「ぅ゛、え……ッ!!」
テントからいくらか離れた物影に辿りついたところで、限界を迎えた。 痙攣したように胃が跳ね、逆流してきたものが喉を塞ぐ。 倒れこむように地面に膝をつき、込み上げてきたものを全て吐き出すと、震えていた視界がじわりと滲んだ。
(なんなの…あれは……!!)
耳の奥に、あの断末魔がこびり付いていた。 それを振り払おうと耳を塞ぎ、必死に目を閉じて頭を振っても震えは止まらない。 鮮血を滴らせながらナマエを捉えたあの獰猛な眼差しが、瞼の裏に焼きついている。 その途端、再び強烈な吐き気がナマエを襲い、戦慄く腕をついて俯いた彼女は激しく咽ながら空っぽの胃から胃液だけを絞り出した。
(あん、な……ッ、あんな、こと……!)
許されるわけがない。あのような非人道的な行いが。 あれは、あの奴隷の男に勝算なんてただの一つもなかった。 インゴも、エメットも、観客も――あの場にいた者は全てそれがわかっていた。
憐れな奴隷の命を、インゴの手によって残虐に奪い、見世物にする。 そのためのショーだったのだ。
「ふっ……ぅ……ッ」
全身の震えが止まらない。冷や汗にじっとりと濡れた背中を、暗闇に潜んだ恐怖が舐め上げる。 溢れだした涙が次々と地面に吸い込まれていくなか、ナマエは必死に自分を掻き抱いた。
考えたくない。 知りたくなんてない。 ――それでも、気づいてしまったことから目を背けることはできない。
(殺される、はずだったのは……私だったの、かも……っ)
エメットが奴隷市場にいた理由は、おそらくそのためだったのだ。 彼はショーのための奴隷を探していた。そこで、逃げ出した自分と出会ったのだ。 もしかすると、今日、あの場で殺されるのは自分だったかもしれない。 いや――今日でなくとも、次のショーでは。
あるいは、今夜にでも。
「――君、」
「ッ――!!?」
不意に背後から肩を叩かれ、ナマエの心臓が飛び跳ねた。 思い通りに動かない身体で振り向こうとした途端、腕の力がガクリと抜けて、無様に尻もちをついてしまう。 声の主は見るからに動転しているナマエの様子に目を見張り、怯えて身を縮こまらせる彼女に困惑した様子で手を差し伸べた。
「……また驚かせてしまって悪かったのさ。僕だよ、昼間会ったラムセスだ」 「ッ、ぁ……」 「こんな所でどうしたのさ。君、とても酷い顔をしているよ」
ラムセスの手がナマエの手を優しく掴み、よろめく身体を支えてくれる。 そのぬくもりに触れた瞬間、じわりと拡がった安心感に溶かされたナマエの瞳から再び涙が零れ落ち、ラムセスはギクリと肩を強張らせた。
* * *
「――なるほど、インゴのショーを見たのかい」
用具置き場になっているテントの一つで、受け取ったカップの中の冷たい水を一口飲み込んだナマエが頷いた。 チラリと窺ったラムセスの顔は苦々しく、その目は何もない地面を睨みつけている。 あの観客たちと違い、彼がインゴのショーを快く思ってはいないことを確信し、ナマエは密かに息をついた。
「……彼、は……いつも、あんなショーを、しているんですか」 「……――『彼』って?」 「っ?だ、だから……その、インゴさん、は、」
聴き返すラムセスの声が、妙に冷たい気がした。 怯みながらも答えれば、「ああ」とやや遅れて呟いた彼がまたナマエから目を逸らし、テントの外に浮かぶ黄金色の月を見上げる。細められた彼の眼差しに透けて見えた嫌悪感の在り処に、何故だか胸が詰まった。
「“いつも”、ではない……ただ観客にインゴを見せるだけの時もあるし、奴隷が手に入れば、あの手のショーもする……って言っても、僕も夜の公演についてはあまり詳しいことは知らないし、知りたくもないのさ」 「そう、なんですか……」
俯いた視界に入る自分の手は未だに青白い。 その手でスカートの端を強く握りしめ、震える息を吐き出した。
「……なら、次のショーに使われるのは……私、ってこと、ですか」
訪れた沈黙の中、吹き込んできた冷たい夜風が頬を撫でる。 膨れたテントが僅かに騒ぎ、それが収まった時、ラムセスは静かに口を開いた。
「あのショーに使うための奴隷を、ボスは君のように自由に出歩かせたりなんかしないのさ。逃げ出さないように閉じ込めて、手にも足にも重たい枷をつける――それに君は、『花嫁』なんだろう?」
『花嫁』 またその言葉だ。 昼間は意味を聞きそびれてしまったその言葉との邂逅に、ナマエがふと顔を上げる。 ――しかし、今度こそそれを問いただそうとしたナマエの声は、ラムセスの背後から現れた人影によって言葉になる前に喉の奥へ飲み込まれてしまった。
「やぁ、探したよナマエ」
舞台衣装に身を包んだままのエメットが、あの仮面のような笑顔でテントに入ってくる。 座っていた椅子から反射的に立ち上がって後ずさりしたナマエの姿に鋭い瞳を弓形に細め、一歩一歩近づいてくるエメットに得体の知れなさを感じ、落ち着いていた筈の身体がまた小刻みに震えだす。 そんなナマエを嘲笑うように、伸ばされたエメットの腕は容赦なくナマエを捕えた。
「ッ、ボス……!」 「――ラムセス、明日は早い。キミも今日はもう休んだ方がいいヨ。この子は、ボクが送っていくから」 「……っ!」
ラムセスを遮って踵を返したエメットに引きずられ、テントを後にする。
夜の公演は滞りなく幕を閉じたのか、既に見渡すかぎりに客の姿はなかった。 無言のエメットに腕を引かれて歩くなか、悲鳴に似た夜風の音が嫌でも先ほどの記憶を揺り起こす。 重く脈打つ心臓の奥底に芽吹いた不安と恐怖が、一つ鼓動を刻むたび猛毒のように全身に回るようで、ナマエは耐え切れずにその場に踏みとどまり、自分を掴むエメットの腕を引きはがそうともがいた。
「ぃっ、や……!!嫌です!!わたっ、私…もう……!!」 「……――大丈夫、さすがに今夜は、インゴのところに行けなんて言わないヨ」 「ッ!!」
振り向いたエメットが、掴んだままのナマエの腕を強く引き寄せる。
「キミも見てたでショ?ショーの後のインゴは気が立ってるからネ……誰も近づくことはできないんだ」
まるで内緒話でもするかのようにナマエの耳元でそう囁き、小さく笑う。 その意図が掴めず、ナマエは渾身の力で彼の胸を突き飛ばした。 それでも、からかように「おっと」と肩を竦めただけのエメットに、腹の底からふつりと沸き上った言いしれない苛立ちが募っていく。
「あ、なたの目的は、なんですか……ッ」 「ウン?ボクはただ、キミには少し刺激が強すぎたんじゃないかと思って、心配して探しにきただけダヨ」 「ッ――今度こそ、私が逃げ出すんじゃないかって、ですか」 「――……」
二人の間を、湿った風が吹き抜けた。 ナマエを見つめるエメットの瞳が、瞬き一つで色のない眼差しに変わる。 その変化にゾクリと背筋が戦慄き、無意識に足が一歩逃げる。 それでもナマエは自分を奮い立たせ、震える掌を握りしめて彼に挑んだ。
「逃げようとするなら、私もあの人と同じように、殺すつもりですか――それとも、」
「あなたは私に……何か、期待しているんですか」
一言一言、上擦りながらもしっかりとエメットを見据えて紡がれた言葉に、エメットはどこか満足げに瞑目した。
「……半分正解、カナ」 「っ、!!」
エメットが再びナマエを引き寄せ、片腕に腰を抱き上げられる。 掴まれたままだった腕をようやく解放されたかと思えば今度は顎を掬い上げられ、背を屈めた彼と吐息が触れ合いそうなほどに近づいた視線の先で、エメットがゆったりと目を細めた。
「キミにはネ、インゴの『花嫁』になってもらいたいんだ」
今度はハッキリとエメットの口から告げられたその言葉に、ナマエは眉を顰めた。 ここまでくればナマエにだって想像は難くない。 『猛獣使い』だなんて体のいい出任せだったのだ。 エメットはきっと、初めからそのつもりで自分をココへ連れてきた。
「わ、たしに……っ、あの人の、慰み者に、なれ、と……?」 「それも半分正解」
顎を捉えていたエメットの手がスルリと滑り、喉を、胸元を伝って一直線に降りていく。 そしてたどり着いた先、なだらかな下腹部を優しげな手つきで撫でられた時、弾かれるように浮かんだその答えにナマエの全身が凍りついた。
「子供だヨ。インゴの――美しいあの獣の血を引く子供がほしいんだ」
「ッッ……!!!」
指先が、氷水に触れたように急激に冷えていく。 血の気が引いていく感覚に言葉を失くしたナマエがよろめけば、エメットがそれを追いかけてくる。その手を、ナマエはがむしゃらに振り払って拒んだ。
「やっ……!!嫌だッッ!!!あんたたちの思い通りになんかならない……!!こんなとこッ、こんなとこ絶対逃げ出して、ッ」
「キミにはできないヨ」
「!!!」
暴れるナマエを容易く捕まえて押さえ込み、エメットが狂気じみた眼差しで微笑んだ。 月明かりを孕んだその眼光が、一瞬だけ“彼”に――インゴに重なり、ナマエの抵抗が鈍る。 それを見透かしたように、エメットはもう一度、震えるナマエの耳に甘く囁いた。
「キミは、インゴを残してココから逃げることなんてしない――いや、“できない”んだ」
「そうでショ?」 「ッ、!!」
追い打ちをかけるエメットの言葉に、ナマエは反論することができない自身に気づかされて愕然とした。
(私……!!)
インゴを残して、ココを去ることができるか。 自問して、けれど行き着く答えはエメットのそれに違いなくて、頭の中が真っ白になる。
『逃げようと思えば、いつだって逃げられる』 そう思っていたのは、全く自分の思い込みだった。
ナマエの心は、既にあの暗い檻の奥に捕らわれていたのだ。
「――さぁ、話はこれで終わり。今夜はゆっくり眠るといい」
『おやすみ、花嫁』
エメットのその声を最後に視界が歪み、意識が遠退いていく。 目を閉じてしまう間際に見た藍色の空を照らす月は、まるで泣いているかのように滲んでいた。
(13.03.24)
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