ポケモン | ナノ

朝焼けの光を弾き、キラキラと輝く純白の丘。
頬を撫でる風は身を切るように冷たく、吐き出す息さえ白く煙る。
鼻の奥がジンと痛み、指先がかじかむ感覚。無音の耳鳴り。
その懐かしさに目を細め、ナマエは冷えた空気を肺いっぱいに吸い込んだ。


「――……見えますか?インゴさん」


ちらりちらりと舞い落ちる綿毛のように柔らかな雪の一片を掌で受け止め、小さく鼻を鳴らす。
ナマエの手の上の結晶はあっという間に輪郭を失い、小さな一滴に変わってしまう。
その様子をひたと見つめ、愛しげな、寂しげな眼差しを落としたナマエの背後に、雪を踏みしめる音。

空っぽの掌が、背後から伸びてきたそれに覆い隠された。

「………見事なものですね」
「だから言ったじゃですか。インゴさんきっと、びっくりするって!」

ナマエの掌を、背中をすっぽりと包み込んで抱きしめるインゴの腕の中で、照れくさそうに小さく身を捩る。
そのはにかみ混じりの微笑みに浮かぶのは翳りのない喜びと愛しさに他ならない。
ちらりと窺ったナマエの頬がみるみる赤く染まっていく。その様に笑みを噛みしめ、小さな体を更に引き寄せたインゴは、彼女の旋毛にゆったりと顎を乗せ、眼前に広がる世界の眩しさに息をついた。





『インゴと同じフリーク達は、みんな今のインゴと同じくらいの年齢で死んでしまった。もともと身体の構造が複雑ダカラ、それゆえの短命だと思われてたんだヨ。フリークは、決して長くは生きられナイって。――だけど、ボクはそうは思わなかった』


あの日、港町から引き返してきたナマエの前で、インゴはまるで息を引き取るように目を閉じた。
けれどそれを、ナマエは許さなかった。

ダメだと、そんなことはさせないと懸命にインゴに呼びかけ、彼の傍を片時も離れなかった。
昏睡状態のインゴの手を取り、祈るように額を寄せ、「いかないで」と繰り返し懇願した。
そしてその声に応えたかのように、3日目の朝。インゴは再び目を覚ましたのだ。

『インゴにあって、彼らになかったモノ――それはさ、“生きようとする意思”。つまり、『生きたい』っていう、自分自身の強いキモチだと思うんダ』

フリークとして生を受け、生れながらに周囲から隔絶され、親族にさえ疎まれてきた彼らにはきっと、生の先に希望など見出せなかっただろう。
自分の中に願いを見つけることさえ叶わなかっただろう。

――けれど、インゴは異なる道を辿った。
ナマエと出会い、愛を味わい、抗いきれない想いを知った。
やがて訪れるだろう孤独な最期を受け入れていた彼が、『生きたい』と願った。
生れて初めて、自らの生を惜しんだのだ。

『何もかも――それこそ、それまでの自分さえ投げ出せるホド好きになった子と、その子との子供でも生まれれば、さすがのインゴも死にがたくもなるダロウって、そういう魂胆だったんだヨ』

そう言って、一命を取り留めて穏やかに眠るインゴに寄り添うナマエに、エメットは感謝と贖罪の入り混じったぎこちない笑みを浮かべて告白した。
それはナマエがこの見世物小屋に来て初めて目にした、エメットの本来の笑顔だった。






「――見てください。あの山の向こうに、私の育った村があります」

白く連なる山の一つを指さして言うナマエに、インゴは無意識に抱きしめる腕の力を強めていた。
そっと見上げたその顔は何か言いたげなくせに、むっつりと口を噤んで山の向こうを見据えている。
そんな彼に思わず破顔して、ナマエは自分を抱きしめる強張った腕に優しく触れた。

「行きませんよ。あなたを置いては、もうどこにも行きません」
「………お前は、それで良いのですか」

エメットの計らいでせっかく近くの街まで巡業に来たのだ。
ここまで来たのなら、きっと一目故郷を見たいだろう。家族に会いたいだろう。
――帰りたいだろう。
言外に含ませて、けれどやはり腕の力は決して緩めないインゴにナマエは小さく首を振る。

「良いんです。私がそうしたいんですから」

「それに、」と続けて、ナマエはインゴの腕の中でもぞもぞと身体を反転させ、今度は正面から向かい合って彼の顔を見上げた。
寒さで鼻の先を赤くしたナマエが、どこかしたり顔でにっこりと笑む。

「初めて会った日に、言ったじゃないですか。私、」


『インゴさん……インゴ、さん……大丈夫、わたし、は、』




「――『私はずっと、あなたの傍にいます』、って」



インゴの目が、大きく見開かれた。
その瞳の中で、ナマエは悪戯を成功させた子供のように屈託なく笑う。
きっとナマエは忘れているだろうと高をくくり、目を逸らして来た二人の最初の約束を持ち出され、インゴは素直に驚かされた。
――同時に、素直に嬉しかった。
眼球の奥が鈍く痛んで、視界がじわりと滲んだ程に。

「………覚えて、いたのですね」
「はっきり確信したのは割と最近ですけど――でも、そんな気はしてました」

どれだけ痛めつけられ、傷つけられ、酷い仕打ちを受けてもインゴの許を離れがたかった理由。
それはとても単純で、気付いてしまえば何より明白で。
要するにナマエは、彼と出会ったその日から――インゴの眼差しの奥に秘められた苦悩と孤独を垣間見たあの瞬間から、彼を愛してしまったのだ。

愛さずにはいられなかったのだ。


「――だから……っぅわ!?」

掬い上げるように抱きしめられ、ナマエの踵が地面から離れる。
咄嗟にインゴの胸に手をついたナマエが顔を上げるのと同時に、白い吐息を零した唇が深く重なり、ナマエのそれをしっとりと塞いだ。いきなりのことに思わず硬直した小さな身体は、けれど次第に解けるように力を抜き、インゴの背中を優しく抱き返す。
熟れた果実さながらに紅潮したナマエの頬に音もなく落ちた雪が溶けた時、漸く唇を離したインゴはその雫をぺろりと舐め取って蠱惑的な笑みを浮かべた。

「先ほどの言葉、今度こそ聞き逃してはやりませんよ」
「っ……見くびらないでください。これでも私は、インゴさんの『花嫁』なんですから!」

脅すように耳元で甘く囁く声に負けじと精一杯の背伸びでインゴの首に抱きつく。
そのいじらしさに再び瞠目し、やがてインゴは声を上げて笑う。

約束の丘に寄り添う二人の前に、真白の未来はどこまでも広がっていた。





(14.03.16)