ポケモン | ナノ




「――“ユキ”とは、どのようなものでしょうか」

肌寒い夜、ふと思い出したように呟いたインゴにきょとんとしたナマエは、それから嬉しそうに眦を緩めた。

「色々ありますよ。粉みたいに軽いもの。水が混じった重いもの。砂の粒みたいにかたいもの――だけど私は、真っ白な花弁みたいにふわふわ落ちてくる雪が一番好きです」

記憶の中の光景を追いかけて目を伏せたナマエが掌に視線を落とす。
つられてその手を覗き込んだインゴにふふっと小さな笑い声を漏らし、ナマエは何もない空の掌を愛しげに包み込んだ。

「とっても綺麗で、ひんやり冷たくて……こうやって掌で受けとめると、溶けて雫になるんです」




* * *



「……近頃はまた、随分と甲斐甲斐しいのさ」
「え?」

食事の用意をしているところで背後から不意に言葉をかけられ、振り向けばラムセスの姿。柱に肩を預けて腕組みする彼はどこか剣呑さを感じる視線でナマエを捉えたまま「それ、”アイツ”の食事だろ」と続ける。――その、インゴを『アイツ』と呼ぶ声が妙に冷やかで。しくりと痛んだ胸を隠し、ナマエはどうにか浮かべた苦笑で取り繕った。

「最近少し調子が悪いみたいで……あっさりしたものなら食べられるかなって、思ったんです」

インゴは決して口には出さないが、ナマエは彼の不調を感じ取っていた。
おそらく気取らせまいとしているのだろうが、苦しんでいる彼に気が付けないほどナマエも鈍感ではない。
何も言ってくれないことは少し悔しかったけれど、それでも少しでも彼を元気づけることができればと、時間を見つけては彼の許へ足を運び、食の細くなったインゴのための食事を自分の手で用意するようになった。
しかし、そんなナマエを見るラムセスの視線は既に呆れを通り越し、微かな嫌悪さえ滲ませている。

「放っておけばいい。君が気にすることじゃないのさ」
「……でも、」

「ナマエ」

遮って名前を呼ぶ声が、まるで子供を叱りつける大人のような怒気を含んでいて思わず言葉を飲み込む。寄り掛かっていた柱からゆっくり離れたラムセスが、ナマエの両肩を強く掴んだ。

「――最近の君は、少し変なのさ」
「へ…ん、って……」
「あの“化け物”に、入れ込み過ぎている」
「ッ――……!」

一瞬、目の前が真っ赤に染まった。
“化け物”と、そう呼んだ。インゴのことを。
この人は、インゴのことを何も知りやしないのに。
あの暗く冷たい檻の中で、彼がどれほど苦しんでいるか、苦しんできたか、知らないくせに、と。

「ぁ――あの人は、“化け物”なんかじゃありません……!インゴさんはッ、」
「アイツは僕らとは違う。同じものなんかじゃないのさ」
「ッ、ぃ……!」

声を震わせて言い返すナマエの肩を更に強い力で掴み、ラムセスが語気を強める。
そんな彼に遂に敵意を抱き、噛みつくように鋭く睨みつけたナマエの視線の先で、しかしラムセスの懇願するような、切実な眼差しがナマエの反抗心を奪った。

「アイツは、人間とも、ポケモンとも違う――……君だってあの夜、あの姿を観ただろう」

ラムセスの言う『あの夜』、『あの姿』。
わからない筈もなく、ナマエは咄嗟に唇を強く噛んで目を逸らした。

いくらナマエが言葉で言い繕ったとしても、その事実だけは変わらない。変えられない。
インゴは今まで、幾人もの奴隷の命を奪ってきた。
見世物の一環として。本能の赴くままに。ひどく、残酷に。
それを庇い正当化することなど、誰にもできるわけがない。

「アイツが君に何を言って、どう取り入ったのかは知らないのさ。だけど、間違ってもアイツを信用なんてしない方がいい」
「――……それ、は……私がインゴさんに、『騙されてる』って……そう、言いたいんですか」

震える掌を握りしめて、ナマエは絞り出すように言った。

「……ああ、そうだ」
「……――」

ふっと、身体の力が抜ける。
訝しげにナマエの顔を覗きこんだラムセスが息を飲んだ。

ナマエは確かに、そこにはいない“彼”を見つめ、泣き出しそうに微笑んでいた。

「もし――もしも、そうだったとしても私は、傍に、いたいです」

ナマエだってあの光景を忘れたわけではない。

悲鳴を引き裂いて鮮血にその身を染め、恍惚に目を細めたインゴの姿。
それは確かに彼の本来の姿なのかもしれない。
――けれど、だからと言ってナマエは、それ以外の彼が総てまやかしだとは思えなかった。

自らを『血に飢えた獣』と呼んだ、あの眼差しの中。
ナマエの言葉に激昂した瞳の奥。
傷ついた左腕に触れた不器用な掌に、ナマエはインゴの苦悩とつたない優しさを見つけた。
いつしかそれを、守りたいと思った。

愛しいと 思った。

「ッ――ナマエ……!!」
「ごめんなさい。私、そろそろ行かないと」

引き止めるラムセスの声を振り切り、トレーを持って足早にその場を後にしたナマエはインゴのいるあのテントへ向かう。
気を抜けば涙が零れてしまいそうで、すんと鼻を啜ってどうにか堪えた。

(インゴさん――)

会いたい。今すぐに。
ラムセスの手前、懸命に平然を装ったつもりだった。けれど、その言葉に揺さぶられたあらゆる不安が胸の中で一斉に芽吹いて、ナマエを落ち着かせなくする。

(早く。早く。早く。早く)

祈るように強く目を閉じて駆け出したい衝動を抑え込む。
――その時、聞き覚えのない男の声がナマエを呼び止めた。


「もし、そこのお嬢さん。ちょっとお尋ねしたいのだが」


「、ぇ ?」

自分が呼ばれたとは咄嗟に気づけず、一拍ほど反応が遅れたナマエが足を止めて振り向く。
そこには紳士帽をかぶり、上等そうなインバネスコートを羽織った見知らぬ男が佇んでいた。

「……あの、私をお呼びでしょうか……?」
「ああ。そうだ。なに、インゴのテントを教えてほしくてね」
「インゴさんの……?」

人のよさそうな朗らかな笑みを浮かべ、男がナマエへ近寄った。その手には杖があり、片足が悪いらしく少々歩きづらそうに引きずっている。
ナマエは視線だけで控えめに男の全身を確認し、僅かに眉を顰めた。
彼はどう見てもこのサーカスの関係者ではない。おそらく、インゴ目当ての客の一人が入り込んでしまったのだろう。

「……すみませんが、関係者でない方をお通しすることはできません。お引き取り願います」

笑顔を貼りつけた男の眉がピクリと跳ねる。
途端、皮を剥がしたかのように無表情になったその顔にナマエの背筋を言い知れない恐怖が這い上がったのと、男が杖を振り上げたのはほとんど同時だった。

「ッ――ぁ……!」

ゴッと、間近で鈍い音がした。
視界がぐらつき、地面に倒れ込んだナマエの視界にトレーから零れたインゴの食事が無残に拡がる。

(あ、いけない。インゴさんの、ご飯、)

何が起こったのか理解できていないナマエが、無意識にトレーに手を伸ばした。しかしそれよりも先に胸倉を掴んだ手が乱暴に彼女を引き摺り起こし、更に手の甲でナマエの頬を打つ。
その時になって漸く、ナマエは割れそうな頭の痛みと、その原因に――つまり、自分が目の前の男に杖で殴られたことに気が付いた。

「この私が『関係者ではない』だと!?薄汚い小娘風情がふざけるなッ!!いいからさっさとインゴの許へ連れていけ!!」

ナマエの身体をガクガクと揺さぶり、唾を飛ばしながら激怒するその姿に先ほどまでの面影はない。
痛みと恐怖に身体が竦み、声を出すことができないナマエに男は尚も続けた。

「あの“化け物”は私のものだ――私が、私があの村から救い出した!!私が!!わかるか!!!」
「ッ!!」


『それがこの見世物小屋の元オーナーなんだけど……今はもういない』


濁った目を血走らせた男の言葉に、ナマエはいつかのエメットの話を思い出した。
故郷の村で軟禁されていたインゴを連れだした人物。それがこの男だ。
エメットの口ぶりからして既に他界しているものと思い込んでいたが、そうではなかったらしい。
きっとエメットは、意図的にこの男をインゴから引き離したのだ。
歯をむき出して喚き、怒号を止めない男の形相に確信したナマエもまた、この男をインゴに会わせてはいけないと怯える自分を叱咤して戦慄く脚に力を入れた。

「ぁっ、あなたを、インゴさんに会わせるわけにはいきません…ッ!!帰ってください!!」
「ッ――なんだと!!!」

再び振りかざされた杖がヒュッと鋭い音を立てる。
次に来るであろう衝撃を予想して、ナマエはまた身を固くして反射的に目を閉じた。
しかし、ナマエ目がけて振り下ろされたそれは、駆けつけた人物によって寸でのところで受け止められた。

「何やってるのさッ、ナマエ!!」
「っ、ら、ラムセス さ……!」

騒ぎ声を聞きつけたか、ラムセスが来てくれた。側頭部から血を流し、呆然として小さく震えているナマエを素早く背後に庇った彼が目の前の男と対峙する。
互いに視線が交わった瞬間、ラムセスは何かに気が付いたように目を見開き、忌々しげに舌打ちした。

「ああ……君かラムセス。随分と立派になったものだ」
「……ええ、あんたも。お元気そうでなにより」


「――お探しの獣なら、あのテントの中にいるのさ」


「ッ!!?な、」
「おお!!そうかそうか、インゴはそこか!ありがとう、感謝するよ!」

ラムセスの言葉に狂気に充ちた瞳を爛々と輝かせ、男は早速インゴのテントに向かって踵を返した。
その背を咄嗟に追いかけようとしたナマエの行く手を今度こそラムセスが塞ぐ。
見上げた彼から返された眼差しにはナマエに対する憐みさえ含まれていて、焼けつきそうな焦燥感で喉を振り絞ったナマエは詰るように彼の胸に拳を打ちつけた。

「どう、して……ッ!どいてください!!あの人をインゴさんに会わせたら――!!」
「君こそわかっているのか!!」

声を荒げたラムセスの剣幕に気圧され、ナマエの足がふらついた。
そのまま後ろに倒れ込みそうになった彼女の腰を片腕で抱え、ラムセスの掌は紅く腫れたナマエの頬を労わる様に包み込む。
その、微かに震えた優しい手を、ナマエは拒むことができなかった。

「そんなにフラフラで…怪我までして……!そこまでして君がインゴを庇う必要がどこにあるのさ!!」
「っ……だ、って、あの人は……!」
「アイツは人間じゃないッ!!君が守ってやらなくとも、あんな男一人どうとでもできる!!」



「アイツには簡単に殺せるんだ!!!」



「ッ――……!!」


( ちがう )

インゴは今、いつもの力を出すことができない。

( ちがう )

『人間じゃない』なんて、そんなの嘘。
あの人は悩んでいた。
人とは違う己に苦しんで、蔑んで、誰とも分かち合えない孤独に苛まれて。

( ちがう )

( ちがうの、そうじゃ なくて )


本当に叫びたいのは、そうじゃなくて。

ただ、守りたいのだ。
インゴの心。
芽生えたてのつたない優しさ。

これ以上傷ついてほしくない――傷つけて、ほしくない。


彼を 愛しているから。


「そう、だと…しても……っ私は、そんなの嫌です……!」
「――ッ、ナマエ!!」

心の中でラムセスに謝って、ありったけの力で彼の胸を突き離す。
その勢いのまま、ナマエはもつれそうな足でインゴの許へ駆け出した。
痛みも、恐怖も、今はだた遠い。
愛しい人を守りたい、その一心が、ナマエを突き動かしていた。



(14.02.09)