ポケモン | ナノ



「――そのあたりにしておきなさい」
「 ん、ぇ」

背後から伸びてきた手が、6割は中身の残っているアルミ缶を私からひょいと取り上げる。
ワンテンポ遅れて振り向けば、そこにはいつも以上にしかめっ面のインゴさん。
その顔を見た瞬間に、やっと薄まりつつあった胸のわだかまりがまた喉を塞ぐようで、私は思わず身体を捻ってソファに片膝で乗り上げ、インゴさんに奪われたそれを取り戻そうと手を伸ばしていた。

「も、かえしてくださいよぉー」
「聞こえませんでしたか。もうやめなさいと言っているのです」
「やだ。やだぁ。まだのむ、もん」

『もん』て。そこそこいい歳して言ってしまった。何キャラだ私は。
ぼんやりした頭の片隅で思いながら背もたれに手をかけて更に身を乗り出す。
そうすると、私の手が届かないように高い位置にそれを逃がしたインゴさんがやれやれとばかりに聞こえよがしなため息をついてこっちに回ってきた。

「……ナマエ、」

『しめた』と、隣に座ったインゴさんに――依然として奪われたままのアルミ缶に狙いを定めて、半ば飛びかかるようにして腕を伸ばす。
――と、捕まったのは私の方だった。

「いい加減になさい」
「っ、ん」

狙ってたんだと、思う。
インゴさんの太腿に手をついて身体を伸ばした私はまんまと腕の中で拘束されて、視界の端を横切った目当てのそれは、テーブルの上に無造作に転がした空の缶の群れに紛れてしまった。
理不尽だ。
自分がお酒飲んでる時は、私が言っても絶対やめないくせに。

私だって、私だって、
お酒の力を借りたい時くらい、あるのに。

「インゴさん、の、いじわる、ばか、きらい」
「その言葉、よく覚えておくことです」
「………うそですだいすきですごめんなさい」

判断力は、だいぶ鈍ってる、と、思う。
だけどやっぱり、いつもより低くなった声に本能的な危機感は感じてしまうわけで。
即座に掌を返し、精一杯可愛こぶってインゴさんの首に腕を回しながら頬を摺り寄せる。
「酒臭い」とか「素面のときにやりなさい」とか、インゴさんは何かぶつぶつ文句を言っていたけど、私の腰を抱きなおしてぎゅうっと抱きしめるところを見る限り満更でもないようだった。
……それに何より、私の後ろ髪を撫でる手が、泣きたいくらいやさしい。

「――インゴ、さん…インゴさん……」

ふしぎだ。
アルコールを流し込んで強制的に薄めていたあのモヤモヤが、インゴさんを呼ぶだけで、ただ抱きしめられてるだけで昇華されていく。途方もない安心感。意識がじんわりとけていくような。
心ごと預けてしまえるような、そんな気さえする。
ここは――インゴさんの腕の中は、わたしを守ってくれる砦であって、揺りかごだ。



「辛いのなら、やめてしまいなさい」



――インゴさんは、やさしい夢を見せる。
普段はそんなのおくびにも出さないくせに、本当に私が参ってるときには、絶妙なタイミングで、それこそどろどろに甘やかそうとする。
頷かせようと、する。
実際私はそうされてるといつも、甘言にのって頷いてしまいたくて堪らないのだ。

だけど、


「……や、です」


詰まる所、私は仕事でミスをした。
幸い大事には至らなかったけれど、上司であるインゴさんがそれを知らないはずはなくて――事情も大体わかってるから、そういうことを言うんだと思う。

なんと言うか少々、理不尽な思いをした。
いや、元はと言えば私が事の発端なんだから、責任はもちろん私にあるんだけど。
それでも、ちょっと。どんな職場でもそういうことは有り触れてるんだろうと思うけど。
一人の人間である以上、やりきれないものが、あるわけで。
だから“大人らしく”お酒に逃げてみたんだけど、この人はそれを良しとせず、『自分に逃げろ』と言う。

ハチミツよりも、砂糖菓子よりも、もっと甘い、あまい誘惑。
言うまでもなく効果は抜群だ。

――それでもまだ、私が頷けないでいるのは、


「ごめんなさい……でも、いやです」


せっかく自分の夢だった職場で働いてるんだ。
そんなことで挫けたくはない、そんな気持ちももちろんある。

でも、それ以上に“怖い”


「……いや、です」


今、ここで、私が本当に頷いてしまったら。
インゴさんに逃げてしまったら。
揺りかごに、閉じこもってしまったら。

もしこの先、インゴさんが私を“不要”だと切り捨てたとき――私に、一体何が残っているだろう。

そう、思ってしまう。


(ごめんなさい)


インゴさんを、信じていないわけじゃない。
信じたいとも、思ってる。だけど。

それ以上に私は、自分のことが信じられない。
いつまでもインゴさんに求めてもらえる自信なんてない。

だから

だから、


「――お前は、余計なことを考えすぎなのです」
「……」
「もっと、シンプルに生きなさい。元々デキのいい頭ではないでしょう」
「っ、…っ ふ」
「あれこれ考えることはお前には向きません。思うように、やりたいようにすればいい」
「ぅ…ぇっ、」



「バカみたいに、ワタクシを信じていればいいのです」



「〜〜〜っ、イン ゴ、さ、」


ずるい、ひと。
こんな時にかぎって、とびきりやさしいキス。
溢れだした涙を拭う指先まで胸にじんわりあったかくて、もう完全に、堰が切れてしまった。

かなしいのも、くやしいのも、うれしいのも、いとしいのも、せつないのも、ぜんぶこちゃまぜ。
正直なんでこんなに泣けてくるのかもわからない。
ううん。そもそも私は、こうして彼に縋って、ただ泣きじゃくりたいだけだったのかもしれない。
そんなみっともない私を、インゴさんはこの上なく大切そうに抱きしめて、嗚咽でぶれる頭に頬を寄せる。
だれよりもずるいひと。

私のちっぽけな矜持や虚勢なんて今に跡形もなく打ち砕いて、「さぁ、これでどうですか」なんて、意地悪く笑ってみせるんだろう。

(やりかねない、なぁ、)

インゴさんなら、きっと。
こっちの気も知らないで、強引に。狡猾に。
――あざやかに。

そう思ったら今度はなぜか、不思議と笑えてきた。
だって結局、私はどうしたってこの人には敵わないから。

その日が来たら覚悟を決めて、バカみたいに信じるしかないんだから。


「ナマエ」

蕩けそうな低い声で私を呼ぶその人に促されるまま、



(13.08.22)