その日のサーカスは、次の公演場所への移動のため朝から撤収作業に終われていた。
「ナマエー!次はこっちを手伝ってほしいのさ!」 「はぁい!」
目を覚ましたナマエもラムセスに連れられて作業に加わり、あっちへこっちへ忙しなく駆け回る。 体調は未だに本調子とまではいかなかったけれど、今のナマエにとっては考える暇もなく身体を動かすことができるのはありがたいことだった。
「うん、しょっ……わっ!」 「タジャ!」
雑多な小道具の入った木箱を持ち上げた瞬間、中から零れ落ちたボールに素早くツルが巻きついて、そっと箱に戻される。目を丸くしたナマエがそのツタの先を辿ると、緑色の小さなポケモンが得意げに彼女を見上げていた。
「えっと……?」 「その子はツタージャ、賢くてとっても気が利く子なのさ」 「ツタージャ……そっか。ありがとね、ツタージャ」 「タジャッ!」
お礼を言って微笑みかければツタージャは嬉しそうに一声鳴き、クルリと方向を変えて小走りにどこかへ行ってしまう。 引っ越し作業は彼らポケモンの手も借りるほど大忙しだ。 予定では日が暮れる前には撤収を終え、次の街へ移動を始めるらしい。
「――……次は、どこの街に行くんですか?」 「さぁ。とりあえず南に向かうって話は聞いたのさ。これからじきに寒くなるしね。ちょうど良いのさ」 「南……」
ふと、真白の雪に染まる故郷の風景を思い出し、自然と足が止まった。 ナマエが人狩りに攫われ村を離れてからまだ半月と経っていないはずなのに、色々なことがありすぎて、貧しくも穏やかだったあの日々が遠い昔のことのように感じられる。
(みんな……どうしてるかな……)
夕闇の中、わけもわからぬまま連れ去られ、同じように捕らわれ鎖で繋がれた人間のひしめく荷馬車に押しこめられたナマエは、その後村がどうなったのか知る術もない。 家族や友人が無事なのか、それすらわからない。確かめようがない。 途端に押し寄せた不安が心臓に絡みつき、ナマエの呼吸を重くした。
“帰りたい”
その気持ちがないわけではない。 実際、ナマエが必死の思いで奴隷市場を逃げ出したのは、故郷へ帰りたい一心からだった。 ――けれど、
『キミにはできないヨ』
昨夜のエメットの声が蘇り、視線は自然と、無数の荷馬車の合間に覗くひとつのテントを捉えていた。
ナマエの腕も、脚も、怪我こそしているものの既に自由だ。 鎖のない今、邪魔をするものは何もない。今すぐにだってここを離れて故郷に向かうことはできる。 ――ただしそれは、“心”もまた、身体と同じように自由であったならの話だ。
「ナマエ、何をぐずぐずしているのさ!」 「ッあ、はい!すみません……!」
ぼんやりと思考の海に沈みかけたところをラムセスにせっつかれ、ナマエは慌てて駈け出した。
(そうだ、今は、考えるのはやめよう)
今日はいい天気だ。やわらかくあたたかい日差しを浴びて動いていると、少しずつ気分が軽くなっていく気がする。 今はただ何も考えずその恩恵に縋っていたい。 きっと夜になればまた嫌と言うほど悩む羽目になるのだろうから、せめて昼間くらいは。
――そんなナマエの願いはしかし、僅か数時間後に儚く砕かれることになった。
「……あんなにいい天気だったのに」
テントの裾を捲ると、長く伸びた雨粒が地面を叩きつけるように降り注いでいた。 朝方の気持ちのいい青空は暗雲にすっかり覆い隠され、当然作業はやむなく中止。 ラムセスには部屋で休んでいていいと言われたもののやはり落ち着かず、ふらりと訪れたテントの一つではポケモン達が食事をとっているところだった。
「タジャ!タージャッ!」 「ミィ〜ジュッ!」
なにやら一角が騒がしくなったことに気づき、そちらに目を配ればツタージャとミジュマルが言い争っている。 何事かと駆け寄ってみれば、どうやら自分の分の皿が空になってしまったミジュマルが、ツタージャの皿に手を付けようとしたようだった。
「こら、ミジュマル。ひとのご飯を取っちゃダメだよ」 「ミ〜ジュ〜!!ミジュッ、ミジュゥ!」 「ダーメ!ほら、これあげるからワガママ言わないで」 「ミジュッ!?」
ケンカが始まらないようにとミジュマルを抱き上げ、食べきれずにポケットに入れておいた赤い木の実を差し出しだすとミジュマルの瞳が輝いた。 そのまま椅子に腰かけ、膝の上で嬉しそうに木の実を頬張るミジュマルの頭を撫でてやる。
「おいしい?」 「ジュマー!」
問いかければ満面の笑みが返された。そんなミジュマルに、ナマエの心も癒されていく。
言葉を交わすことはできないけれど、ポケモン達は素直だ。 怒りも、悲しみも、喜びも、包み隠すことなくすべてを感じたままに全身で表現してくれる。 それに比べると、言葉が通じるはずの人間の方が余程厄介だと思ってしまう。
(インゴさんも――オーナーも……あの人たちが考えてることは、私には、)
「アレ?いいもの貰ったネ、ミジュマル」
「!!」
不意に頭上から聞こえた声にナマエの肩が飛び跳ねる。 直後、弾かれたように顔を上げた彼女に、声の主であるエメットはまるで昨夜のことなどなかったかのように、悪びれた様子もなくニコリと笑った。
「ちょっと来てくれるカナ、ナマエ。キミにお願いしたいことがあるんダ」
* * *
「――食事、ですか」 「ウン。これからはキミにお願いしようと思って」
『インゴのところに食事を持って行ってあげてほしい』 そう言って手渡されたトレーの上には、ごく普通の人間が食べるのと同じに見えるパンとスープ、そして調理された肉が用意されていた。メニューもさることながら、その量も成人男性が摂取するものと比べて大差ない。 思わずまじまじと見入ってしまったナマエを、エメットは軽い調子で笑い飛ばした。
「意外?まぁ、昨日のショーを見た後ならなおさらそう感じるかもしれないネ」 「っ!!」
彼の言葉に心臓がギクリと強張る。 事実、ナマエは『インゴの食事』と聞いた時、少し身構えてしまった――つまり、血の滴る生肉でも出されるのではないかと思ったのだ。 しかしその予想が良い意味で裏切られたことに内心ほっとしている。
「じゃあコレ、檻の鍵。また預けておくネ」 「……ッ、あの」 「大丈夫。インゴは人前では食事をしない。だからそれを置いたらすぐ戻ってきていい――モチロン、キミがそうしたいなら、ずっと檻の中にいてくれても構わないケド?」
『インゴの――美しいあの獣の血を引く子供がほしいんだ』
エメットの細めた瞳の中に、昨夜垣間見た淀んだ光が揺れる。 その瞬間に駆け抜けた憤りと嫌悪感に、ナマエは手の中のトレーを強く握りしめて彼を睨んだ。
自分を拾ってくれたエメットに、ナマエは少なからず恩義を感じていた。 彼にはあの場でナマエを奴隷市場につき返すこともできたのだ。 それでもエメットは、『見逃してほしい』と懇願したナマエに手を差し伸べ、行くところがないのなら自分のところに来れば良いと言ってくれた。
それが彼の純粋な善意からの行いでなかったことなど、ここに来たその日に思い知らされた。 けれどナマエは、心のどこかでエメットを恨み切れなかった。 彼が自分をここに連れてきたのは、彼なりに兄を――インゴを思ってのことだと、そう思っていたからだ。
しかしそれさえも自分の思い違いであったのなら――彼の目的が、本当に自分を利用して望みを叶えることだけならば、もはやそんな恩義など抱える必要はない。
「あなたの、思い通りになるつもりはありません……!」
低く、唸るように言って脇を通り抜けたナマエを視線だけで追いかけ、エメットは小さく肩を竦めた。 翳の落ちたその相貌に浮かぶ淡い笑みの意味を、ナマエは知る由もない。
* * *
テントを打つ雨音はいつの間にか少し柔らかくなっていた。 濡れた髪から滴る雫が肩の上で跳ねた微かな感触に震えながら、冷えた手で静かにカーテンを掴む。 暗い檻の奥から、あの煌々とした二つの眼がこちらを見ていた。
「っ……食事、を、持って…きました」
両手で持っていたトレーを片腕に移し、もう一方の手で鍵を取り出す。 返事はなく、けれど突き刺さるように感じるインゴの視線に手元が定まらず、鍵の先が何度か鍵穴を掠めて滑った。 手間取りながらも鉄格子のドアを開けて薄闇の中へ一歩へ踏み込んだナマエは、片隅で覚悟していた血の匂いがないことに内心で胸を撫でおろさずにはいられなかった。
「え、っと……」 「………どこでも構いません。適当に置いておけばいい」 「あっ、はい!」
何かテーブルの代わりになりそうなものはないだろうかと目を凝らして檻の中を見回したナマエに、大きな寝台からの声は呆れたように、投げやりに言った。 本当は床に直に置くことは憚られたが、だからと言って流石に今の彼女に寝台に近づく勇気はない。 迷った末、入口から少し離れた位置にナマエがそっとトレーを降ろすと、インゴが体を起こしたのか、寝台が小さく軋んだ音に心臓が飛び上がった。
「……この期に及んでまだ自分から檻の中に入ってくるとは、お前ほど学習能力のない人間を見るのは初めてです」 「ッ……」 「――用が済んだのなら出て行きなさい」
寝台からゆっくりと立ち上がるインゴの影が見える。 考えるよりも先に、身体は逃げ出そうとしていた。 震えた脚が入口を目指して一歩後退する。同時に、昨晩あの奴隷の男に飛びかかったインゴの姿が脳内に蘇り、咄嗟に強く目を閉じたナマエは掌を思い切り握りしめて自分を奮い立たせた。
「――ッひとつ、教えてください……ッ!」
こちらに向かっていたインゴが立ち止まる気配。 返事こそないもののその沈黙に促され、長く息を吐き出したナマエが再び瞼を押し上げる。 暗がりに浮かび上がる鋭い双眸は、しっかりとナマエを捕えていた。
「昨日の…アレは――あなたの意志でやっていること、ですか……?」
ドクン、ドクン。 檻に入った時から痛いほどに脈打っていた心臓だけが、雨音さえ凌いでナマエの鼓膜に響き渡る。 その時間が妙に長く感じられるほど、ナマエは緊張していた。
「……――もしも『そうではない』と答えたなら?」
淡々と切り返した声に、ナマエは息を飲んで彼を凝視した。
心臓のリズムが、音が変わる。 黒い雲の向こうから一筋の光明が差したように、胸の中のわだかまりが照らされていく。 高まった鼓動に背を押された気がして、震える掌を胸に抱きしめたナマエは身を乗り出して声を張り上げた。
「だったらッ!わ、私と一緒に、ここから逃げましょう……!!」
正直なところ、それは勢い混じりな、今この場で初めて思いついた無計画な言葉だった。 けれどその瞬間、ナマエの胸は不思議なほどに晴れ渡り、彼女にはそれが最善策だと思えた。
このままあのオーナーに利用され、彼の思い通りになんてなりたくない。 けれど、心ごと檻に閉じ籠っているインゴを残して逃げ出すことはできない。 だとしたら、彼と一緒にここを出るしかない――そう思ったのだ。
「大丈夫……っ、きっと大丈夫です!あなたが安心して暮らせる場所を、私も一緒に探します!!だから、ッ」 「――ハッ!!」
しかし、ナマエの言葉を遮ったのは、蔑みに濡れた冷たい嗤い声だった。
「全く……何を言いだすかと思えば、お前は本当にものわかりの悪い人間ですね」 「ッ、な……!」 「お前もあの場で観たでしょう。お前にはアレが、ワタクシが自分の意志に関わりなく、強制され、心に反して行っている悲劇にでも見えたのですか」
いつの間にか目の前まで迫っていたインゴが、戦慄くナマエの手を恭しく掬い上げた。 凍りついたように動けないナマエに見せつけるように視線を合わせたままその甲に唇を寄せ、弓形に歪んだ唇の向こうから赤い舌が覗く。 インゴの手はそのまま彼女の細い手首を掴み、長い舌は皮膚の下に浮き出た血の管をねっとりと辿った。
「……言ったハズです――ワタクシは、お前たち人間とは違う」
「血と肉を求める“獣”の血が、流れているのですから」
「ッ――!!」
口を開けたインゴの鋭い牙が皮膚にやわく突き立てられる。 きっと、彼ならば容易く、骨ごとこの手首を噛み砕いてしまえるのだろう。 それが脅しではなく、紛れもない真実であるということを、ナマエは既に知っていた。
それでも、今ナマエの瞳に浮かぶ涙がただの恐怖から来るそれだけではないということも、彼女にはわかっていた。
「ち が、ぃま、せん……っ」 「………今、なんと、」
絞り出したナマエの震える声に、インゴが眉根を寄せる。 今まさに獲物に飛びかかろうとしている獣の唸り声を彷彿とさせるその低い声に、けれどナマエは一歩も引かなかった。
「違いませんッッ!!私とあなたは、違うものなんかじゃない!!だってインゴさん、あなたは――!!!」
言葉の先は、声にならない悲鳴の中に掻き消された。
左腕に、焼けつくような灼熱の痛み。 ぐらりと後方に傾いた体が背中から鉄格子にぶつかる。 何が起こったのか理解できず目を見開いたナマエの視界の中で、浮かび上がるインゴの瞳が禍々しいほどに獰猛な光を燈していた。
「――お前は、ワタクシを苛立たせることだけは長けているようですね」
ピチャリと濡れた音を立てて、インゴが自らの右手を舐める。 鋭利な爪先から掌を染めているのは、今まさに引き裂かれたナマエの腕から溢れる紅い血液だった。 その姿を目の当たりにした途端、頭の中が白く焼き切れそうなほどの激痛がナマエを襲い、傷口を押さえて呻いた彼女の耳元で檻の入口がけたたましい音を立てる。
鉄格子が歪んでしまう強さでドアを蹴り開けたインゴが、冷え切った眼差しでナマエを見下ろしていた。
「出て行きなさい。二度と、ワタクシの前に姿を現すな」
ポタリと、黒い鉄の床の上に落ちた雫が弾ける。 それが真紅の雫だったのか――あるいは、透明な雫だったのか。
ナマエにはもうわからなかった。
(13.04.14)
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