ポケモン | ナノ



日が沈み、月が空の真上に浮かぶ頃。
身の内を焼き尽くすような高熱に魘され、意識は朦朧としていた。
果たして自分が目を閉じているのか、開いているのかさえ定かではない。
目の前を、古ぼけ色褪せたいくつもの映像が通り過ぎてゆく。

熱い。喉が、息を吸うごとに掻き毟られるように痛む。
全身が鉛のように重く、反響する鼓動の一つ一つが肺を圧迫した。
呼吸さえ苦痛で、いっそ意識を手離してしまうことができれば楽だろうに、卑しい本能がそれを許さない。
――今、目を閉じてしまえば、そのまま目覚めることができない気がして。
底なしの沼に沈んでいく気がして。

幼い頃から、独り息を殺して過ごすこの永い夜だけが、ワタクシは、



『 インゴさん 』



止めどない思考の濁流の中、聞き覚えのある声がした。
額に張り付いた前髪を指先が避け、ヒヤリと冷たい布が汗の伝った頬を拭う。
その心地良さに詰めていた息を吐き出すと、重石に潰されたようだった胸が僅かに軽くなった。

『 インゴさん 』

声が、何度もワタクシを呼ぶ。
その声に縋るように、濁流の中、もがきながら伸ばした手をしっかりと握り返す感触。

『 インゴさん 』

冷えた、小さな掌だった。
簡単に壊れてしまいそうなほどやわらかなそれが、懸命にワタクシの手を包み込むのがわかる。
――その持ち主を、ワタクシは既に知っていた。


「   」


彼女を呼ぶ。声はもはや、自分でも聞き取ることのできない掠れた息遣いにしかならない。
それでも力を籠めて瞼を押し上げた細い視界の中。
捉えた彼女が泣き出しそうに微笑むものだから、

不思議なほどに凪いだ細波の中へ、必死に手繰り寄せていた意識を綱を手放すのも、もう


恐ろしくは なかった。





* * *




インゴに意識が戻ったのはまだテントの外の鳥も眠っている夜明け前のことだった。
散々汗を掻いてべた付く肌に触れる湿ったシーツが不快で、まだ怠さの残る身体をゆっくりと起こす。
その時、自らの左手にある違和感に気が付いたインゴはその正体を知って目を見開いた。

「――………」

微かな寝息を立てるナマエが、胸から上だけを寝台に乗せた状態で眠っている。
その小さな両手が、インゴの手を緩く握っていた。

(まさか、一晩中……?)

いつ取りに行ったのか、彼女の足元には水の張った盥とタオルがある。
それが引き金となり、眠りに落ちる前の曖昧な記憶が一息に流れ込む。

頬に、首筋に触れた冷たい布の心地良さ。
インゴの大きな手を包んだやわらかな掌。
繰り返しインゴを呼ぶ、不思議に優しい声。

瞳いっぱいに溢れそうな涙を溜めた、あの微笑み。


「………」


彼女を包む静寂を壊さないよう、インゴは無言のまま自らの左手を引いた。
最後に指先同士が掠めた瞬間、手の中のぬくもりを失ったナマエの白い指が微かに跳ねる。
「ん、」と小さな声を漏らした彼女が、空っぽになった掌をきゅっと握りしめてまた寝息を零す。
その光景にインゴは自然と眉を顰め、彼女の寝顔を凝視していた。

(この小娘は、どこまで……)

あれだけ辱められ、痛めつけられ、命の危機を感じなかったはずはない。
だと言うのに、どうしてこうも無防備に獣の檻で眠れるのか。
目が覚めた自分に、今度こそ息の根を止められるとは思わないのか。


『っ……嫌なら、今度こそ殺せばいい。だけど私は……ッ』





『 インゴ、さん……大丈夫、わたし、は、 』





昨日のナマエの言葉が、初めて彼女を犯したあの日の姿と重なる。

エメットの焚いた薬香のせいで朦朧としていたナマエがその先の言葉を覚えている様子はなかった。
インゴも、はなからそれを信じるつもりはなかった。
追い詰められた無力な娘が、自分を守るために咄嗟に発した戯言だと鼻で笑った。

――それでも、ナマエは恐怖に震え、怯えながらも、インゴの檻を自分で開けた。
傷つきながら、泣きながら、インゴに手を伸ばすことをやめなかった。

『傍にいたい』と、そう言った。


「……――」


細い腕に巻かれた白い包帯に、乾いた血の色が浮いている。
開いた傷口の手当てもせず、ナマエは一晩中この檻の中にいたのだろう。
音を立てず静かに伸ばした手で包帯の縁をなぞり、インゴが緩く目を細める。

そこには確かに、狂気とは違う穏やかな灯が、微かに息衝いていた。

(……愚かな、小娘)

夜の空気に触れて冷え切った小さな身体を抱き上げ、汗に濡れていない寝台の端に横たえる。
また僅かな声を漏らし、ぬくもりを求めるように背を丸めたナマエを手繰り寄せた毛布で包み、その呼吸が落ち着いたのを見計らってインゴは寝台を抜け出した。

日光にあたらずとも、インゴの体内時計は正確だ。
夜が明け、サーカスの面々が起きだすまでにはまだ余裕がある。
その間に沐浴を済ませてしまおうと、首筋に張り付く髪をかき上げながら、ふと寝台を振り向いた。


「――……せめて、良い夢を」


獣の檻に一人、眠り続けるあどけない少女の姿に堪えきれない笑みを零し、今度こそ背を向ける。
目覚めた彼女は果たしてどんな反応を見せてくれるのだろう。
想像して、インゴの長い尾がゆったりと揺れた。




(13.04.28)