自分が許せなかった。 きっと、インゴさんはそんなことを望んではいなかったのに――あの尋常ではない観客達の前で、あんな風に見世物にされることがどんなに耐えがたい苦痛であるか、考えられなかったわけではないのに。それでも私は、彼を救うふりをして、結局は自分勝手な願望を押しつけただけだった。 あの時私は確かに、背徳に塗れた悦びに震えていたのだ。
インゴさんに、一途に求められる悦び。 爪の先まで貪られる悦び。 彼の大きな手に、身体の芯を灼くような熱を移される悦び。
観客達の目から私を隠すインゴさんの気遣いに、溢れそうな熱を帯びた眼差しの中に優しさの欠片を見つけるたび、錯覚しそうになった。 そこに、すぐ目の前に、求めたものがあるような気がして、必死に縋りついた。 愛されているような、そんな気がして、いつの間にか涙が零れていた。
『彼に愛されたいのだ』と、溺れそうな心臓が泣き叫んでいた。
「――インゴが、珍しくしょげてたヨ」
ノックの返事を待たずに部屋に入ったエメットは、寝台の上で身じろぎもしないナマエに優しい声色で話しかけた。
「キミが傍にいないと食事もノドを通らナイってカンジ。……ネェ、顔だけでも見せてあげてヨ」 「……っ、合わせる顔、ありません……」
頭から布団を被ったナマエの声はくぐもって聞き取り辛かったけれど、今にも嗚咽をあげそうに震えていることがわかる。その様子に軽く肩を竦めたエメットが寝台に近づいて腰を降ろすと、軋んだ音が立つのと同時に布団の中のナマエが小さく震えた。
「……どうしてキミが、そんなに自分を責めてるの?」 「っだ、って……!」
「――だって!インゴさんはあんなこと……っ、絶対、嫌だったのに……!私が……っ!!」
ナマエの喉がひゅっとか細く喘ぐのが聴こえた。 目を閉じてその声に耳を傾ければ、布団の中で小さく、小さく蹲るナマエの姿が目に浮かぶ。 しゃくりあげる薄い肩に思わず伸ばしかけた掌を、エメットは寸でのところで堪えて握りしめた。 瞬きをしたその眼差しは上質なガラス玉のように。潜める微笑みは道化のように。
「 さぁ、ソレはどうかな? 」
ただ無機質で、温度のない声がナマエの耳をゾロリと這う。
「、ぇ」と。思わせぶりな口ぶりに、ナマエから僅かな疑問の声が上がった。 すすり泣くことさえ忘れた彼女の意識が完全に自分に向けられたことを認め、エメットは可笑しくて堪らないとでも言いたげにクスクスと嫌な笑い声を漏らしながら続ける。
「案外インゴは、そうなるコトも――キミがああするコトもわかってたんじゃナイかな?」 「ッ、そ…れは……どういう、」 「……インゴの様子、チョット変だったでショ?あの薬、別に強制なんてしてナイよ。むしろボクは選ばせてあげた」
「『キミが飲むか、ナマエが飲むか』――って、ネ」
「ッッ――!!!」
鋭く息を飲んだナマエが布団を跳ね退けて起き上がる。 その驚愕に見開かれた瞳の中で、エメットは尚仮面を外さなかった。
「インゴにはボクの企みくらいわかってただろうネ。あの薬は、常人離れしたインゴにさえアレだけの効果を発揮した――もしもキミが飲んでいたら、ソレこそ二度と“モドッて”来られなかったカモしれない。 『キミが断るなら、同じコトをナマエに訊ねてみよう』……そう言ったらサ、インゴってばボクの手ごと薬をひったくるんだもん。あの時はさすがにビックリしたヨ」
いつも身に着けている白い皮の手袋を外してヒラヒラと晒すエメットの手の甲に、見るのも痛々しい、大きな爪の跡。 気管を締めつけられたように息が苦しくなって、視界がじわじわと輪郭を失くしていく。
インゴの苦しみ。優しさ。 それを思うと肺が押し潰されそうで、嵐のような切なさが胸を浚う。 ――それでもその嵐の果て、最後に残ったものはやはり、“インゴに守られた”という身勝手な悦びに違いなく、エメットへ振りかぶった手は結局、己の掌に爪を立てることしかできなかった。
「……だから、ネ?キミは、何も気にしなくてイイ。アレはあくまで、インゴが選んだ結果」 「ッ違う……!あの人は、あんなこと……!!」
インゴは確かにナマエを逃がそうとしていた。 ナマエには想像すらできない衝動を押し殺し、矜持を守ろうとしていた。 それがわかっていながら、ナマエは自分の身代わりになって苦しみ、必死にもがいていたインゴを、その状況を利用したのだ。
ただ一時の幻のために。 “インゴに愛される”夢を見るために。
「っ……、!」
パタパタと、乾いたシーツの上で雫の跳ねる音。 俯いて肩を震わせるナマエの頭を撫でようとして、やはりエメットは静かに思い留まった。
「――今夜、皆が寝静まった頃にインゴのトコロへおいで。インゴはホントに、キミを心配してる」
立ち上がったエメットが部屋を出ていく足音を聞きながら、ナマエはひたすらに嗚咽を耐えた。 インゴに会いたい。合わせる顔なんてない。それでも本心では、何よりも彼の声を聴きたい。 触れてほしい。抱きしめてほしい。背を撫でてほしい。
――愛してほしい。
目覚めた渇望には果てがなく、今にも飲み込まれそうなぬかるみの中でひたすらにインゴを呼んだ。
* * *
頬に触れる風が切っ先のように冷たい。 最後の灯りが消えた後、こっそりとテントを抜け出したナマエは夜の空気にぶるりと身震いした。
(冬の匂いがする……)
すんと鼻を鳴らせば懐かしさが拡がる。ナマエの生まれ故郷よりずっと南のこの地方にも、一歩一歩冬の気配が近づいていた。
(……そう言えば、今日は星が綺麗に見える)
冷え込む夜ほど星の光は冴え冴えと磨かれて美しい。故郷で見上げたそれを思い出しながら歩けば沈みそうな身体も少し軽くなったような気がして、思い切り首を逸らして天を仰ぎ見る。 爪痕に似た繊月を見つけて目を細めた時、その声が真っ直ぐに意識を横切った。
「――いつも、そうやって不恰好に歩いているのですか」
「ッ え――?」
鼻で笑う聞きなれた声の元に、藍色に染まる背の高い人影。 星明りに照らされ、神秘的に煌く鋭い双眸がナマエを捉えたままふっと緩い弧を象る。 その形容に難い美しい姿を目の当たりにして、ナマエは一瞬、呼吸すら忘れて呆然と見入ってしまった。
「 イ ンゴさん、どうして――」 「……話はエメットに通してあります。来なさい」 「え、っ!あ、まっ…どこに……ッ!!?」
どうして彼が檻から出ているのか。 一体どこに、何をしに行こうと言うのか。 慌てて問いかけようとしたナマエを遮るようにインゴの腕に抱えられていたブランケットを頭から被せられ、驚きにビクリと揺れた身体が間を置かず宙に浮く。 上がりかけた悲鳴を留めたのは、唇にそっと押しつけられたインゴの人差し指だった。
「――お静かに」
月影を背負うインゴが、微笑っているように見えた。 それだけで痛いほどに心臓が跳ね上がり、簡単に言葉を見失う。 一体何が起こっているのか。インゴは何を考えているのか。 尽きない混乱の中、どうにか数回頷いたナマエはゆっくりと歩き出したインゴの腕に控えめに縋った。 恥ずかしいほど体中に鳴り響いているこの心臓の音が、どうか彼に勘付かれていませんように、と。ひたすらにそれだけを願いながら。
* * *
訊きたいことはたくさんあった。
『どうしてここに?』 『何をしに?』 『身体の具合はもう大丈夫ですか?』
けれどそれができないのは、やがてたどり着いた丘の上にブランケットごと自分を降ろしたインゴがすぐ隣に腰を降ろし、無言で星空を見上げていたから。 何となく話しかけるタイミングを失ってしまい、ナマエは静かに途方に暮れた。
(インゴさん……何を考えてるんだろう……)
『――私のこと、軽蔑しましたか?』
「ッ――……!」
インゴの応えを想像してしまい、ナマエは咄嗟に強く目を閉じて抱えた膝に額を埋めた。
知りたくない。拒絶なんてされたくない。 もしも今、彼に拒まれたら――『出ていけ』と、冷たく言い捨てられたあの時のようにインゴに拒まれてしまったら、きっともう、息が止まってしまう。 心が、凍えてしまう。
「………何を俯いているのですか」 「っ……それ、は…」 「折角ここまで連れて来てやったのですから、きちんと顔を上げて観ていなさい」
インゴの掌が、俯いたナマエの頭を促すように柔らかく叩く。 その動作があまりにも優しくて――凍えそうだった胸の奥が、今度はきゅうと締めつけられた。 おずおずと前髪の隙間から彼を窺えば、それを確認したインゴがもう一度空を見上げる。その横顔につられ、ナマエもゆっくりと、囁くような星空を仰いだ。その瞬間だった。
「――っあ……!」
思わず小さな歓声が上がる。 星の海を横切った白い光の筋。 長い尾を引いたそれは、瞬きをした拍子に呆気なく姿を消してしまった。 それでも、瞳に焼き付いた一瞬の煌きは、ナマエの中の暗く重い感情を確かに照らして昂揚へ変えた。
「い、インゴさんいま……っ!今、見ましたか!!流れ星が……!」 「……ええ、見えました」 「ほんとに!?あっ、あっちにも今……あっ、あっ!インゴさんまた…!今度はこっちに流れて……!!」 「わかりましたから少し落ち着きなさい」 「でもっ!わっ、うそ……!こんな…こんなにたくさん見るなんて、初めてで……!この辺りではこれが普通なんですか!?」 「この場所ではなく、今日が特別なのです。今夜は、流星群が観られる夜ですから」 「『流星群』……?」
食い入るように星空を見上げていたナマエが聞きなれない言葉に首を傾げてインゴを振り向く。 と、先ほどまではナマエと同じく空を観ていたはずの彼が、いつの間にか穏やかな眼差しで自分を見下ろしていることに気が付き、ナマエの頬が瞬時に熱を持った。
「――年に数回、地球が彗星の軌道を横切る時、彗星の纏う流星の欠片が地球に引き寄せられ、一晩のうちに燃え尽きていく………お前には少し、難しい話でしたか」 「!!そっ、そんなことは……!」 「『ない』、と?」 「っ〜〜〜!!」
インゴの言葉を否定しきれず口を噤んだナマエを見て、インゴが小さく鼻で笑う。 なのにそれが、いつものそれよりもずっと優しいような気がして――ナマエは結局黙り込み、ブランケットの中で膝を抱き寄せ身体を縮めることしかできない。 しかしその姿を凍えていると勘違いしたのか、徐に丘へ手をついたインゴが腰を上げかけた。
「……やはり、お前にはそれだけでは足りませんでしたか」 「っえ……?」 「風邪をひかないうちにテントへ、」 「!!だっ…大丈夫です私……!あのっ、えっと……!!あ、!こうすれば、もっと……!」
頭で考えるよりも早く、口から飛び出した言葉はインゴに追いすがり、勝手に動いた身体は彼の腕を引きとめていた。 立ち上がろうとしていたインゴを制し、半ば転げる勢いでその膝の上へ。 身体に巻きつけていたブランケットをふわりと風に広げて、彼の胸にいる自分ごと、目を丸くしているインゴの背中を包みこむ。 至近距離に迫ったインゴの星影の宿った瞳に映る自分を見た時、ナマエは漸く自分のしでかしたことに気が付き、大慌てで彼に背を向けて息を殺した。
(し まった私……!なにして……!!)
ドクン。ドクン。 今まで感じたこともないほどの鼓動が、指先に至るまで全身に響き渡る。 顔が、熱くて。今にも火が出そうだ。
一体どれほどの沈黙があっただろうか。 羞恥に耐えるナマエを、背後から回った大きな腕が壊れ物を扱うよりももっと慎重に抱き寄せる――その瞬間、ナマエの身体は心地良いぬくもりに包まれていた。
「――寒く、ありませんか」 「……は、ぃ」 「………では、もう暫くこうしていても……?」 「ッ……」
返事をする代わりに、精一杯の勇気を振り絞って背後のインゴに体を預けた。 寒さとは別の理由で震える身体を、インゴの腕はぎこちなく、それでもしっかりと抱き寄せる。 背中から伝わってくるインゴの体温に、間近に感じる息遣いに、必死に押し込めようとしていた願望が今にも堰を切って溢れ出してしまいそうで――― 心の底からインゴが恋しくて。 この瞬間を失いたくなくて。 不意に視界を横切った白い星の軌跡に、気付けばナマエは懸命に祈っていた。
「……寒いと感じたら、すぐに言いなさい」 「ほんとに平気ですよ。だって私、ここよりずっと寒いところで生まれたんですから」
また一つ、零れ落ちるように長い弧を描いて丘の向こうへ消えた流星を見送る。 他愛もない会話ひとつさえ終わらせたくない。そんな気持ちは初めてだった。
「――そうだ、インゴさん」
「インゴさんは、雪を見たことありますか?」
「“ユキ”……?」
まるで幼い子供のように、オウム返しに聴き返すインゴが珍しくて思わず笑みが零れてしまう。
「私の生まれたところでは、冬が来ると雪が降るんです。雨が凍りついて真っ白な結晶になって、空から降ってくるんですよ」 「………」 「う、嘘じゃないですよ!!ホントなんですからね!?」 「まだ何も言っておりませんが」 「目が疑ってました!」
首を捻って振り返るナマエがキャンキャンと噛みつけば、今度は親が子供にするように軽くあしらわれてしまった。その事に不満がないわけではないけれど、ナマエの肩から零れた髪を掬い上げて弄ぶ手つき一つで簡単に許せてしまう。 自分は思ったより単純にできているのだと、ナマエはこの時自覚した。
「ねぇ、インゴさん――いつか、」
「いつか、一緒に見ましょうね。一面の白い丘。インゴさんきっと、びっくりしますよ」
その時の彼がどんな顔をしていたのか、朝焼けを前に白む空を見つめていたナマエは知る由もない。 インゴがほんの一瞬、息を詰めたような気配がして――けれど振り向くよりも前に、ナマエを強く抱きしめた腕がそれを阻む。
「……ええ、いつか」
耳元で零れたインゴの声は、あまりにも穏やかで――優しくて、ナマエはそれを信じてしまった。 信じたいと 願ってしまった。
夢の終わりの足音に、聴こえないふりをして。
(13.12.26)
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