ポケモン | ナノ

(※若干の残酷な(グロテスクな)表現が含まれますのでご注意ください)





これで二回目だ。
一人きりの静かな部屋で目を覚ました時、ナマエはまずそう思った。

「っ…ぃ、た……」

前回よりもだるい身体をのそりと起こせば、案の定あちこちに痛みが走る。
ふと視界に入った青白い腕に残る傷は癒えるどころか悪化し、増えている始末。
肺の奥に沈殿している重い空気を吐き出して、項垂れたナマエはゆっくりと目を閉じた。

(なに、してるんだろう…私……)

意識を手放す前の記憶を手繰り寄せると、全身が震える。

あの“獣”は――インゴは、ナマエのことなんて見ていなかった。
言葉も、悲鳴も、懇願も、何もかもが彼には届かない。
暗い狂気に燃えた双眸はナマエを捕えたまま、しかし実際は、その向こう側に何かを見ているようにただ遠くて。
なぶられた身体以上に、心が引き裂かれてしまいそうだった。



『――殺してやりたいほどに、憎い』



「――……」

インゴの言葉を思い出しながら、彼の手に締めつけられた首筋を震える指先で辿る。

今度こそ、殺されるかと思った。
――いや、あの瞬間のインゴはきっと、本気で自分を殺すつもりだった。
徐々に締め上げる力を増していく掌に呼吸を奪われながら意識を手放した時、ナマエは確かに死を覚悟したのだ。

(……でも、まだ生きてる)

深く吸い込んだ新たな空気を肺に送り込みながら、瞼を押し上げる。
眠っている間に夜は明けてしまったのか、薄いカーテンの向こうからは白い光が透けて見えた。
部屋の外は昨日と違い、耳を澄ませば遠くから僅かにざわめきが聞こえてくる。

(そう言えば、オーナーが今日は公演があるって……)

その準備だろうか。
だとしたらやはり――ここから逃げ出すなら、今なのでは。

「………」

そろりと寝台を降りて、ナマエは服の上から心臓を押さえつけた。

折角助かった命だ。
このままここに残れば、いつか本当に殺されるかもしれない。
それに、もうあんな恐い目に会うのも、痛い思いをするのもごめんだ。
あの白服のオーナーだって、出て行きたいなら止めはしないと言っていた。

(――で も……だけど……っ)

思考が、まるきり昨夜と同じことを繰り返している。
そのことに気が付き、ナマエはごくりと息を飲み、思い切り脱力した。

彼の――インゴのことがわからない。
けれどそれ以上にわからないのは、自分の心だ。

どうしてここまでインゴに執着しているのか――彼に、一体何を望んでいるのか。
自分自身の気持ちが、一番わからない。
それは存外厄介な感情で、途方にくれたナマエがふと視線を巡らせたとき、机の上にトレーに乗せられた食事と手紙が置いてあることに初めて気が付いた。



* * *



『目が覚めたら食事をとって、クローゼットの中の服に着替えてから一番大きなテントにおいで』

エメットと署名されたその手紙に従い、空腹を満たして身なりを整えたナマエが恐る恐る部屋を出ると、一際目立つツートンカラーのテントの周囲は準備に追われる人手で賑わっていた。
誰もかれもが忙しそうに行き交って、とても声をかけられそうな雰囲気ではない。

(オーナーは…テントの中なのかな……)

まだ彼以外に知人がいるわけでもないナマエはこの空気に居心地の悪さを感じつつ、そっとテントの入口に向かって内部を覗きこむ。
その直後、背後から伸びてきた手がナマエの肩を掴んだ。

「――ッ、ゃっ!!?」
「!!お、驚かせて悪かったのさ。いや、その……見かけない顔だったから」

つい過剰に反応してしまったナマエが弾かれたように振り向くと、そこにいたのは見知らぬ青年だった。
彼も彼でナマエの反応に驚かされたのか目を見開き、行き場を失った手をぎこちなく降ろす。
瞬間的に跳ね上がった心臓がドクンドクンと胸の中で悲鳴を上げている音を感じつつ、ナマエが絞り出すような声で「ご、めん、なさい」と呟くと、青年は肩の力を抜いて軽く首を傾げた。

「僕はラムセス。この見世物小屋の団員さ。君は?お客さんなら悪いけど開演はもう少し先になるのさ」
「!あっいえ、私はその……オーナーに、拾われた者、で……」
「――ああ、なんだ。君が噂の『花嫁』だったのかい」

(『花嫁』……?)

「そういうことならこっちに来るのさ。おーい、ボスー!!」
「っえ?あ、あの…っちょっと待っ、」

彼の言った『花嫁』という言葉の意味がわからずにうろたえたナマエの腕を引き、ラムセスと名乗った青年はテントの中心にある舞台に向かってずんずん歩き出す。
彼は自分を他の誰かと勘違いしているのではないだろうか。
だって、自分は猛獣使いとしてエメットに雇われたのだ。『花嫁』なんて、そんな話は聞いたことがない。

「ンー?どしたのラムセスー?」
「例の『花嫁』、連れてきたのさー!」

――だと言うのに、ラムセスの声に応えて舞台の端から姿を覗かせたエメットはナマエを見つけると軽い身のこなしで舞台を降り、食えないあの表情でにっこりと微笑みかけてきた。

「やぁナマエ!目覚めはどう?ラムセス、彼女を連れてきてくれてありがとう、持ち場に帰っていいよ」
「ッ……!?」
「了解なのさ」

ラムセスの言葉を否定しないエメットに、ナマエの中の動揺が深まる。
「じゃあね」と軽い挨拶をしたラムセスがその場を去り、真意を訊ねようとナマエが口を開きかけた時、今度はエメットがナマエの腕を掴んだ。

「ゴメンネ、今日はちょっとバタバタするから。キミにも色々手伝ってもらう。まずは簡単に案内するから、ついてオイデ」
「っ!!あの、私……きゃっ!?」

エメットに引きずられるかたちで歩きはじめたナマエの脚に、何かがぶつかる。
子供にでもぶつかってしまっただろうかと慌てて視線を下げると、そこにいたのはナマエの目にしたことのない、奇妙な生物だった。


「ミジュ?」


「………え?」

大きさ的には近いが、犬でも、猫でも、狐でもない。
水かきのような足で二足歩行する謎の生き物がナマエをじっと見上げて、首を傾げる。
初めて見るその生物にナマエが凍りついたように固まっていると、隣にいたエメットが笑いながらその生き物を腕に抱き上げた。

「こらミジュマル、また逃げ出したネ?」
「ミ〜ジュ〜!」
「ダーメ!公演はもう少し後だよ。準備ができるまで大人しくしてナ」

驚くべきことに、エメットはその生き物と意思の疎通ができているようだ。
言葉を失ってその光景を凝視していたナマエに、エメットが肩を竦めて笑いかける。

「ポケモンを見るのは初めて?」
「……っへ?ぽ、『ポケモン』……って……?」
「『ポケットモンスター』、縮めてポケモン。ボクたちは彼らのことをそう呼んでる」

エメットがそう説明すると、腕の中のミジュマルと呼ばれた生き物が得意げに鳴いて、腹部についている二枚貝をポンと叩いた。

「まだあまり発見されていないケド、彼らはとても珍しい生き物で、同時にすごい力を持ってるんだ」
「ミジュッ!」
「そうだネ、ミジュマル。見せてあげな、『みずでっぽう』!」

「ジュマーッ!」

エメットの腕から飛び降りたミジュマルが、気合の入った鳴き声と共に、噴水のように口から水を噴きだした。
更にはそこに、エメットがどこからか取り出したカラフルなボールを3つ投げてよこして、ミジュマルはそのボールが地面に落ちないように噴きだす水を上手にコントロールしてみせる。

「っ……!!」

最初こそ呆然としてその曲芸を見ていたものの、ナマエの瞳は次第に輝き、最終的には手を叩いて感激をあらわにした。

「すごいっ……!すごいですねミジュマル!!」
「!!ミィジュ〜、マッ!?」

ナマエの賞賛の声に『みずでっぽう』を止め、照れたように後ろ頭を掻く仕草をしたミジュマルの脳天に落ちてきたボールが次々に直撃する。
「あっ」と慌ててミジュマルに駆け寄り、赤くなっている頭を恐る恐る撫でてやれば、涙目になったミジュマルは甘えるようにナマエにすり寄ってきた。
その憎めない愛らしさに、ナマエからもつい微笑みが零れる。

「可愛いでしょ、ポケモン。ミジュマルだけじゃなくて、ここには他にもたくさんの種類のポケモンがいる。この見世物小屋はネ、彼らみたいな珍しい生き物を集めて、その芸をお客さんに披露してるんだヨ」
「――じゃあ、インゴさんも……?」

問いかけに、エメットの笑みの色が変わる。
真っ白なシルクハットのツバを引き下げて、一度引き結ばれた唇が、またゆっくりと弧を描いた。


「……インゴはね、ポケモンとはまた別。ポケモンは昼の公演、インゴが出るのは、夜の公演だヨ」



* * *



エメットの言う『夜の公演』は、昼間の公演とは打って変わってどこか暗澹とした雰囲気が漂っていた。
親子連れや仲睦まじい様子の若い恋人達で賑わっていたテントが、今は暗い色の外套を羽織り、ひそひそと低い囁き声を漏らすだけの得体のしれない客人達でひしめいている。

『おススメはしないけど、気になるならキミも観てごらん』

昼間手伝った土産物の販売も、夜の公演では行われないらしい。
手持無沙汰になったナマエにそう言ったエメットは、今回は彼自身もキャストとして舞台に上がるのだと言っていた。
ナマエの代わりに、“猛獣使い”として――。

(なんだか…嫌な空気……)

開演時間が近づくにつれて観客席に充満する異様な熱気が肌に纏わりついてくる。
入口近くのテントの隅に身を寄せたナマエはどうにも落ち着かず、そわそわと辺りを見回すが、他の観客は一様に鉄格子に囲まれた舞台を見つめ、今か今かと開演を心待ちにしている。
その姿さえ、ナマエの目にはどこか不気味なものとして映っていた。

(っ……やっぱり、やめとこうかな)

言いしれない胸騒ぎを覚え、そっと踵を返したナマエが舞台に背を向ける。
丁度そのタイミングでテントの中を慰め程度に照らしていた灯りが一斉に消え、反射的に振り向いたナマエの視線の先で、暗闇の中に浮かび上がる舞台の端にスポットライトが当てられた。


「――紳士淑女の皆様、大変お待たせいたしました。これより当サーカスの花形、猛獣インゴによるショーを始めます」


一瞬にしてシンと静まり返ったテントにエメットの朗々とした口上が響き渡る。
道化めいた仕草で彼が深くお辞儀をすると、反対側の舞台の端からキャスターのついた大きな檻が運ばれてきた。

真紅の覆いを被せられたその中に、一体“誰”がいるのか――わからないはずがなく、ナマエの喉が密かに音を立てる。
無意識に握りしめていた手の指先が、冷水のように掌を刺した。



「『この世で最も美しく、残酷なフリーク』――その目でとくとご覧あれ!!」



エメットが覆いの一端を掴み、口上に合わせて勢いをつけ、一気に檻から引き離す。
風を含んで金魚の尾のように拡がったそれがふわりと床に落ち、遮られていた檻の内部が灯りの元に晒される。

瞬間、テントの中を下卑た興奮と感嘆の声が満たした。

「ああ、なんてこと……!」
「なんと美しい……」
「一目見たかったんだ……!彼が、『インゴ』……!!」

観客席から口々にそんな呟きが漏れ聞こえてくる。

それを意識の端で聞きながら、ナマエもまた、初めて目にした“彼”の姿から瞳を逸らせずにいた。


(――あれが、インゴさん……)


あの暗い檻の中で、殆どその影しか捉えることができなかったインゴの姿。
それはエメットの言った『この世で最も美しい』という言葉に違わず、ナマエの想像していたフリークの姿からはかけ離れていた。

骨格は、完全に人のそれだ。
顔もまた、ここからではハッキリ見えないけれど、端正なそれをしているように思える。
上半身は何も身に着けず、肘から先は黄金色の滑らかな体毛に覆われていた。
そしてその背後には、縞柄の細く長い尾が、床につきそうな位置まで垂れている。

けれど、ナマエは知っていた。


(でも……一番、綺麗なのは、)


「ッ!!!」

ナマエの思考を読んだかのように、今まさに思い浮かべたインゴのあの冷たい瞳が、射抜くようにナマエを捉えた。

照らされた舞台から明かりの落とされた客席など、通常見えるはずはない。
気のせいかとも思ったが、痛いほどに胸を打つ心臓が確信している。
インゴには、間違いなく自分が見えているのだ、と。

「っ……」

なぜか、ここに集まった観客たちに混じって彼を見ている自分に居た堪れなくなり、俯いたナマエは再び踵を返そうと一歩足を下げた。
が、次にそれを遮ったのは、観客たちのざわめきをかき消すくぐもった叫び声だった。


「さぁ、本日の勇敢な剣闘士のお出ましだ!」


猿轡を噛まされ、両手を後ろで縛られた男が無理やり舞台に上げられる。
その男の肩を親しげに抱き、エメットは手品のように取り出したナイフをくるくると指先で弄びながらニタリと笑んだ。


「奴隷の彼が見事インゴに勝つことができれば、晴れて自由の身!――それができなければ、ここでインゴの餌になる」


「簡単なルールでしょ?」と、男の耳元で囁いたエメットが手にしたナイフで猿轡を、次に腕を縛っていた縄を切り落とす。
ガクガクと震えながら檻の中のインゴを見つめる男の手に優しくナイフを握らせ、エメットはクルリと踊るように身を翻すとインゴのいる檻の入口に手をかけた。



「準備はいいかい?Three…Two…――One」



ゴクリと会場全体が息を飲む。
寒々しい蝶番の金切り声が響いた直後の悲鳴が、耳の奥にこびりついた。


「ぁっ…あ………!」


それは、本当に、ナマエに目を背ける猶予さえ与えない僅かな時間で。
それなのに、ついさっきまで生きていた筈の“人間”が、今は物言わぬ肉の塊となり、赤黒い血溜まりの中でピクリとも動かずに沈んでいた。

だと言うのに、テントの中はおぞましい熱狂の渦に包まれている。


(こん、な……!!!)


男を引き裂いた両手を、喉笛を噛み千切った口元を同じ色に染めた“獣”が、狂気に揺れる瞳に恍惚の光を宿して舌なめずりをした。

その姿にどうしようもなく膝が震えて、立っているだけで精いっぱいなナマエに追い打ちをかけるように、胃の奥から喉を衝くような、抗えない吐き気が込み上げてくる。
咄嗟に背をくの字に曲げ、口元を覆ったナマエの涙に滲む視界の中で、インゴのあの冷え切った眼差しが再び彼女を捕えたのがわかり、ナマエは殆ど転がるように、もつれる足でテントの外に飛び出した。



(13.03.10)