「――もう何年も前の話だけど、似たようなコトがあったんだ。あの男はインゴに執着するあまり、『インゴは自分の所有物だ』という妄執に囚われた。その時もかなりイタイ目みせてやったから、二度目はナイと思い込んでたんだ。……まさか“あの身体”でこんなトコロまで追いかけて来るなんて思ってもなかった。あの日のショーに紛れ込んでたコトにさえ気付かなかったヨ。完全に、ボクのミスだった」
『本当にゴメン』と、呟いたエメットの言葉はナマエの空虚な胸の内をただ通り抜けるだけだった。
エメットの声が、まるで薄い膜の向こう側から聴こえてくるように不鮮明で遠い。 鈍い鼓動が響く胸も、頭も、ただ真っ白で。空っぽで。――そうでなければナマエは今にもこの場に崩れ落ちて、二度と立ち上がれなくなってしまいそうだった。
『 ワタクシの前に姿を現すな 』
あの瞬間、深々と貫かれた心が砕け散った。 それはナマエが最も恐れていた拒絶の言葉だった。
茫然自失のまま座り込んでいたのをエメットに手を引かれ、部屋に連れてこられてからどれだけ時間が経ったのか定かではない。ただ息を吸って、吐き出す。それさえぎこちなく。他人事のようで。 とにかくまずは怪我の手当をして着替えるようにと、一度退室したエメットと入れかわりに入ってきた団員の女性二人の手によって、どうにか外に出られる姿になる。 その間も、ただ虚ろな人形のようになされるがままになっていたナマエに意識が戻ったのは、エメットの手の中にある鈍色の鍵を見た時だった。
「……コレは、返してもらうネ」
インゴの檻の鍵。 ポケットに入れていたはずのそれは、おそらく着替えた時に回収されていたのだろう。 掠れた息を飲み、考えるより先に伸ばしたナマエの手が届くより早く、鈍く光を弾いていたその輪郭がエメットの掌に遮られる。 震える喉を絞り、彼を見上げたナマエの涙ぐむ瞳を見下ろすエメットの顔に笑みはなく、その眼差しにはただ、諦観にも似た静けさだけがあった。
「――この夜が明けたら、キミの育った村にお帰り。お金の心配はしなくてイイ。キミは今まで、本当によく働いてくれたからネ」
船に乗って故郷に帰るのだと。港町まではラムセスが送ってくれるからと、エメットはそう言った。 けれどそれは、そんなものは、聞きたいことでも何でもない。 今、ナマエが聞きたいのはそんな言葉ではないのだ。 それをわかっているだろうにただ淡々と続けるエメットの上着の袖を掴み、ナマエは縋る想いで懸命に首を振った。
「い、ゃ……です、っ私……!」
「ッ、私は―――!!」
戦慄くナマエの唇を、その先の叫びを、エメットの指先がそっと押し留めた。
「アリガトウ。キミは、優しい子だネ」
子供に言い聞かせるように穏やかで、だけど冷たい。エメットの声がやんわりとナマエを引き離す。
「――ダケド、勘違いしちゃいけないヨ」
「自分を殺すかもしれない。そんな相手から逃げられない状態で長時間共に過ごすうちに、追い詰められた精神が恐怖心と愛情を取り違えるコトがある。――別に、おかしなコトじゃナイ。生存本能の一種でもある。敵意や憎悪を向けるより、愛情を向けた方が相手も絆されやすくナル。強いられてるんじゃなく、“自分の意思で”ソコにいるんだって思い込めば、ストレスも無くなる。ソシテいつか、『この人には自分がいなければいけない』、『守らなければいけない』――ソンナ感情さえ、生まれるコトがある」
エメットが、ゆるりと微笑んだ。憐憫の眼差しを向けられたまま、慈しむように頬を包まれる。 空っぽになったはずの胸の奥が、芯から凍えていくのを感じた。
「ッ――――、!!」
インゴが愛しいと泣くこの心を否定され、偽物だと諭され。 それなのに、咄嗟に言い返すことのできなかった自分に、何より愕然とした。
どくり。どくり。のたうつ心臓が空回りする。 まるで走馬灯のように、これまでの日々が――インゴと過ごした時間が、あの日見た流れ星のように目の前を白く白く駆け抜けていく。 何が正しくて、何が偽りだったのか。 これが現実のことなのか、それとも長い夢を見ていただけなのか。 無邪気に信じていた世界が足元から崩れ落ちていく音がして、ナマエがふらりとよろめく。 その震える身体を抱きとめ、エメットはそっと、掌でナマエの目を塞いだ。
「……全部、忘れてイイ。キミはただ、もとの生活に戻るダケ」
囁いて、己の掌越しに淡い口付けを落とす。 その内側、彼の手袋を密かに濡らした熱の感覚に、エメットは祈るように目を伏せた。
* * *
まだ夜の気配が色濃く残る明け方近く。東の空が薄らと白む頃。インゴは檻の向こう側に慣れ親しんだひとつの気配を感じた。 振り向いて顔を見なくとも、声を聴かずともわかっていた。 そこにいるのはナマエだ。 泣き腫らした目で暗闇に沈む彼を懸命に探す、ナマエが佇んでいた。
「イ ンゴ さん、」
今にも何かが溢れだしそうな掠れた儚い声に、インゴの返事はなかった。 向けられた背の向こうで黒い鉄柵が寒々しく鳴く。 エメットに檻の鍵を取り上げられたナマエにはインゴの傍らに行くための手立てすらない。 彼が振り向いてくれなければ、その顔を見ることさえ叶わなかった。
「インゴ、さん……教えて、ください」
「――どうし て……っ」
一晩。眠れるはずもなく、ずっと考えていた。 どうしてインゴは、あの時突然自分を突き放したのか。 わからなくて。苦しくて。だって昨晩は、あんなにも近くで寄り添っていたのに。 額を寄せあって、ぬくもりを分かち合っていたのに。 今はこんなにも、彼が遠い。 必死に伸ばす掌は冷たい空を切って泳ぐだけ。
振り向かず、何も答えてくれないインゴの影が、瞳に込み上げる熱の中で揺れた。
「っ、あんな、こと…言ったから、ですか……?」
好きだ、と告げたことがいけなかったのか。 インゴにとっての“それ”は、煩わしいものでしかなかったのか。
胸が、いたい。 千切れてしまいそうに痛い。いっそ呼吸が止まってしまったならどれだけ楽だろう。 膝の力が抜け落ちて、立っていることさえままならず、ナマエは声を上げて泣きたいのを堪えながら縋りついた鉄の柵に額を押し当てた。
「――すき、です」
ぽろり。ぽろり。零れ落ちていく。
「好きです、インゴさん」 「あなたが好きです」 「好きです」 「好きです」
泣き言のような告白だった。
それがエメットの言うように、ただの自己欺瞞なのか、そうではないのか。ナマエにはわからない。 けれどこの胸の痛みが、苦しさが、偽りの感情から生まれてくるものだとは思えなかった。 胸の奥から溢れてくるその想いは、留めおくには大きすぎて、吐き出さなければ息もできなかった。 生きもできなかった。
「好きです……っ」
また一つ零れた雫が床の上で熱を失う。 ナマエのしゃくりあげる声だけが響く沈黙の中で、漸くそれに答えた声はやはり、ひどく遠かった。
「――お前が何を、勘違いしていたのかは知りませんが」
「言ったはずです。ワタクシは、お前のような人間が、一番気に入らない」
涙に濡れたナマエの頬を、ひやりと冷たい朝の風が撫でていく。 夜明けの眩い光がすぐそこまで迫っていた。 やがて静かに立ち上がり、檻を後にするナマエの足音が遠退いて、聞こえなくなっても、インゴは決して振り向くことはなく――ただ、もう殆ど力の入らない手の中の、萎れてしまった白い花を愛しげに包み込んでいた。
* * *
「そろそろ、ナマエが町に着く頃だろうネ」
銀細工の懐中時計を閉じ、エメットはインゴの寝台の横に引いた椅子に腰かけた。 その様子を横目で一瞥し、インゴはまた目を伏せる。ナマエを手にかけようとしたあの男に襲いかかった、あれが正真正銘、最後の力だった。既に彼の身体はどこも思い通りに動かすことはできない。 きっと次に意識を手放せば、二度と目が覚めることはないだろう。
やっと、楽になれる。惨めな生から、この苦しみから解放される。 ふっと息を吐いたインゴの頬に張り付いた横髪を、エメットの指先が優しく避けた。
「……キミは、きっと最後まであの子を手放すつもりはナイだろうって思ってたんだケドなぁ」
軽口のようにそう言って、エメットが微苦笑を浮かべる。 インゴは短く鼻を鳴らし、否定も肯定もしなかった。 実際彼は、エメットの言う様にほんの一日前まではナマエを手放すつもりなどなかった。 最期まで傍らでぬくもりを感じていたいと、彼女が自分を呼ぶ声を聴いていたいと、そう思っていたのだ。
――けれどそれができなかったのは、彼がナマエの想いを知ってしまったからだった。
あの時。銃口がまっすぐナマエに向けられた瞬間、インゴは我を忘れた。 ナマエを失うかもしれない恐怖に支配され、目の前が真っ赤に染まり、箍が外れた。 それほどに恐ろしかったのだ。 たった一人の、人間の娘を失うことが。自我を失うほど。 今思い出しても胸の奥が凍え、震えだしそうなほどに。
そしてその恐怖は、これから自分がナマエに与えようとしているものだと気が付いてしまった。
『 あなたが、すきです 』
嬉しかった。言葉にならないほど。 心が震えたのを、確かに感じた。
愛しいと 思った。
そのナマエに、あの芯から冷えていく恐ろしさを味あわせることになるのなら。
恨まれていい。なじられていい。 傷つけて、憎まれても、いずれ忘れられても構わないから。 いつか星空の元で見た、あの柔らかな微笑みを。 誰より守りたい彼女を、自分という檻から解放してやろうと――そう、思ったのだ。
「……ねぇ、インゴ」
ゆっくりと、インゴの意識が沈んでいく。 微睡みに似たその中で、謎かけめいたエメットの言葉がぼんやりと聞こえていた。
「キミは、砂糖や塩の味を説明できる?」
舌に纏わりつくザラメの甘さ。 いつまでも喉にこびりつく塩の辛さ。 いくら言葉を尽くしたとしても、真に理解するには到底及ばない。
「……だけどネ、ソレをほんの一つまみ、舐めてみればスグにわかる」
エメットには、時に言葉はひどく無力に思えた。 彼の言葉はただ、固く閉ざされたインゴの心の、ほんの僅かな表面を上滑りするだけで、結局その奥には響かない。届かない。
「――だから、賭けたんダ。あの子を、キミの傍に置こうと思った」
インゴに欠けてしまったものを持ったナマエを。 あの日、ボロボロの姿で奴隷市場から逃げ出して、自らの運命に抗おうとした女の子を。 自分の力で未来を切り開こうとしていた、あの瞳を。
抗うことをやめてしまったキミの傍に。 “終わり”を受け入れてしまったキミの傍に。
“愛”を知らない、ケモノの傍に。
「――インゴ、キミは今まで、“愛”を知らなかった」
愛されることなく育ったケモノは、愛することを知らなかった。 そのぬくもりを、優しさを――ひたむきさを知らなかった。
「だけど、もう、わかったデショ?」
ほんのひとくち、味わえばすぐにわかる。
小さな掌に惜しみなく掬われた、愛の味。 愛しさの意味。
キミが、あの子を遠ざけた理由。
薄らと開かれたインゴの双眸に透明な膜が張っている。 その眼差しが今、誰を追いかけているのか、何を見つめているのか。 エメットはくしゃりと破顔して、激励するように彼の胸を小突いた。
「インゴ兄さん。ボクの賭けは、まだ終わってないヨ」
* * *
出航を目前に控えた港町は辺り一面の人でごった返し、ナマエはラムセスに手を引かれてようやく波止場にたどり着いた。
「ほら、これ。チケット。失くさないように、しっかり持っとくのさ」
押しつけるように手渡された船のチケットを、見るともなしに眺める。 その姿は魂の抜けた抜け殻のようで、ラムセスは眉を顰めてナマエの両肩を掴んだ。
「ッ――ナマエ、よく聞いてほしいのさ」
虚ろな瞳がラムセスを見上げる。しかしその中に、真に自分が映りこむことはない。 歯噛みしそうな苦い顔で、けれどラムセスは懇願するようにその奥を覗き込んで言った。
「インゴの『花嫁』として迎えられた君が、どんな扱いを受けるのか――知った上で、僕は何もしなかった。助けてやらなかった。それなのに『勝手なことを言う』って、思ってくれてかまわないのさ」
「――いいか、これまでのことは、あの見世物小屋であったことは、全部忘れるんだ」
「――……、」
ナマエの唇が、何かを言いかけて小さく喘いだ。 しかしそこから言葉が発されることはなく、ラムセスはもう一度、彼女の肩を掴む掌に力を込めた。
「……それが、君のためさ。何もかも忘れて、君の日常に帰るんだ」
ナマエの背後から出航間近を知らせる合図が鳴り響く。 動きだせないナマエをぐいと反転させ、ラムセスがその背を推した。それだけで、人波に飲み込まれた身体は勝手に船に掛る橋を渡り、気が付けば海風に晒された甲板に立ちすくんでいる。 見下ろす船着場には旅立つ者を見送る人々に溢れ、様々な別れの言葉や感謝の声がナマエの中を通り抜けていく。その群衆の中に、去っていくラムセスの姿があった。
(――『忘れろ』、って)
「……ほんとに、勝手なことばっかり」
ポツリと呟いて、ナマエは全身からふっと力が抜けていくのを感じた。
ああ、そうだ。 思えばいつも、自分は翻弄されてばかりだった。
(猛獣使いだとか、花嫁だとか、子供を生めとか――あげくの果ては、『全部忘れろ』だなんて、)
そんなこと、
「ッッ――!!」
そんなこと、できるはずがないのに。
「おいっ!!!人が落ちたぞ!!」 「女だ!!女が船から飛び降りた!!」
突如ざわめきの色を変えた背後の人混みの中に、気づけばラムセスは飛び込んでいた。 まさか、とは思う。それでも。それでも。 どうか勘違いであれと、最後の人だかりをかき分けた先で、波止場へ引きあげられたびしょ濡れの少女が――ナマエが、息を切らしながら彼を見上げ、悪戯がばれた子供のようにへにゃりと笑った。
「な――、にを、考えているのさ君はッ!!!」
その、先ほどまでの虚ろな眼差しが嘘のように生気に充ちた瞳に戸惑いつつも、ナマエに駆け寄ったラムセスは彼女の濡れた身体に自らの上着を羽織らせる。 やはり海に飛び込むのはそれなりに恐ろしかったのか僅かに震える手で心臓の上を強く押さえ、それでもしっかりと顔を上げたナマエの瞳にもはや、悲壮さも迷いもない。
「……思い出したんです、私、」
決意を秘めてゆっくりと息を吸い込み、ナマエは柔らかく微笑った。
「――あの人を、一発殴ってやらないと気がすまないって」
(14.03.09)
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