何かに焦がれるようになったのは、"その時"が近づいていると気がついてしまったからだろうか。
果てしなく続くような無音の夜が短くなったのは、傍らで穏やかな寝息を立てるお前がいるから。 朝の清廉な空気の中、生れ変わった瞳が真っ先にワタクシを映し、寝ぼけた声でワタクシを呼ぶ。 その瞬間が待ち遠しくて、お前を包む夜の帳を壊さないように、傷つけないように、零れ散る柔らかな髪を幾度となく掬い上げては唇を寄せた。
そんな時間さえ苦しいほど、この胸の洞<うろ>を満たしていた。
「――ソノ様子じゃ、隠し通すのもそろそろ限界じゃナイ?」
エメットの言葉に、寝台に臥せったインゴは無言で返した。 微熱を纏う身体はまるで自分のものではないかのようにずっしりと重く、少し動いただけで軋むような痛みがある。眩暈は吐き気を誘発し、咳込めば時折鉄の味が混じった。 それでもインゴは頑ななまでにナマエの前では普段通りの彼を装っていたが、エメットの指摘通り、この数日でインゴは明らかに衰弱した。 あくまで弱った姿を見せたくないのなら、今後彼女を近づけることも躊躇われる程に。
「………」
垂れた前髪の隙間。霞む視界に探したあの白い花は、グラスの縁を向いて俯いている。 時間はもう、多くは残されていない。インゴは決断の時を迫られていた。
「 ――……ッ!!」 「え、なに?イン、」
何事かを言いかけたインゴの唇が、言葉よりも先に鋭く息を飲んだ音がした。 振り向いたエメットの視線の先、動けなかったはずのインゴは何かを警戒するように四つん這いの姿勢で、上体を低く下げている。途端に張りつめた空気の中で、インゴの尖った耳がピクリと動いた。
「ッ――あの、男……!」
地下深くから轟くように低い声で唸ったインゴの瞳はギラギラと危険な眼光を放ち、その奥に覗く禍々しい炎が舌舐めずりをする。 エメットには見えていない何かを見据え、身を乗り出したインゴはしかし、その途端に襲いかかった眩暈によってバランスを崩し、寝台の下へ崩れ落ちた。
「インゴ!!一体何をして――……!!」
既にまともに力の入らないだろう腕を震わせながらも起き上がったインゴのその顔は、エメットでさえ一瞬ヒヤリとする程、野生の猛獣を彷彿とさせるに充分だった。 眉間に刻まれた幾重もの深い皺。剥き出された鋭い牙。煮えるような怒りを露わにした獰猛な視線の先は、未だカーテンの隙間から細い光の射し込む檻の入口に向けられている。 エメットが異変に気が付いたのは、その時だった。
(ナマエの声――?それと、コレは、)
テントの外から言い争う声が近づいてくる。 その二つの声の内、一方はナマエだ。 様子が明らかにおかしい。震えた声を荒げながら、しきりに何事かを訴えているようだ。 そしてもう一方は――、
「――……ッ、ああ…!ああ!!インゴ!!ようやく見つけた!!!」
重いカーテンを跳ねのけて現れた人物の恍惚とした眼差しに、インゴの喉がグルルと唸る。 男の背後にしがみつく小さな人影があった。 髪を乱し、土に汚れて擦り切れた手で必死に男のコートを掴み、男を檻から引き離そうとする。 ボロボロになったナマエだった。 悲鳴のような声で「やめてください」と懇願するその頬は、よほど酷く打たれたか、痛々しいほど紅くなって腫れ始めている。
インゴの中の憎しみが膨れ上がり、灼熱の憤りに我を忘れた。
――殺してやる。
喉笛噛み切って。心臓を引き裂いて。血の雨を降らせ、四肢を喰い千切って。 無残に殺してやる。残虐に殺してやる。肉片も残さず殺してやる。殺してやる。殺してやる。殺してやる。殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやるコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤル――!!!
全身の毛を逆立てたインゴの爪が鉄の床を削り、そのおびただしい殺気にエメットが声を失う。 マズイと思った。 インゴが、インゴでなくなってしまう。 そんな予感があった。
しかし、己に向けられたインゴの狂気の眼差しに、男は心の底から酔いしれていた。 歓喜に打ち震えた息を吐き出し、ナマエを引き摺ったままゆっくりと檻の入口を潜る。 歪んだ執着に濁った双眸は蕩けそうに細められ、土気色の頬に朱が走った。
「そうだ――それでいい…インゴ……!孤独で美しい、憐れな化け物……!!」
一歩、男が足を踏み出す。 夢見るような眼差しでインゴへ伸ばされた手を、払いのけたのは小さな手だった。
「触らないで……!」
「――もう二度と、この人に近づかないでください!!!」
「ッ――この、恥知らずの小娘が!!」
両手を広げ、インゴを背後に庇うように男の前に立ち塞がったナマエを、激昂した男の杖が鋭く打ちつける。加減も何もない一撃に声にならない悲鳴をあげ、床へ倒れ込んで呻くナマエへ我に返ったエメットが駆け寄るよりも早く、男は懐から取り出したそれを彼女に向けた。
「そうか、そうかそうかそうかお前か!!お前があの猛獣使いの小娘か!!この化け物とまぐわったからと傲りおって!!勘違いも甚だしい!!コレはお前のような汚れた売女になぞ相応しくない!!!」
早口で捲し立て、手にしたリボルバーの引き金に指をかける。 ハッと息を飲んだナマエの額に向けられた銃口が鈍く光った。
「消え、 」
男の言葉の先は、ブツリと途切れた。 ナマエの視界を、黒い影が覆う。 肉と骨が千切れる音。吹き飛んだ手の中の拳銃が遠くでカラカラと床を滑る。 その意味を――目の前の光景を理解したナマエは、喉を喘がせ頭を振った。
「い ご、さ――、っ……!」
耳を塞ぎたくなるような男の悲鳴が檻の中を満たしていた。 しかし目の前の大きな影は、インゴは、まるでそんなものは聞こえていないかのように、鋭利な爪で、自らの牙で、馬乗りになって押さえつけた男を引き裂くことをやめない。
鼻をついた生臭い血の匂いと、また何かが千切られる音。 それらはナマエの中に残るあの夜の記憶を呼び起こし、手が、脚が、体中が震えあがって視界が歪んだ。
今、ナマエの目の前にいる彼は、血に飢えた“獣”そのものだった。
「、っ……ゃ……だめ……っ」
(だめ だめ だめ そんなのは、だめ)
完全に抜けてしまった腰を、身体を引き摺って、ナマエは血の池に沈むインゴに手を伸ばした。 震えた手が、膝がまだ生温かい血液に塗れて滑る。 それでもどうにか這いよって、やっと触れた彼の背中に、ナマエは祈るように額を押しつけた。
「 インゴ、さん 」
返事はおろか、反応すらない。 溶け落ちてしまいそうなほど熱を持った瞳から次々に涙が零れ落ちるのを感じながら、ナマエはインゴの背中にぴったりと身体を寄せた。
「インゴさん、もうやめて……やめて、ください」
消え入りそうにすすり泣く声に、猛り狂うインゴの肩がピクリと揺れる。 今、漸くナマエの存在に気が付いたように振り向いたインゴの、瞳孔の開き切った瞳の中で、ナマエは赤黒い血に濡れたインゴの頬を掌で包んだ。
「もう、苦しまないで、ください……っ」
体中がズキズキと痛む。 それでも、この胸の痛みに比べれば何でもないものに思えた。
例えばそれがどんな人間であったとしても、これ以上インゴに誰かを傷つけてほしくない。 ――殺してほしくない。
誰にも打ち明けない心の奥で、暗く閉ざした冷たい檻の中で。 たったひとり苦しむ彼を、ナマエは知ってしまったから。
愛してしまったから。
「 あなたが、すきです 」
また一つ、大粒の涙がナマエの頬を転がり落ちていく。 その透明な雫を目で追ったインゴの唇に、震えた吐息が、柔らかな唇が重なる。
呼吸が、時間が止まったような、そんな気がした。
「――……」
実際のそれはほんの、瞬き程の間のことで。 触れた時と同様に、ゆっくりと離れたナマエの伏せていた瞳が再びインゴを映した時、逆立っていた彼の毛はふわりと落ち着いて、丸い瞳は一心に自分を見つめていた。
――まるで、何かに怯えたように。
「――?、インゴさ 」
再び伸ばされた手を、インゴの手の甲が鋭く弾いた。
乾いた音が耳の奥に残響して、遅れてジンと響いた痛みがナマエを呆然とさせる。 「ぇ、」と、掠れた声で、咄嗟に縋るようにインゴを見上げたナマエの視線は受け止められることもなく、暗がりの中に俯く横顔が淡々と言った。
「……――エメット、その男と、この女を連れて行け」
心臓が、ゾッとするほど冷たい脈を打った。
「 イ ンゴ、さん ?」
戦慄く唇で呼びかける声に、インゴの応えはない。 弾かれた手は行き場のないまま熱を失い、空白に浸食される思考の中で、温度のない彼の言葉だけが木霊した。
「 『出ていきなさい。二度と、ワタクシの前に姿を現すな』 」
(14.03.02)
|