「――さま……っ、ナマエ様……!!」
誰だろう。 聞きなれない声が、必死に私を呼んでいた。
「ッ……?」
起き上がろうとして、それができないことに気が付く。 身体が重い。と言うか、痛い。 意識した途端に全身、どこもかしこもズキズキ痛んで声にならない呻きを上げる。 そんな私の背中に誰かの腕が回されて、上半身がゆっくりと起こされた。
(誰……?)
逆光で、その人の顔がよく見えない。 だけど男の人だとは思う。声が低いし、私を支える腕が全然ぶれない。
「ナマエ様……っ」
また、私を呼ぶ。その声がなんだか今にも泣き出しそうに震えてて、気づけば彼に腕を伸ばしていた。
「ノボ リ、くん……?」
あ れ。どうして。 どうして今、ノボリ君だと、思ったんだろう。
(違うのに――だって、ノボリ君、は……)
そう、私の知ってるノボリ君は――――
「はじめまして、わたくし、ノボリともうします」
小さくてふっくりとした手の指先まで揃えて、現れた少年はぎこちない言葉づかいに今にも舌を噛みそうになりながら綺麗なお辞儀をした。
(――嘘だ)
嘘だと言ってください神様。 まさか、そんな。 こんな、まだ私のお腹くらいまでの身長しかないこの男の子が、
(この子が、私のお見合い相手……?)
「ッ……!!」
何かの間違いじゃないだろうか。 そうだと言ってもらいたくて咄嗟に見上げたお父様には目が合う前にさっと顔を背けられた。 反対側にいるお母様に至っては曖昧に微笑むだけ。 つまり知らなかったのは私だけ、ということらしい。
「では、いつまでも立ったままというのもなんですので……」
私がショックで固まっている間に勝手に私の紹介を終えたらしいお父様の一言をきっかけに、みんなが真っ白なクロスに覆われたテーブルにつく。 もちろん、私の目の前にいるノボリ君だけは身長が足りないのでお子様用の特別イスだった。しにたい。
(まさか、こんなことになるなんて……)
自分に振られる話題にうわの空で適当な相槌を打ちながら、視線だけでノボリ君を窺う。 小さな彼は俯いて表情がよくわからなかったけど、やっぱり居心地は悪そうだ。 私だってそうなんだから、やっとスクールに通えそうなくらいのこの子にしてみれば相当なストレスだろう。 本当にもう、大人って何を考えてるんだ。
「――そうだ、二人で庭でも散歩してきたらどうかな?」
私がふつふつと腹の中に込み上げる憤りと戦っている間に話に区切りをつけたらしいお父様が、そう言って私とノボリ君を外に追いやった。なんだ、私たちに聞かれちゃまずいような話でもしようってのか。
ガラスの向こう側でまた話を続ける大人たちを睨みつけながら、無言のノボリ君と庭を歩く。 昔観光に行ったエンジュシティを彷彿とさせる、ワビとかサビだとかが効いてそうな、立派なお庭だった。 その苔の蒸した石でできた道を、慣れないヒールに足を取られないよう注意しながら、一歩、一歩。 ………ダメだ。息が詰まる。 ここはお姉さんの私が、どうにかしないと。
「――あ、あのね、ノボリ君?」 「ッ、はい!」
名前を呼んだ途端、私のちょっと後ろを歩くノボリ君の肩があからさまにぴゃっと跳ねた。 もう勘弁してほしい。これじゃなんか、私が悪者になったような気分だ。
「えーっと……その、大丈夫。うん。大丈夫だから、あの……君は、婚約とか、そういうの気にしなくていいよ」 「………きにしなくていい、とは?」 「だから……えっと、そう。私がちゃんと言っとくから。『この話はなかったことにしてください』って」
子猫みたいにビクビクしてるノボリ君をどうにか安心させようと、引き攣りそうな頬を隠して微笑んでみせる。 だけど、当のノボリ君は私のその言葉にピタリと足を止め、また俯いてしまう。
「ノボリ君?」
私も立ち止まって、しゃがみこんでノボリ君と視線を合わせる。 小さな手は上等そうなズボンの端をぎゅっと掴み、俯いたその顔は思いつめたように、大きな瞳にいっぱいの涙を堪えていた。
「――で、もっ……わたくしがダメなら、こんどは、おとうとが……っ」
(やめてやめてそういうのもうホントやめて!!!)
思わず心の中で盛大に悲鳴を上げて、頭を抱えた。
私だってまだ18歳。こんな歳でお見合いなんてしたくない。 それでも私の生まれた家は、まぁ有り体に言えばお金持ちで。 今ライモンシティを走っている地下鉄の枠組みを作ったのは、私のお爺様だ。 そのお爺様直々に、18歳を迎えたその日、『見合いをしろ』と言われた。 思えば『恋人の一人くらいできたか?』なんて聞かれた時に、バカ正直に『いいえ』なんて、へらへら笑って答えたのがまずかったのだろう。
私は自分の軽率さと運命とやらを呪った。 一丁前に悲劇のヒロインのつもりだった。 事実、昨日の夜は、『きっと自分は野心まみれの脂ぎったオヤジと愛のない結婚させられるのだ』と、ベッドの中でさめざめ泣いたものである。
――しかし現実はどうだ。
18歳の私と、どう見積もってまだ10歳にも満たないノボリ君。 しかもあちらは、彼だけでなく弟の命運までかかっているらしい。
悲劇のヒロインは私ではなく、この子の方だった。
「っひ…っく、」 「!!の、ノボリ君!?」 「ごっ、ごめん、なさっ…ごめんなさ……っ」
どどどどうしよう。 なんかノボリ君、泣きだしてしまった。 弟のことを打ち明けて、そこで一気に緊張の糸が切れてしまったのかもしれない。 真っ赤になったノボリ君のまるい頬を、透明な涙の粒がぽろぽろ零れていく。
その光景に私は完全にテンパってしまって、誰かに助けを求めようとあわあわとあたりを見回したものの、この場に私たち以外の人がいるはずもなく。 ポケットの中に入っているハンカチに気が付いたのはノボリ君の嗚咽が収まってきた頃だった。
「ナマエさま、ごめんなさい…っ、あの、ハンカチ……あらって、」 「いいのいいの!こんなの気にしないで」
赤ちゃんみたいにきめの細かい肌を傷つけてしまわないよう、優しくハンカチを押し当てて濡れた頬を拭うと、少し落ち着いてきたノボリ君が恥ずかしそうに項垂れる。 ちっちゃくても男の子。泣き顔を見られるのはやっぱり恥ずかしかったのかな。 なんとなく微笑ましく思いながらハンカチを畳みなおしてポケットにしまう。 ――さて、そろそろ大人たちのところに帰る頃合いだろうか。
「もどろっか、ノボリ君」
言葉と同時、自然と手を差し出していた。 ゲンガーみたいに赤い目をしたノボリ君が、きょとんとして私の手を見つめる。 その視線に初めて自分の行動に気が付かされたわけだけど、今更引くというわけにもいかない。
あ、どうしよう。
そう思った時には、小さな手がおずおずと私の掌に重なっていた。
「ノボリ君の弟って、どんな子?」 「……おとうとは、クダリ、といいます。わたくしと、ふたごです」 「へぇそうなんだ!じゃあ二人はそっくりなの?」 「……おかおは、にています。でも、わたくしとクダリは、ぜんぜん、ちがうのです」
来た道を引き返す道すがら、ノボリ君が話してくれそうな話題を探したつもりが、私はまたしても地雷を踏んでしまったらしい。 幼く見えてもノボリ君の年頃なら既に自我が芽生え始めている。 私の言葉はそんな彼にとって、デリカシーに欠いていたかもしれない。
「……そっか。そうだよね」 「はい。だって、クダリはいつも、にこにこしています。あかるくて、かっぱつです。そして、だれにでもやさしい、いいこです」 「ノボリ君は違うの?」 「………わたくしは、ちがいます。しらないひとは、にがてです。いつもにこにこは、できません。おにいちゃんなのに、クダリにたすけられることが、たくさんあります」
「――だから、こんどは、わたくしが、」
小さくて、大きな決意を秘めたその一言。 繋いだ私の手を握る力は、ハッとするほど強い。
「ナマエさま、どうかわたくしと……けっこんすると、やくそくしてくださいまし」
まさか。まさか。 こんな小さな子に、こんな思いつめた顔でプロポーズされるとは、思わなかった。 人生って本当、わからない。
だけど、
「……ノボリ君は、クダリ君が大好きなんだね」 「っえ……?」
プロポーズの返事としては不適当なそれにノボリ君が目をぱちくりさせる。 そんな年齢相応な様子が可愛い。 そう。別に私にそういう趣味があるわけじゃないけど、ノボリ君は素直に可愛いと思う。 きっとあと10年もすれば相当なイケメン君になるだろう。 それもまた良いかもしれない。のんびりノボリ君の成長を待って、そこそこの年齢で結婚して。 人生安泰。万々歳。
――だけど正直なところ、私は苛立っていた。
確かに弟を守ろうというノボリ君の決意は尊い。頭が下がる。 でもなんだ。 そのために自分を“犠牲にして”私と結婚すると言うのなら、本当に私が悪役みたいじゃないか。 そんなの冗談じゃない。私だって好きでお見合いしてるわけじゃないんだから。
「……じゃあさ、ノボリ君。こうしようよ」
とりあえず、この場はそれぞれにとって都合が良いように話を進めよう。 つまり『結婚を前提にお付き合いを始める』、という方向で。 法律的に考えて、今すぐに私とノボリ君が結婚するなんてことはありえない。 いくら私の話を聞いてくれない大人たちでも、ノボリ君が結婚できる年齢になるまでは静観するしかないだろう。 つまり、今頷いておけば私とノボリ君はおよそ10年の執行猶予を手に入れることができるのだ。
(まぁ、ノボリ君を断って次に本当に適齢期のおじさんをあてがわれでもしたら、今度こそ私の方が言いくるめられちゃうかもしれないし……)
それを考えればこれが最善の策だと思えてくる。 なんてったって10年は長い。 その間にもっといい策が出てくるかもしれないし、もしかしたらどちらかに大切な人ができるかもしれない。 もしもそうなったら、潔く身を引くこと。 私たちはその約束だけしておけばいい。
「……だからね、ノボリ君は本当に気にしなくていいよ。先は長いんだから、それまでにはどうにかしてあげる」 「………ですが、」 「だーいじょうぶ!最悪ね、私がバシッと言ってあげるから。『やっぱり嫌です』って」
言える言える。……うん。大丈夫。言える。多分、10年後の私なら。……多分。 とにかく今は従順なフリをして、お互いにこれ以上の被害を防ぐ。それに限る。
「ところでノボリ君、今いくつ?」 「えと……むっつ、です」 「そっか。じゃあやっぱり、ちょうど10年くらいかぁ」 「……じゅう、ねん、」
ぽつりと呟いたノボリ君が、繋いだ手にきゅっと力を込める。
「………それまでに、がんばります」
不意に私を真っ直ぐ見上げて、はっきりそう言ったノボリ君の頬が溶けちゃいそうに赤かったから ――私はなぜか、急いで目を逸らしていた。
(13.05.04)
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