【04】
「いないじゃないですか」
無人の執務室を見た瞬間、ナマエの中で渦巻いていた緊張はあっけなく解けて消えた。 先程までビビっていたことをまるっと棚に上げ、残念だなこれじゃクラウドさんに報告できないやと大仰に溜め息をつく。
ここに居ないとなると中央管理室に居る割合が非常に非常に高いが、こっちもそろそろ乗務の時間が差し迫ってきている。 優先順位を考えるとこの書類の提出は「また、あとで」だ。
執務室の扉を静かに閉めて踵を返した。
(クラウドさんには後で何か適当に言っとくとして、今は仕事のことを考えよう、うん)
余計なことに気を取られて無様に負けるわけにはいかない。 鉄道員のプライドにかけて。
階段を駆け下りながら深呼吸をして、気持ちを切り替えた。
心臓がドキドキと高鳴る。 一旦乗車したら、お客様が負けるか勝ち抜くまで降りられない。
どうかどうか、勝ち上がって来てくれます様に。 まずはこの邪魔っけな書類は机に、その後トイレに寄ってから水分補給、身だしなみと持物のチェックを、
『ちょっ、インゴ! まえ!』
「ん?」
後ろから声がして、振り向こうとした瞬間、
「ひゃわ!?」
ドン、と押された。
書類が宙を舞い、両手が泳ぐ。
(な……、)
何が、
何が起こった……?
気付けば両手を投げ出して、冷たい床の上にうつ伏せで倒れている。
ひらり、ひらり、と書類が積もった。
ひざ痛い。 ひじも、痛い。
(転んだ……の、か……)
そうだ、確か背後から「Hey!」だか「Look!」だか聞こえたから、振り返って見ようとしたんだ。 そしたら目の前が真っ暗になって、……ううん、違う。何かが迫ってたんだ、それで……
『おや?今何か、……何事です?』
『何事です、じゃないよインゴ! 女の子跳ね飛ばしてる!』
『……わたくしが、やったのですか?』
『そ―――だよ!』
『Oh、』
コツコツ、コツリ。
目の前にくすみ1つない靴先がぬっと現れた。
「アー、……大丈夫ですか?」
跪くと同時に手を差し伸べられて、思考の旅に出ていた意識がふっと戻った。 そうして、自分の置かれている状況を思い出す。
「ぁ、……っ、す、すみません!」
慌てて立ち上がろうとしたら、差し出されていた手に補助された。 恥ずかしい、恥ずかしすぎる。 真っ赤になっているだろう顔を隠したかったが、ここで顔も合わせずお礼を言うのはナシだろう。
「すみません、ありがとうございま、」
なけなしの笑顔で相手の顔があるだろう位置に視線を上げたら、黒いネクタイについたシルバーのタイピンがそこにあった。
(あれ?)
目測を誤ったか、もう少し視線を上げる。
上質そうなネクタイの結び目……贅肉の無い太い首筋……口角の下がった口元……。
(で、)
「おケガはございませんか?」
「ぅ……ぁ……」
(でかい……っ)
とてつもなくでかい。 巨人だ。
ノボリボスもスラッとした長身だけど、目の前の人間はそれをゆうに超えている。 遥か高みから貫いてくる不機嫌そうなオーラに圧倒された。
(……こ、恐い!)
今だかつて、これほど迫力のある人に会ったことがない。 緩んだ唇は発するべき言葉を忘れ、引き攣った喉が情けなくもクキューと鳴った。
『動かなくなってしまったのですが……』
男の視線が私から逸れる。 コツン、と踵を鳴らして背後から現れた白い男も、またでかかった。
(は、挟まれた!)
ギクリと肩が強張る。 白い男は笑顔を浮かべているからそんなに恐くないけれど。
『インゴってば、さっきも言ったでしょ? 威圧的過ぎ! そんな高い所から見下ろしたら小鳥ちゃんびっくりする』
「?? ???」
いんご? ばーでぃ?? 彼らの会話は、速過ぎてまったく聴き取れない。
『そうですか、でしたら』
「??」
おもむろに男がしゃがみ込んだ。
「ひぁ!!?」
かと思ったら、膝裏を掬われて、軽々と抱き上げられた。 咄嗟に男の襟を鷲掴み、声にならない悲鳴を上げる。
男との距離がぐっと近くなった。 青灰色の目が覗き込んでくる。
「どうです? これでもワタクシが恐いですか? 恐くないでしょう?」
「…………へ?」
アホみたいな返事が口から出た。
「ですから、恐れずに状況を教えなさい。ドコか痛むところはありますか?」
「ぁ、な、ないです! 大丈夫、ですっ!」
「嘘ではないでしょうね?」
訝しむように覗き込んでくる青灰色の目を凝視しつつ、コクコクと首を縦に振る。
男は無言だ。 無言のまま、じ――――っと見つめてくる。
ごくり、と喉が鳴った。
「…………そうですか」
謎のプレッシャーに心が折れかけたとき、ようやく納得したのか、男はほんの少しだけ……ほんとに少しだけ目元を緩ませて微笑んだ。
(お、)
そうすると、気難しそうだった雰囲気が和らぎ、優しそうな雰囲気がじわりと滲み出す。
そこで気がついた。
この人、ちょっと不器用なんだ、と。
こんなに図体が大きいのに。 人のことを許可なく持ち上げるくせに。
そうか、ショックだったのか。
私が、恐がったことが。
「ふ、」
なんだ可愛いじゃないか、と思ったら堪え切れなかった。
「なんです?」
「いや、その……ふふ、すみません……でも、くふふ」
笑うのを堪えたいのに、腹筋がひくひくと痙攣する。 私を腕に抱いたまま、男が訝しんでいるのが分かるが止められない。
「なぜ笑うのです」
「インゴ、変な顔でもしてたんじゃない? ネ、お嬢さん。ハイ、落し物。ごめんネ」
「あ! す、すみません!」
白い男が散らばった書類を纏めて私の目の前に差し出した。
そうか、 何度か耳にした「インゴ」というのは、この黒い男の名前だったのか。
白い男が目を細めて私の頭に制帽を乗せる。 インゴさん、がチラリとこちらを見て、ハァと溜め息をついた。
「笑えるのでしたら、いいです……」
人差し指の背が、私の頬をひと撫でする。
「ワタクシも不注意でした、申し訳ありません」
「いえ、こちらこそ」
くすぐったさを堪えて帽子を被り直し、今度はちゃんと笑顔で返した。
なんだか丸く収まりかけたので、そろそろ降ろして欲しいと口を開きかけて――――
「ナマエ!?」
「!!」
――――聞き覚えのある声に、開きかけた口をぱくんと閉じた。
誰か、なんて見なくても分かる。 ギギギと首を巡らせば、ルールを守って決して走らず、だけどコートを翻しながら急いで歩いてくるノボリボスの姿が目に入った。
近づいてきた黒い方のボスが私に手を伸ばす。
「申し訳ございませんインゴ様エメット様! ナマエが何かご迷惑を?」
私をインゴさんから降ろしたノボリボスが、間に入って2人に尋ねる。
「……イエ、」
「ううん、違うヨ。迷惑かけたのインゴの方! ごめんネ、ナマエチャン」
「ぅ、えっと、お構いなく……」
ノボリボスの肩越しに覗き込まれて反射的に首を竦めてしまった。 インゴさんと違って、この人はなんだか馴れ馴れしいから……
そんなことを考えていたら、ノボリボスがくるりと振り返った。
「そんなことよりもナマエ! 貴方なぜここにいるのですか? 本日の運行予定は把握しているのですか?」
「…………あっ!」
言われて腕時計を一瞥、飛びあがった。 やばい、時間はもうギリギリだ。
「すすすすみませんボスッ! 5分後発車のスーパーシングル乗務ですううう!」
「5分!? ッ、でしたらさっさとお行きなさい! 駆け込み乗車はいけませんよ!?」
「はいぃっ!」
ひっくり返った声で返事をしながら、ボスやエメットさんやインゴさんの横をすり抜ける。 振り返ってお辞儀をする暇もない。
後々のお叱り覚悟で、私は角を曲がると同時に走り出した。
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