「あっ、あの…ぁの、えっと…の、ノボリ、さん」 泣きそうな声でわたくしを呼び、こわごわ振り向いたナマエ様の瞳はやはり潤んでおりました。 ひどく焦ったご様子で、あわあわと何度も何かを言いかけては言葉が定まらずに視線を泳がせる。 ともすれば今にも泣き出してしまいそうなほどに追いつめられた顔をなさるその理由がわからず、「ナマエ様?」とお名前を呼べば、薄い肩がピクリと跳ねて、ギュッと目を閉じたナマエ様は私に向かって勢いよく頭を下げました。 「ごめんなさいっっ!!」 「……は、?」 あまりに大きな声で――あまりに必死な声で、ナマエ様が言うものですから、わたくしはその一言を発するのがやっとでした。 しかしそんなわたくしの反応を悪い風に捉えてしまったのか、ナマエ様はまた怯えたように肩を震わせて、顔をあげようとなさいません。 「っ、ごめんなさい、私…!あの後ライブキャスター、落としちゃって…!その時壊れちゃったみたいなんですけど、今まで全然、気づかなくて……!それでっ…ノボリさんが、連絡くれなかったんだって、思ってて…!」 「――!!」 「だから今日も、バトルサブウェイに行く勇気が、なくて…っ!だけど私、ほんとは――!!」 言葉を途中で飲み込んで、ナマエ様は慌てて自分の口を塞ぎました。 そのお顔が――耳が、可愛らしい寝間着から覗く首筋までもが、赤い。 戸惑った様子で眉を顰め、潤んだ瞳を所在なさげに彷徨わせる姿に、思わずゴクリと喉が鳴りました。 良かった。 避けられていたわけでは――拒絶されたわけでは、なかった。 この一週間わたくしをがんじがらめにしていた糸の一つがほどけていくのを感じて、ようやく呼吸が、楽になる。 それと同時に、わたくしの誤解を解こうと懸命に言葉を重ねるナマエ様を見て、胸が躍るようでした。 なぜなら今のナマエ様は、まるでわたくしに『嫌わないでくれ』と懇願しているように思えたのです。 「――『ほんとは』、なんですか?」 一歩、足を進めれば弾かれたように上げられた顔。 涙を湛えた瞳がわたくしを映して、また伏せられる。 ――ああ。ダメです。いけません。 そんな顔は、男に期待しかもたらさないのだと、目の前の純粋なこの方は知りもしないのでしょう。 ですがわたくしは、実に愚直な男なのでございます。 あなたへの愛しさに目の眩んだ、憐れな男と覚えてください。 「の、ぼりさ…っ」 「はい?」 背後に机、正面にわたくし。 挟まれたナマエ様が逃げ場を失い、助けを求めるようなか細い声でわたくしを呼ぶ。 しかしその声はやはり、わたくしを悦ばせることにしかなりません。 両手をナマエ様の後ろにある机について、背を屈めながら顔を覗きこめば、ナマエ様は耐えかねたように声にならない悲鳴を上げてわたくしから顔を逸らしました。 「ノボリさんっ、ち…近い、です…っ!」 「ええ。失礼ながらナマエ様のお声が小さいので、近づかなければ聞き取れないのでございます」 「っ…!」 「――それで?『ほんとは』の、続きは…?」 消え入りそうな声に耳を傾けるふりをして、更に顔を近づける。 鼻と鼻が触れ合いそうな――吐息が触れ合ってしまいそうな距離に、腕の中にあるナマエ様の身体が強張ったのがわかります。 その怯えと羞恥に揺れる姿に胸を掻き乱され、今にも目の前のいたいけな少女に喰らいつきそうになる己を抑えることに、わたくしもまた密かに必死でございました。 ――だと言うのに、あろうことかナマエ様は、 「ほん、と…は……っ、ノボリさんに、会いた、かった…です……っ」 小さく震える指先で私のコートをいじらしく握って、そんなことを仰いました。 その言葉に、今度こそ心臓がドクリと張り裂けそうに脈打ち、視線は自然と、ナマエ様の唇へ。 甘く痺れるような言葉を紡ぎだしたその柔らかそうな果実へ、釘付けになりました。 (奪い、たい) 今、この場で。 この唇を、吐息を――全てを、奪ってしまいたい。 ナマエ様の全てを、わたくしだけのものにしてしまいたい。 まるで頭を鈍器で殴られたような、心臓を素手で握り締められたような、こんなにも強烈でひたむきな欲望を抱いたのは、これが初めてでした。 一瞬、その餓えた獣のように凶暴な渇望に飲み込まれかけ、握り締めた掌の中で白い手袋が乾いた音を立てる。 しかしその瞬間、わたくしの脳裏に浮かんだのは、双子の弟の、あの微笑でした。 『会いに行ってきなよ』 ナマエ様に連絡がつかず、バトルサブウェイに来られるご様子もなく、ただ暗い地下の底で待つことしか出来なかった私の背を文字通り蹴飛ばして、微笑んだあの顔。 いつもとまったく同じ。 ――けれど、わたくしにはわかってしまいました。 その微笑が、いびつに歪んだニセモノであることが。 (クダリは、やはり――) 「――……」 「ノボリ、さん…?」 ゆっくりと、ナマエ様を追いつめていた身体を離し、もう一度そのお顔を見つめる。 そうすると、目尻まで赤らめながらも私を窺う瞳に自然と目元が和らいでしまった。 (…ダメ、ですね。どうしても、) わたくしはどうしても、この方を諦めることなんてできやしない。 「わたくしも……ナマエ様、わたくしも、あなた様にお会いしたかった」 一言一言、確かにあなた様に届くように。 胸の奥にあるそのお心に、わたくしの言葉が響くように。 祈りながら言葉を紡いで、やわらかな頬を両手で包み込んだ。 「ナマエ様の身に何かあったのやもと心配する傍ら、もしや嫌われてしまったのではないかと思うと、気が気ではございませんでした」 「そ、んな――!そんなわけ、ないです!!そんなことがあるわけっ、」 「『ない』と、言い切ってくださいますか?」 「はいっ!絶対、絶対です!!」 わかっていらっしゃいますか?ナマエ様。 あなた様は今、言質を取られたのでございますよ。 (これは確実に、気づいていらっしゃいませんが) 全く、どこまでもどこまでも可愛らしいお人でいらっしゃる。 小さな両手を握り締めて力説する姿に気を抜けば笑みを零してしまいそうになるのを堪えて、わたくしはいつものようにと努めて自らの口角を下げました。 そしてできる限り、素っ気無い声で。 「――ところでナマエ様、わたくし実は、少々腹を立てているのです」 「っえ?」 唐突なわたくしの言葉にナマエ様の顔色が変わる。 ありありと不安の滲んだ声を上げて、わたくしを見上げる困惑した瞳からわざと視線を逸らせばナマエ様が目に見えてショックを受けていらっしゃるのが横目に窺えました。その縋るような眼差し、効果は抜群でございますが、今はわたくし、負けません。 「先日お渡ししたミュージカルのチケット、有効期限が本日まででございました」 「っ?!ぇ、あ…っうそ…!ご、ごめんなさい…!!」 「えぇ。ですのでその埋め合わせとして、明日一日、わたくしに付き合って頂きたいのです」 それで良いのならと、ナマエ様は一も二もなくコクコクと首を縦に振って頷く。 そんな姿につい――悪戯心が刺激されて、わたくしはおそらく、堪えきれずに微笑ってしまっていたことでしょう。 「――それからもう一つ。目を、閉じてくださいまし」 「?は、い……?」 従順に目を閉じて、僅かに首を傾げる仕草。 それだけでまた心臓が早鐘を打って、喉の渇きを覚える。 純粋な信頼か、無垢さゆえの無防備なのか、はたまた異性として意識されていないのか。 最後の一つだけは遠慮したいと苦笑いを噛み殺し、恐がらせないようにそっと触れた肩を引き寄せて――未だ赤みを残す熟れた頬に、優しく唇を押し付けた。 「……これで、『おあいこ』でございます」 「ぇ――っえ?ぃ、いま…!!」 わたくしが離れた瞬間、パッと目を開けて絶句したナマエ様が、わたくしの唇が触れたその場所を掌で押さえて背中を仰け反らせた。 その反応を見る限り、自分が何をされたかというのは、きちんとわかっていらっしゃるのでしょう。 ――これで少しでも、わたくしを異性として意識してくだされば万々歳なのですが。 「それでは、遅くまで失礼いたしました。明日は13時にお迎えに上がりますので、今夜はゆっくりお休みくださいまし」 『良い夢を』 名残を惜しむ手で最後にナマエ様の髪を撫で、踵を返す。 ドアを閉めて、階段を降りる最中、緩みきった頬を元に戻すのに苦労いたしました。 さて、未来の母上となるご母堂にご挨拶をしたら、急いで家に戻りましょうか。 色々な意味で悶々としているはずの、わたくしの大切な弟と、今夜は久々に腹を割って話をすることになりそうです。 (11.11.26)
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