ポケモン | ナノ


あの日から数日。次の街に到着し、公演を間近に控えたサーカスのざわめきを聴きながらナマエはポケモン達のテントへ向かっていた。

「無理はしなくていいのさ。まだ怪我も治っていないんだから」
「これくらい平気です!もう痛みもほとんどないですし」

ポケモン達の食事が入った木箱を抱えるナマエを、ラムセスが気遣わしげな目で窺う。
そんな彼に心配をかけまいと、ナマエは殊更に明るく、元気に振る舞ってみせた。

実際、傷も塞がり始めているし薬が効いているため、日常動作をする分にはほとんど痛みは感じない。
――インゴのいるテントが視界に入るたびに感じる、胸の軋み以外は。

「……――」

怪我のせいで意識が朦朧としていたのか、ナマエはあの後のことをはっきりと覚えてはいない。
ただ、檻を出たナマエはエメットの呼んだ医者によって怪我の手当をされ、一晩寝込んでいたらしい。
医者の話によると傷口は塞がりはするが、傷跡は残ってしまうようだ。
それを聞いた時はさすがのエメットも苦々しい顔をしていた。


『――わかった。それなら、キミには暫くポケモン達の世話をしてもらおうカナ』


インゴの檻の中で何があったのか、手当を終えたナマエの口からそれを聞きだしたエメットは、ナマエを猛獣使いではなく、ポケモン使いとして雇うことを決めた。

『インゴのことはもう気にしなくてイイ。帰りたいなら、資金が溜まりシダイ出て行ってくれてもいいヨ』

そう言って笑ったエメットに、あの日見た狂気の影は無かった。
だから、伸ばされた手がナマエの頭に触れて、そっと撫でられた時も拒むことはできなかったのだ。


『――……ゴメンネ』


衣擦れの音にさえ掻き消されてしまいそうな、小さな謝罪の言葉。
その時ナマエには、なぜだか彼が泣いているような気がして、顔を上げることができなかった。
道化の仮面で隠していた本来の彼を、見てはいけないと思った。
左腕以上に胸の奥がしくしくと痛んで、目の前が熱く滲んでいた。

(『帰る』、か………)

きっとそれが一番正しい選択なのだろう。
インゴに拒絶された今、ナマエにはもうここに残る理由はない。
エメット言われた通り、故郷へ帰るために必要な金が揃えば出て行けばいい。

全てを忘れて、元の生活へ。

――そう、頭ではわかっているのに。


「ラムセス、今いいカナ」


「!」

背後からラムセスを呼び止めた声にナマエも一緒になって振り向く。
そこにいたエメットは腰に手を当て、珍しく困り顔で肩を竦めていた。

「チョット困ったことになってネ、今日の夜の公演は中止になった」
「ッ――!!」

ドクンと響いた鼓動に、指先が跳ねた。

夜の公演と言えばインゴのショーだ。
それが中止になったと言うことは、彼に何かあったのだろうか。
体中に木霊するように脈打つ心臓が左腕に忘れていた疼痛を呼び覚まし、ナマエは咄嗟に俯いて唇を噛みしめた。

「急なことで悪いケド、街に行って告知をしてきてくれるカイ?」
「わかりました」

エメットの言葉に頷いて、荷物を降ろしたラムセスが早速踵を返して走り去っていく。
その足音が遠退いた時、ラムセスに続いてその場を立ち去ろうとしたエメットの腕を、ナマエは縋るようにして掴んでいた。

「――っ……あ、の…インゴさん、なにか…あったんです、か、」
「………気になる?」
「………」

ぎこちなく、俯いたまま小さく頷いたナマエにエメットが目を細める。

『お人好しだ』と、きっと彼はそう思っているのだろう。
ナマエだってそう思うのだから間違いない。
――それでも、気にならないと言えばそんなの嘘だ。

僅かに震えながらも、まるで『答えるまでは離さない』とばかりにぎゅっと力を込めて腕を掴むナマエの姿を見て、エメットはそっとため息をついた。

「少し、体調が悪くて動けないんダ――って言っても、別に珍しいコトじゃないから心配しなくても平気だヨ」
「!!う、動けないって……!お医者様には……ッ」
「診てもらってもムダ。インゴは普通の“人間”とは違う――それに、言ったでショ。これが初めてってワケじゃないからネ」

人間と猛獣の血が混じったインゴの身体の構造は複雑で、それ故に負荷も大きい。
普段は人間を遙かに凌ぐ身体能力や回復力を見せるインゴだが、エメットの話では幼いころからおよそ一年に一度のペースでその反動が押し寄せ、丸一日身動きも取れず床に臥してしまうのだと言う。

「そういうワケだから、キミも心配しなくて良い。大人しく寝てれば明日にはケロッとしてるヨ」

腕を掴んだままのナマエを促すように軽く肩を叩き、エメットは事もなげにそう言った。
それでも、ナマエの中に芽生えた言葉にしがたい焦燥感が喉の奥に絡みつく。

「だっ、誰か…傍について、あげてるんですか……?」
「――薬も治療法もないんだから手の施しようがナイ。何より、今のインゴは相当機嫌悪いからネ。いくら身動きが取れないって言っても近づかない方がイイ」
「ッ、そんな……!!!」

一瞬、想像してしまった。

あの暗く冷たい檻の中で、一人苦痛に耐えるインゴの姿。
プライドの高い彼のことだ。弱っている姿を人目に晒すことは絶対にしない。
ナマエにもそれくらいはわかる。
どれほど辛くて、苦しくても、彼は誰かに助けを求めたりなどしない。

ひたすらに一人で。

――たったひとりで。


(そんなの……!!)


「っ、わたし、に……行かせてください……!!」

途切れがちに震える声で、それでもしっかりと彼を見据えて言ったその言葉に、エメットが小さく息を飲む。
さすがに驚きの表情を見せて引き止めようとした彼に、ナマエは内心、自分でも驚くほど頑なだった。
何がそこまで自分を駆り立てているのか、正直なところナマエ自身よくわからない。
それでも、『行かなければいけない』、その気持ちだけが痛いほどに胸を占めている。


(……ううん、違う。きっと、そうじゃない)


『行きたい』のだ。彼の、傍に。

そのことに気が付いた時、少しだけ呼吸が楽になったような、そんな気がした。



* * *



「――二度と、顔を見せるなと……言ったはず、ですが、」

地を這うように低い声が檻の奥からあからさまにナマエを脅す。
数日ぶりに見るインゴはエメットの言葉通り寝台から起き上がれないらしく、荒い呼吸を漏らしながら血走った眼でナマエを睨みつけてきた。
その姿は手負いの獣さながらで、彼から発せられる威圧感が、今まで彼によって散々植えつけられた恐怖と相まってナマエの脚を竦ませる。
けれど、小さく喉を鳴らしたナマエは意を決して寝台へ向かい一歩踏み出した。

「……お水を、持ってきました。喉、渇いてませんか?」

声が震えてしまわないよう、ゆっくりと、一言一言。
突き刺さるインゴの苛烈な視線に動じていないフリをして、広い寝台の端にトレーを降ろす。
その途端、空を裂くように鋭く伸びてきた手が包帯に包まれたナマエの左腕を掴んだ。

「ぃ゛……ッ!!」

一度引き寄せ、反動をつけて後方へ放り投げられる。
病人とは思えないその力に包帯の下の傷がじくりと痛み、血が滲む感覚があった。
鉄の床に派手に尻もちをつき、見上げた先のインゴが寝台の上でゆっくりと身体を起こす。
それは今にも獲物にとどめを刺そうと飛びかかろうとする獣を彷彿とさせ、竦み上がった身体が隠しようもなく震えた。


「 出ていけ 」


「ッ――!!」

ゾクリと心臓が縮む。
憎悪にさえ似た敵意と、純粋な拒絶。
息が苦しいほどに実感する。

インゴは、欠片も自分を必要としていない。


「っ、ぁ……――」


それは、なんて、




「ぃ、や……です……ッ」




――なんて、さみしいのだろう。


「あなた、の…言うことなんて、聞きません……!私は、私のしたいことをします……!!」


じくじくと痛みを訴える腕を片手で庇い、震える膝で立ち上がったナマエにインゴが低く唸る。
それでもナマエには、もはや彼の姿が獣と同じものには到底見えなかった。
その眼差しにピクリと肩を揺らし、牙を剥きだしたインゴが短く嗤う。

「……成程、満足に動けない……今が、好機だ、と、?」
「――違います」
「……では、惨めな獣を、笑いに来たのですか」
「違います。インゴさん、私は」

冷たいシーツの上、強張った大きな手に、ナマエは優しく触れた。


「私、は…っ、……あなたの、傍にいたい」


言葉と同時、止める間もなく頬を転がり落ちた熱い雫がインゴの手の甲で小さく跳ねる。
瞬間、ナマエから逃れようとしたそれを咄嗟に強く握りしめ、懇願するように額を寄せた。

知ってほしかった。

インゴに、自分の気持ちを。
彼を恐れる気持ちが全くないわけではない。
それでも、彼を知りたいと思う気持ち。
わかりたいという気持ち。

ただ傍にいたいという願いを、信じてほしかった。


「っ……嫌なら、今度こそ殺せばいい。だけど私は……ッ」



「――煩い」



「ッ……!!」

縋りつくナマエの手を振りほどき、まるで興味を失ったようにインゴの視線がナマエを逸れる。
ナマエの身体からサッと熱が引くのと、インゴがシーツに沈むのはほぼ同時だった。

「……喉が、渇きました」
「………ぇ、?」

唐突なインゴの言葉の意味が理解できず、ぽかんとして彼を見つめ返したナマエの思考回路が徐々に回りだす。
『水がほしい』と、彼はそう言っているのだ。
苛立たしげな舌打ちが聞こえた瞬間、弾かれるようにトレーの上の水差しを取ったナマエの手は恐怖とは正反対の感情でカタカタと震えてしまっていた。

「あっ、あの…どうぞ……!」
「……ん、」

水差しを差し出したナマエの手に自分の手を添えて、喉を鳴らしたインゴが水を飲みくだす。
喉仏が上下する度に水差しの中身はみるみる減って、あっという間に空になってしまった。
その光景がなんだか夢のようで、信じられなくて、ナマエの頬に熱が集まる。

「え、っと……あ!み、水、もう一度もらってきま、」
「――いらない」
「ッ!!」

なんだかそわそわしてしまって落ち着かず、口実を見つけたナマエが一度檻を出ようと寝台に背を向けた。
途端、伸びてきた手に右腕を掴んで引っ張られ、寝台の端に腰が落ちる。
腕を掴んでいた手から力が抜け、するりと落ちたそれがナマエの手の甲に重なった時、ナマエは内心で悲鳴を上げずにはいられなかった。

「ぁ、あ…っ、あの!それじゃ、パンとか…!お、お腹すいてません、か……っ?」
「いらない」
「だっ、だったら……!」


「――ここにいるつもりなら、静かにしていなさい」


ほんの僅かに不機嫌さを滲ませた声色に脅され、ナマエが瞬時に口を噤む。
その姿を横目に捉え、一つ鼻を鳴らしたインゴが長い息を吐きながら寝返りを打ち、寝台が深く沈んだ。
訪れた静寂の中、暗がりに慣れてきた視界にはインゴの大きな背中が薄らと見てとれる。
初めて目にしたそれに、気づけばナマエは手を伸ばしていた。

(あ、……ちょっと、熱い……)

触れた指先が滑らかな体毛に埋まる。
微かに肩を揺らしたインゴだが、振り向く様子はない。
記憶の中のそれよりも幾分か熱を持っているそれを、体毛の流れに沿って、ゆっくり、ゆっくりと撫でる――そうしていると、泣きたいような不思議な感情が胸に込み上げてきた。

無防備な背中に、『ここにいても良い』と、言われたようで
傍にいることを許されたようで

そう思うとまた、鼻の奥がツンと痛んで目の前が揺れた。


「……インゴ、さん、」


返事は期待していない。
独り言で終わって良い。溶けて消えてかまわない。
囁き声を 静かな祈りが包む。

ただ今は、彼の名前を呼びたかった。

何度でも呼びたかった。



(インゴさん、インゴさん、)



やがて眠りに落ちた彼が穏やかに目を覚ます、その時まで。
ずっと彼を呼んでいたいと、思った。




(13.04.21)