じゃねぇよ。俺の、男としての沽券がピンチだよ。

「失礼ですがお客様、何か身分を証明できるものはお持ちではないですか?お名前など教えて頂ければこちらでご住所をお調べできるやもしれません」

顔面蒼白で黙り込んでいる間に、俺は完璧に迷子であると断定されてしまったようだ。
いやほんと、迷子じゃないんで。ここがどこかさえわかれば普通に自分で家に帰れるんで。それに下手に学生証なんて出そうものなら『は?これ男じゃん。誰のパクって持ってんだよこの女』ってなるに決まって――


「――!!あ、の!おっ…わ、ワタシの鞄!知りませんか?」


今、ほんとに今、気づいたけど俺、鞄持ってない!!
ヤバイ。電車に置き忘れたか。とっさに黒い人の腕にしがみついて訊ねると、灰色の目が驚いたように見開かれて、白い頬がじわりと赤くなっ――え、なんで今赤くなったオイ(見間違いであってくれ)

「っ、いえ…電車の中には何も残っておりませんでしたが……」
「!!!」

サイアク。最悪だ。
携帯も、所持金も、身分を証明できるものも、何もない。
しかも今の俺は(信じられないと言うかむしろ信じたくないが)女、だ。もし無事家に帰れたとしても、家族が納得するはずがない。というかそもそも鞄の定期がないと俺無賃乗車になるんじゃ……(そん、な)

「ぅ…っ、うぅ…」

ボロッと、耐えていた涙が、遂に一粒零れ落ちたのを切欠に、堰を切ったようにボロボロと際限なくあふれ出してくるそれが地面を濡らす。
そうすると、俺を取り囲んでいた3人がギョッと息を飲んだのがわかって、尚更泣き止むのが困難になった。

なんで、どうして、こんなことになった。
何もわからない。
ここがどこかも、どうして自分がこんな目にあっているのかも。
わからない――こわい。

こわい


「お、お客様!とにかく駅の中に入りましょう!ここは冷えますっ、なにかあたたかいものをご用意致しますので…!」
「そうだよ!大丈夫!きっとお家に帰れるから泣かないで!」
「ほら!立てないなら僕抱っこしてあげる!ね!泣き止んで!」
「ッこらクダリ!」

わあわあと頭上で三人が必死に何か言ってるかと思ったら、急に身体を抱き上げられて思わず肩が竦んだ。どうやら白い人に抱き上げられたらしい。しかも軽々と――まるでほんとの女の子みたいに。

「っ――ぐずっ…!」

腹が立ったから、真っ白なコートに鼻水つけてやろうかと思った――けど、やめた。
俺を抱え上げた腕の、大きな掌が、トントンと優しく肩を叩いて慰めようとしてくれているのがわかったから。
だから余計に、涙が止まらなかった。









「少しは落ち着いた?」
「――は ぃ」

ぐずん。啜った鼻が予想以上に大きな音で鳴って、今更ながら恥ずかしい。
白い人に抱えられたまま駅員室まで連れて来られ、降ろされたソファの上で一頻り泣いた俺は若干の冷静さを取り戻しつつあった。とりあえず、高校生にもなって人前で大泣きした恥ずかしさにいっそ死にたいと思えてきた程度には。

「じゃあさ、そろそろ話できる?」
「………はい」
「なら、まずは名前!僕はクダリ!」

先に名乗られてしまったことでこちらも名乗らざるを得ない空気を作られた(いや、さっきから黒い人がそう呼んでたからわかってはいたんだけど)この人――クダリさん、は、天然なようで結構計算高いタイプなのかもしれない。……悪い人じゃ、ないんだろうけど。

「……ナマエ、です」
「ナマエ!そっか、君、ナマエっていうんだ!」

ニコニコ。何がそんなに嬉しいのか、機嫌よく笑ってまた頭を撫でられた。もう完璧迷子扱いか。ちくしょう。
ずび、とまた鼻を啜りながらクダリさんを軽く睨んでいると、ドアがノックされる音に続いて席をはずしていた黒い人が再び現れた。
その手に持ったトレイにはシンプルなマグカップが乗っている。

「ノボリ!この子ね、『ナマエ』だって!名前!」
「――左様でございますか。ナマエ様、わたくしはノボリと申します」
「ノボリ、僕のお兄さん!僕たち双子!」

いやそうだろうなとは思ってましたけど。
内心を飲み込んで、なんとなく黒い人…じゃなくて、ノボリさんの顔を見づらかったから視線を落としたままペコリと頭を下げると、目の前のローテーブルにマグカップが置かれた。途端、ふわりと甘い香りが鼻をつく。

「ホットチョコレートでございます。どうぞ」
「あ、りがとう…ございます……」

ああもうこの人も完璧迷子の女の子扱いか。
内心で毒づくが、折角用意してもらったのに手をつけないのも失礼な気がして、小さくなった掌でそっとマグを包む。
あったかい。
まだ熱かったからほんの少しだけ口に含んで飲み込んだそれがトロリと喉を伝い落ちて、身体の中からあったかくなったようだった。

「おいしい…です」
「それは良かった」
「( あ、今…)」

なんか、声が優しかった――ような。
思わず俺が視線を上げるのと、クダリさんがいる向かいのソファにノボリさんが腰掛けたのはほぼ同時で、絡んだ視線の先の灰色の瞳がじっとこっちを見るものだから、俺はまた俯かずにはいられない。
なんと言うか――この人達は、完全に俺を女の子だと思っているのだと思うと、居た堪れない気分になった。

「――ところでナマエ様、先程鞄のことをおっしゃっていましたがもしや、」
「!!そ、そうなんです!鞄、どっかで失くしちゃったみたいで……!学生証とか定期も、その中にあったんですけど…!」
「……ふむ。では、ご自宅のご住所は覚えていらっしゃいますか?」

いやだから俺迷子じゃねぇから。さっきはぐらかしたのは単に警戒してたからであって住所くらいちゃんと言えるから。
心の中でささやかに反抗しつつも、さすがにこれ以上頑なになることはできない。
なにせ一文無し。携帯もないから家族への連絡手段なし。俺はもうこの人たちに頼るしかないのだ。

そう思って、縋るような気持ちで応えた俺の住所に、同じ顔した二人はまったく同じ動作で首を傾げた。

「聞いたことない」
「……申し訳ございませんが、わたくしもでございます」
「?!そんな――!!」

バカな。
自慢じゃないけど都会暮らし。この国に住んでる人間なら聞いたことくらいあるはずなのに、目の前の双子は知らないという。
そんなことがあってたまるか。

「ご覧下さいまし。こちらはこのイッシュ地方の路線図でございます。そしてこちらが、我々が今いるカナワタウン。ナマエ様が乗っていらした電車はライモンシティからのものですが――この区間内で、ナマエ様に覚えのある駅はございますか?」
「ッ――!!」

『イッシュ地方』『ライモンシティ』
また聞いた事のない言葉が飛び出す。
ノボリさんの指差す路線図に飛びつくようにしてそれを覗き込めば、区間内どころか、路線図のどこにも見知った駅がない――と言うか、やっぱり読めない。

(それに、この地形――…!!)

明らかに、俺の知ってる土地じゃない。
こんな路線図見たことない。

おかしい。
いつも通りの電車に乗っただけなのに、こんなわけのわからない土地に着くはずがない。


(『ココ』、は……)


『ドコ』だ ?



「――えいっ、いけバチュル!」
「っっい゛?!」

パリッ!
真っ白になりかけた頭の片隅で、クダリさんの声が聞こえたかと思えば、頬に微かな痛みが走る。
静電気みたいなソレにびっくりして、ハッと我に返れば肩に張り付いた小さな黄色い――毛玉?

「ぅ、えっ?な、何これ……!」

なんだこれ!なんだこれ!!う、動いてる、黄色い毛玉が!
何か「バチュバチュ」言いながら動いてよじ登ってくる、んだけどなんだこれ虫?!!

「バチュルだよ!かわいーでしょ!」
「クダリ!今真面目な話をしているのです!茶々を入れるのは――」
「だってナマエ、すごい青い顔してる!死にそう!」
「いいいいやだからってなんでいきなりわけわかんないもの投げつけるんですかっ!」

えっえっなにこれどうすりゃいいの、え?なんだコイツよく見てみると目がすげぇでかいってかプルプルしてる…!(か、かわっ…!)


「わけわかんなくないでしょ?――ナマエ、もしかしてポケモン見たことない?」


『ポケモン』

きょとんとしながら言ったクダリさんの、『ポケモン』という言葉に心臓が跳ねた。

(――そうだ、さっきも確か…『ポケモン』って……)

それどころじゃなくてつい流しちゃったけど、まさか――『ポケモン』て、まさか……


「ぴ ピカチュウ、とか…います……?」

「残念ですが、イッシュに野生のピカチュウはおりません」
「え、なにナマエピカチュウ好きなの?バチュルだって可愛いよ!」

その、まさか――だって言うのか。

(ちょっと――ちょっと待て!だとしたらこれは本気で迷子とかそういうレベルじゃなくて……!)

迷子どころか、俺はこの世界で帰る家すらない。
所持金も、身分を証明できるものも何一つ持たない。
おまけに性別まで変わってしまったとか――これはもう、あれだ。


『 めのまえが まっくらになった 』 




(12.01.10)