ポケモン | ナノ

ナマエが目を覚ますと、目の前に寝息を立てるインゴの姿があった。

「――………ッ!!?」

瞬きと放心の後、飛び跳ねた心臓を契機に脳が覚醒した。
動揺のまま反射的に起き上がろうとした身体はしかし軋んだ悲鳴を上げ、喉からは音になり損ねた掠れ声が抜けていく。
更に起き抜けの身体に感覚が戻ってくると、腰のあたりに留まる鈍い痛みと怠さがどっと押し寄せ、ナマエは声もなくシーツに沈むはめになった。

(〜〜〜この、パターンは……初めて……)

突っ伏したままドキドキと落ち着きを知らない心臓を深呼吸で宥め、視線だけでインゴの様子を窺う。

いつもなら、目が覚めれば独りきりだった。
けれど今回は違う。
衣服はインゴにはぎ取られたまま、直接シーツに擦れる素肌はなんだかベタベタしていて、そして目の前の彼は、あの鋭い瞳を瞼の向こう側に潜め、緩やかに肩を上下させながら寝息を零している。
その姿を見ていると、胸の奥がきゅうと締めつけられたように切なくなった。

(インゴ、さん……)

そっと、眠る彼に手を伸ばす。
彼の顔に垂れた前髪を指先で慎重に避けて――それだけで、鼓動はまた激しくなる。
こうして静かに眠っている彼を見ていると、普通の人間と変わらないように思えた。
相変わらず薄暗い檻の中ではあったけれど、今のナマエの目は暗闇に慣れていて、インゴの美しく整った顔立ちも、綺麗な鼻筋も、切れ長の瞳を縁取る睫毛が落とした影さえも見分けることができる。
こんな風にじっくりと彼を見つめるのはこれが初めてで、ナマエは身体に響かないよう、物音を立てないように息を殺してじわりと上体を起こし、夢中になって彼を見つめた。

(――この、きれいな人が、)

出会ったあの日、ナマエの心を引き裂いて、惹きつけて。
彼の異形の大きな手は、戸惑うことなく憐れな奴隷の命を奪って。

そして同じ掌が、消えない傷を刻んだナマエの腕をいたわるように触れた。

(………インゴさん)

わからない。
こんなにも近くにいる彼のことが。

突き放されたかと思えば引き寄せられ。だけどまた、届かなくて。
それなのに、暗闇の中に煌く抜身の刃のような眼差しはふとした瞬間焦げ付きそうな熱を帯びて、真っ直ぐに自分を捉えている。

まるで雲の切れ間に見え隠れする月明かりのように、掴もうとしても掴み切れない。
インゴの考えが、心の姿が、いつも涙の向こう側でぼやけてしまう。

(私、は――……インゴさん、私は、もっと、)


「Good afternoon!インゴ、ナマエ!」


「ッ――!!?」

背後でカーテンが捲られた音と同時に現れた軽薄ぶった声に、その場の空気が一瞬にして霧散した。
咄嗟にインゴに伸ばしかけていた腕を引っ込め、背筋を硬直させたナマエの視界が唐突に遮られる。
「え、」と短く声を上げると、薄い布越しの背中に大きな掌の感覚。次いで身動ぎの音。
頭からシーツを被せられ、インゴに抱き寄せられている。
そのことに気付いた瞬間、頭の中が真っ白に染るのを感じた。

「昨日はお疲れサマ。具合はどう?」
「お前のおかげで気分は最悪ですが」
「憎まれ口まですっかり本調子!さすがだネ、インゴ!」
「これでもお前の血縁者ですので」

コツコツとエメットの足音が寝台に近づき、ナマエを挟んで軽快でいて棘のある会話が行き交う。
しかしそんな会話も頭に入らないほど、シーツの中でまさしく固まっているナマエを見下ろすエメットがふっと眦を和らげ、わざとらしく咳払いして声色を変えた。

「ホントはネ、夜明けに一度様子を見に来たんだケド――……『お楽しみ中』みたいだったからサ」
「!!!」
「ナマエの愛情たっぷりの看病、効き目はバッチリだったみたいだネ」
「――エメット」
「ヤダな。そんな恐い顔しないでヨ!キミはすぐソコにボクがいるってわかっててわざとイイ声出させてたでショ、インゴ」
「――……」

(う、そ……!!)

エメットの言葉を否定しないインゴに、ナマエの全身が瞬時に茹で上がった。

聞かれていた。エメットに。
寝台の軋む音。汗ばんだ素肌がぶつかる音。
荒くなった呼吸を。泣き声交じりの嬌声を。

記憶が曖昧な分、自分どんな声を上げていたのか、何を口走ったのか見当もつかず、恥ずかしさのあまり涙まで込み上げてくる。
いっそ今すぐこの場から消えてしまえればと、思い切り悲鳴を上げて叫びたいのを懸命に堪えて身を縮めているナマエの姿が目に見えるようで、つい小さく噴き出してしまったエメットをインゴが鋭く睨んだ。

「――それで、用件は」
「ン?……ああ、ソウソウ。いつも通りナマエの回収だヨ。またまともに動けそうにないほどがっついてたみたいだから――ほらナマエ、おい で、?」

ぐい。
エメットの声が不自然に途切れたかと思うと、ナマエの身体は彼とは反対方向へ――インゴの方へ、彼の胸に更に密着する形で引き寄せられている。
状況が掴めず、ただ疑問符を浮かべるナマエの頭上では奇妙な沈黙が生まれ、しかしそれはエメットのため息によって崩された。

「あのさインゴ、さすがにカワイソウだと思うヨ。キミと違ってナマエは普通のオンナノコなんだから、これ以上は、」
「そんなことはわかっています」
「だったら、」
「――タオルと湯をここに用意しなさい……それと、新しい包帯も」

どうやらインゴは、まだ自分を解放する気はないらしい。
やれやれと言った風に了承の返事をしたエメットの足音が遠退いて行く中、ナマエの心臓はそれよりもずっと早く、強く鼓動を刻んでいた。


* * *


「じっ、自分でできます!大丈夫ですから……っ!」
「大人しくしていなさい。暴れられると手元が狂います」
「なっ、ひゃあ!!?」
「おっと、失礼」

白々しく言うインゴの手は濡らしたタオル越しに裸のナマエの胸を鷲掴みにしている。
途端、植え付けられた夜の記憶がぞくぞくと背筋をかけ昇り、わかりやすく呼吸を乱したナマエに密かな笑みを浮かべ、インゴの手はするりと脇腹へ流れた。
その際、背後の彼が小さく笑ったのが耳に入り、ナマエの頬がカッと熱を持つ。

(なっ、なにこれ!なにこれ!なにこれッ!!)

エメットが用意してくれたぬるま湯を張った盥にタオルを浸し、絞ったそれで身体を拭う。
そこまではナマエにも予想できていた。
だが問題は、それをしているのが自分ではなく、インゴだというこの事態だ。

「ぃ…んご、さん……!」
「……ん?」
「っあ、の…っ、や、やっぱり、自分で……!」
「満足に起き上がることもできないくせに、意地を張るのはよしなさい」

『そうさせたのはあなたじゃないですか!!』
抗議の言葉は心の中で叫んで、寸でのところで飲み込んだ。今この状況で藪蛇は恐い。
唯一素肌を守っていたシーツをはぎ取られ、ナマエは現在、腕の包帯を除いて生まれたままの姿でインゴに背を向けている。
いくら檻の中が暗いと言っても、既に何度も彼の目に晒されていると知っていても、恥ずかしいものは恥ずかしい。――むしろ正気が残っている分、いつもより恥ずかしいかもしれない。
そんな風にふつふつと込み上げる羞恥心に一人葛藤するナマエの小さな背中を、インゴの手がゆっくりと撫でおろした。

「、っ……!」

適度に湿ったタオルは肌に触れればじわりとぬくもりを拡げ、それが離れた後の外気との温度差に思わず身震いしてしまう。自分でやるならまだしも、他人の手なら尚更。
ならばどうか、せめて手早く終わらせてほしいという切実な願いに反して、インゴは気が遠くなりそうなほど丁寧に、たっぷりと時間をかけてナマエを清めた。
おそらく、いつものようにナマエをからかって、反応を見てほくそ笑んでいるのだろう。
彼に背を向けたまま目を閉じていても、それだけはハッキリと確信することができた。

「――腕を」
「ぇ、あ……っ」

胸を庇うために交差させていた腕をやんわりと引き剥がし、インゴの手が再び胸元へ伸びた。
先ほどのようなあからさまな戯れこそないものの、タオル越しの手がくまなく肌を這う感覚に腰がざわめき、息を飲めば無意識に背筋が反ってしまう。
結果、インゴに軽く凭れかかるような体勢になってしまい、不意に感じた彼の高い体温にまたしても心臓が飛び跳ねた。

「〜〜〜ッインゴ、さ、」


「痛みますか」


「……――え?」

一瞬、何のことを言われたのかわからず、首を捻って背後の彼を窺う。
見上げたインゴは静かに一点を見つめていて、その視線の先を辿れば、彼が未だにやわく掴んだままの、包帯に包まれた二の腕があった。

「……え、っと、あの、」

何と答えるべきなのか、すぐには言葉が出ずに口籠る。
そんなナマエに眉をひそめ、包帯の結び目にかけられたインゴの指先が躊躇なくそれを引きちぎった。

「!!ぃ……っぅ!」

インゴの手から離れた包帯が、ナマエの腕を伝ってはらりと滑り落ちる。
その下の、乾いた血で傷口に張り付いていたガーゼまで剥がされるとさすがにピリリと痛みが走った。
傷は既に塞がり始めていたが、それでもやはり直接刺激を与えられれば顔を顰めずにはいられない。
その様子をじっと見つめ、インゴが再び問いかけた。

「……まだ、痛みますか」

その声は、ナマエの知る彼にしては妙に覇気がなく――それどころか、どこか気落ちしているようにさえ聞こえてしまって、ナマエは咄嗟に首を振った。

「平気ですよ!もう塞がりかけちゃってますし、安静にしてれば本当に、全然!」
「――……跡は、残るのでしょうか」
「ぁ……えっと、まぁ、まったく元通りってわけにはいかないみたい、ですけど……」

彼も少なからず罪の意識を感じているのだろうか。
言葉を選ぶナマエに耳を傾けながらも、インゴは傷口から目を離さない。
白い肌に走った鋭い爪跡を食い入るように見つめ、やがて彼は静かに背を丸めた。

「え――ゃ、あっ!?」

ビクリ。ナマエの身体が大きく飛び跳ねる。
俯いたインゴの伸ばされた舌が、乾いた血の残る傷口の上を這っていた。

「イン、ゴ、さん……っい!」

濡れた舌が密やかな水音を立て、変色した血液をぬるりと舐めとる。
じんじんと疼くような痛みが傷口から沁みだしてくるようで、逃れようと身を捩ったものの腕を掴み腹部に回ったインゴの手によって押さえ込まれてしまう。

『大人しくなさい』

無言のまま、視線だけ上げたインゴの瞳が語りかける。
その眼差しに抗うことができず、小さく息を飲んだナマエが震える瞼を伏せれば、まるで褒美だとでも言うように、傷口から僅かに離れた二の腕の内側を甘く吸われた。


(――インゴさんが、わからない……)


傷を癒そうとする獣のように、ひたすらにナマエの傷跡に舌を這わせるインゴの姿に眩暈がする。

彼は、本当に彼が言うように血に飢えた残忍な生き物なのだろうか。
だとしたら、なぜ自分にこんなことをするのだろう。
優しいふりをして、戸惑う自分を見てまた嘲笑っているのだろうか。

『愛している』なんて、そんな嘘までついて。

「………インゴ、さん」
「ん?」
「ひとつだけ、お願いがあるんです」

新しいガーゼを当て、インゴの手で不器用に巻かれた包帯の結び目を指先で撫でながら、ナマエは消え入りそうな声で囁いた。



「――嘘は、つかないで、ください」



「………」
「ぁ、『愛してる』なんて…簡単に言っちゃ、ダメです……思ってもいないのに、そんなこと、」
「………」
「私にだってそれくらいは……わかるんですから、ね」

自分で言っておきながらまたバカみたいに傷ついているのを自覚して、鼻の奥がツンとした。
それでも言いたいことを伝えられた安堵感だけはあって、少しだけ呼吸が楽になる。
そんな咲月の背後でインゴが鋭く舌打ちする音が聞こえた。



「――何も、わかってなどいないではありませんか」



「 ぇ、?」

ボソリと呟かれた言葉に振り返り、インゴを仰ぐ。
が、直前でふいと逸らされた彼の瞳と視線が交わることはない。
返事を求めていくら見つめても頑なに目を合わせようとしない。
その姿は拗ねた子供に似ていて、彼のそんな態度に呆気にとられた後、ナマエはついに声を上げて笑ってしまった。

「……ねぇ、だったらインゴさん。これからたくさん教えてください」


「あなたのこと。あなたの好きなもの、嫌いなもの――なんでも良いんです。インゴさんの考えてること、インゴさんが感じること、私に教えてください」


未だに腹部に回ったままだったインゴの掌に自分の手を重ね、ナマエは偽りのない笑顔で、初めてインゴと向かい合った。


「こんにちは、インゴさん。私の名前はナマエです。これからよろしくお願いします」





(13.07.07)