朝、目が覚めたらナマエはもういなかったって、ノボリはそう言った。
テーブルの上にはノボリがナマエに渡したライブキャスターと、手紙と封筒。 特別なことなんて書いてない。 『今までありがとうございました』で始まったそれは、ドラマで見るような型にはまったお別れの言葉で締めくくられてて――ただ、その表面は水滴が零れた跡みたいに、ちょっとボコボコになってた。 封筒の中には、お金が入ってた。 きっとこの数か月の間に貯めてたんだろう。 『これじゃ全然足りてないだろうけど』なんて、ほんとバカな子。 僕とノボリが君からもらったものは、それこそお金なんかじゃ買えないものばかりだったのに。
ドアを開けたら、明るい玄関に迎えられて、あったかい空気に包まれて、振り向いた君が『おかえりなさい』って笑ってくれる。 僕は、それだけで十分すぎるくらい幸せだったのに。
ねぇ、やっぱり
僕らと過ごしたあの時間は ――ノボリへの恋心は
君を苦しめただけだった?
(ナマエ、ノボリはね)
君は知らないだろうけど、あの日のノボリは、いっそ泣き叫んでくれた方がまだマシだって思えるくらい、見てられないほど酷い顔、してたよ。 泣きたいのに泣けない。涙が出ない。 きっとそんな感じ。
だからね、見かねて『今日は仕事休んで良いよ』って言ったんだ。 だけどノボリは頑として頷かなくて、それどころか、日付が変わっても家に帰ろうとしなくて。 どうしてだろうって思いながら先に家に帰った時、気が付いた。
真っ暗で、冷たい部屋の中。 だけどまだ色んな場所にナマエの匂いが、名残が消えてなくて。 今にも君が、『遅くなってごめんなさい!』なんて、息を切らしてドアを開けそうな気が、して。 ――だけど、ノボリにはわかってたんだ。
もう、君がこの部屋に帰ってくることはないんだって、こと。
だから家にいたくなかったんだね。
それからいくつかの季節がゆっくりと通り過ぎていく中、ノボリはしっかりしてたよ。 いつも以上にバリバリ仕事をこなして、バトルだって完璧。 品行方正、完全無欠。誰もが憧れるバトルサブウェイのサブウェイマスター!
……でもね、それってホントは、全部“反動”。 ノボリは必死に、何かに打ち込んで、紛らわそうとしてただけ。
そう、例えば長く連れ添った恋人とお別れした時。 よく『抜けがらみたいになる』とか、そういう風に言うでしょ?
(――だけど、ノボリは違ったよ)
ノボリはずっと、苦しいほどナマエでいっぱいだった。
君がいなくなっても 戻ってこないってわかってても それでも君を消せなくて どこにも吐き出せなくて、手放せなくて
傍から見ててかわいそうなほど――今も、ナマエでいっぱい。
きっと君も 同じでしょ?
(だからね、ナマエ)
「――早く、戻っておいで」
「え?クダリさん今何か言いましたか?」 「……ううん、なんでもなーい!」
丁度後ろを通りかかったジャッキーが聞き返すのをはぐらかして、うんと背筋を伸ばす。 最近デスクワークばっかりでつまらない。もっとバトルがしたい。 かなしいこと、切ないこと、ぜんぶ吹っ飛ばしてくれるくらいゾクゾクする、すっごいバトル!
そんなことを考えた時、シングルトレインから戻ってきたクラウドが妙に上機嫌な顔して席についた。 ついさっきインカムからクラウドが負けたって通信入ったばっかりなのに、珍しい。
「クラウドさん、なんか嬉しそうですね。良いことありました?」 「ん〜?おう、なんやわかってまうか!」
向かいの席のカズマサがパソコンの横から顔を出してそう問いかけると、クラウドはニヤリとして身体を乗り出す。
「いやな、さっきの挑戦者の坊主、ええ腕しとってな……アイツはきっとすぐにスーパーに挑戦しよるぞ!」 「わかるんですか?」 「おぉよ!わしほどのベテランになるとわかってまうっちゅうか……!」
得意げに腕を組んで頷きながら話す姿に、興味をそそられた。 クラウドがそこまで言うトレーナーなら、きっと間違いない。 強い子には絶対絶対ダブルトレインにも挑戦してほしい!
「ねぇねぇ、それってどんなだった子?手持ちは?」 「あー……自分2匹でやられてしもたからなぁ……3匹目はわからへんけど、先頭はゲンガー。次はデンチュラでしたわ」
(ゲンガーに、デンチュラ――?)
ドクンと跳ねた胸を、懐かしい姿がよぎる。
「バトルレコード、見ます?」 「ッ…み、見せてっ!!」
手に持ってたボールペンをデスクに叩きつけるように置いて、慌てて立ち上がる。 そうして、パソコンに繋げて映し出されたその液晶画面に、目が釘付けになった。
「――……ノ ボリ」
『……はい。どういたしましたか?クダリ』
小さく震えちゃってる手でインカムのスイッチを入れて、ノボリを呼んだ。
すぐさま返ってきたいつも通りに答える声に、ああ、どうしよう。
ノボリのバカ。そんな落ち着いてる場合じゃない。 きっと君、今からとっても驚く。心臓止まっちゃいそうなほど驚く! もしかしたら泣き崩れちゃうかも!!
だって今、僕もちょっと泣いちゃいそうなんだもん!!
(ねぇ、ノボリ!ノボリ!ノボリ!!)
「シングルトレイン、今すぐ乗って!」 『――は?ですがまだ要請は、』 「いいから!!絶対来るから!!だから待ってて!!!」
“あの子”は、絶対にノボリの所までたどり着く。 そうなるに決まってる。
だって、ほら。やっぱり物語は、ハッピーエンドでなくちゃ締まらない!
「――走って、ノボリ!!!」
今度こそ掴んで。離さないで。 空っぽになるまで、泣けばいい!!
* * *
(久しぶりですね、クダリがあそこまで興奮するなんて……)
まるで激励のように叫んだ声にキンと耳を突き刺され、思わず苦笑いをしてしまいました。
きっと、さぞかしお強い挑戦者が現れたのでしょう。 そうであるなら、サブウェイマスターとして、いちトレーナーとしてわたくしも嬉しい。
(……あの子には、随分心配をかけてしまいましたからね)
ナマエ様がいなくなったあの日から、クダリはずっとわたくしを気にかけておりました。 自分だって悲しいだろうに、わたくしの前で泣くこともせず気丈に振る舞って――色々と、我慢をさせてしまったことでしょう。 兄として情けないことは承知の上ですが、それでも、そんなクダリがいてくれたからこそ、わたくしは自分を保つことができたと言っても過言ではございません。
(――そうですね、けれど、そろそろ)
そろそろわたくしも、立ち直らなければいけないのかもしれません。
『挑戦者、19戦目通過』
車両に取り付けられたスピーカーから挑戦者の現状が知らされる。 わたくしのいるこの7両目まで、あと1両。 なるほどクダリの見込んだ通り、この調子なら間もなくここに辿りつくでしょう。
わたくしも切り替えて、バトルに集中しないと。
(――そう……そうしていけば)
今はまだ、そんな日が来るなんて想像することもできませんが。
こうして少しずつ、切り替えて、何かに熱中して そうして、あの日々を振り返る時間を少なくしていくことができたなら。 あなた様に出会う前のわたくしに立ち戻ることができたなら。
いつか、笑って思い出せる日が来るでしょうか。
胸を引き裂くようなこの想いも、穏やかな思い出に変わるでしょうか。
(もしもそうなら、ナマエ様――わたくしは、)
『挑戦者、20戦目通過。スタンバイお願いします!』
( わたくしは、)
7両目に繋がるドアが開かれる。 その瞬間、水を打ったような不思議な静寂が意識を包み込みました。
まるで――まるで、水面の向こう側の世界から“こちら”に溶け込むように ドアを通り抜けたその方が、静かにわたくしと対峙する。
「ッ……!」
その、身体の底から震える感覚に、覚えがありました。
(ですが、まさか……そんな、っ)
目深に被ったキャスケットの影が落ち、俯く顔はハッキリと読み取ることができない。 それでも、僅かに覗く黒真珠のような瞳がわたくしを捉えているのがわかる。
その懐かしい眼差しに射抜かれ、風船が弾けたように
置き去りにされたあの日の恋心が、奔流となって溢れた。
「――ッ……ナマエ、様、」
『間違いない』
魂がそう叫ぶ。
今もまだ、こんなにも愛しいと
忘れることなど 思い出にすることなど、できはしないのだと。
「――……なんだ、もうバレちゃったんだ」
少し、緊張を含んで上擦った声は、それでも確かにわたくしの知るナマエ様のそれにピタリと重なり、脱いだキャスケットから零れた黒髪は、記憶の中のそれよりも幾分か伸びてハラリと肩に流れ落ちました。
「久しぶり、ノボリさん」
わたくしを呼ぶ、耳に優しい声。 細められた瞳にうっすらと滲んだ涙の密やかなきらめき。 震えながら、微笑んだ唇。
その全てに惹き寄せられるように――気がつけば、身体はもう飛び出していて。
『どうして』だとか『そんなはずはない』だとか
理由も、理屈も、眼中にはありませんでした。
「っぅ、わ!?」
勢いのままぶつかるようにしてナマエ様の身体を掻き抱いたせいで、小さな悲鳴を上げてよろけたナマエ様が背後のドアに衝突し、ガタンと鈍い音がする。 その華奢な背中を、今度は自分の胸に力いっぱい押しつけて、僅かな隙間も許さずに強く、強く抱きしめると、遅れて鼻孔を擽る懐かしい香りに、膝の力が抜け落ちた。
「ノボ、リ、さん……っ?」
ふっと、耳元で苦笑する息遣いを感じました。 それに応えたいのに、声が、言葉が、出ないのです。
いつかのあの日――ナマエ様が元の世界に戻ってしまわれたと思った、あの夕暮れの冷たい部屋の中。 同じようにナマエ様を抱きしめた時にはなかった、背中に回るあたたかな腕の感触が、喉を塞いで
――ああ、もしもこれが夢であったなら、わたくしはもう、目覚めたくなどない。
「ッ……ナマエ、さ、ま」 「……はい」 「〜〜っ、ナマエ、様…ナマエ様……!!」 「はい、ノボリさん。俺は、ここにいます」
それ以外を知らない幼子のように、ただ繰り返しナマエ様を呼ぶわたくしの背を抱き返し、ひやりと濡れた頬を寄せ
誰より愛しい声が、渇望していた言葉を囁く。
「 ただいま 」
その瞬間、胸の奥の氷が溶けたように
ただ、涙が溢れた。
* * *
「――と、言うわけで、シンオウ地方に行ってたんです。あ、これお土産なんでよかったらどうぞ」 「『森の羊羹』だ!僕これ好き!!」
あの後、結局バトルなんかできる状態じゃなくて(本当はバトルに勝ってから正体バラしてノボリさんをもっと驚かせてやろうと思ってたのに!)引っ付いて離れないノボリさんを、停車駅で待ってたクダリさんの力を借りてとどうにか駅員室まで引きずって、現在に至る。 ……余談だけどそんな俺とノボリさんを目撃した他のお客さんは勿論、駅員さんにもギョッとした顔で見られてかなり恥ずかしかった俺はノボリさんよりも早く我に返ることができた。
「色んな町を回りながら情報を集めて……結構時間かかっちゃったんですけど、ミチーナってとこの遺跡にアルセウスの伝説が残ってることを知って、そこを目指しました」
結論から言うと、俺は奇跡的にアルセウスに会うことができた。 遺跡の守り人であるシーナさんという女性に事情を説明すると力を貸してもらえることになり、彼女がアルセウスに引き合わせてくれたのだ。
――そして俺は、そこで人生最大の決断を迫られた。
『……なるほど。お前が別の世界から来たと言うのなら、それはおそらく私が原因だろう』
かつて、アルセウスが長い眠りから目覚めた時。 その膨大なエネルギーの渦が空間を歪ませ、世界のあちこちにひずみが生まれたのだと言う。 アルセウスの話によれば、俺はそのひずみの一つに巻き込まれてしまったらしい。
――そう、つまり。やっぱり、理由なんてなかった。 俺がこの世界に来たのは、まったくの偶然だったのだ。
予想も、覚悟もしていたけど、それをすんなり受け止めるにはやりきれない想いが強すぎた。 だって、この世界に来なければこんなに悩むことはなかった。 こんなに、苦しむことなんてなかったのに。
そんな俺に、アルセウスは言った。
『人の子よ――さぞかし、辛かったであろう』
その声は、すべてを知っていた。
俺の中のやり場のない怒りも、苦悩も――きっと、“あの人”への、愛しさも。
『せめてもの償いだ――元の世界へ帰るか、この世界に留まるか……お前の望みを叶えよう』
“俺が選んでいい”のだと、アルセウスはそう言った。
このままこの世界に残りたいなら、それでいい。 俺の存在は、もうこの世界に溶け込んで、受け入れられているらしい。 だけど元の世界に帰りたいなら、アルセウスの分身であるディアルガとパルキアの力を借りて、俺を帰してくれるって。 ――そして、一度向こうに帰ったなら当然、もう二度とこっちの世界には来られないって。
それを決めるのは、俺だと。
( でも、それって、)
『お、れに……どっちを捨てるか、決めろって、こと……?』
それまで、俺には選択肢なんてないんだと思ってた。 突きつけられる現実を、受け止める以外に術はないんだと。 目に見えない大きな力に、抗うことはできないんだと、思ってた。 ――それなのに。
『ッ…だ、って……!どっちを、選んだって……絶対、絶対後悔する……!!』
それだけは、わかりきってた。 何かを選ぶってことはつまり、選ばなかった方を“捨てる”ってことだろ。
それを、俺に決めろって、言うのか。
『……すぐに答えを出せとは言わぬ。お前が納得するまで、私は待とう』 『ッ、アルセウス……!』 『人の子よ。お前の心の、真に求めるものを見極めるのだ』 『――――ッ!!』
その日の夜は、全然眠れなかった。
この世界に残るか、元の世界に帰るか。 選ぶ日が来るなんて思いもせず、ただ漠然と『元の世界に帰らなきゃいけない』って、そう思ってた。 そうやって聞き分けの良いふりをして言い聞かせて――自分の本当の気持ちに向き合うことから、逃げていたのかもしれない。
「……実際、それから何日も悩みました。本当にそれで良いのかって、それが正しいのかって、数えきれないほど自問自答した――それで、やっと決心がついたんだ」
どっちを選んでも、俺は必ず後悔する。 それは絶対に変わらないし、変えることなんてできない。
――だったら最後は、より後悔の少ない方を選ぶしかない。
今の、自分の気持ちに、正直になるしかないんだ、って。
「……ねぇ、ノボリさん」
未だに俺にくっついて離れないノボリさんの肩をそっと押す。 それだけで俺より随分大きな身体がビクリと揺れて、俺を映して不安げに揺れた瞳に――だけどそれとは裏腹に、『絶対に離さない』とばかりにまた俺を抱く腕に力を込めたその人に、
自分でも手の付けられない、途方もない愛しさが溢れた。
「……言い忘れてたけどさ、俺、ノボリさんのことが好きです」
あの夜、どうしても言えなかった言葉が、今なら言える。
「他の誰より、ノボリさんが 好き」
それはこんなにも照れくさくて、くすぐったくて
胸を刺す、懐かしいあの世界への罪悪感さえ包み込んでしまうほど――ひたすらに、幸せで。
「――だから、」
『だから、あんたの傍にいることを許してほしい』
そう言うつもりだった唇は、しょっぱい味のするそれで見事に塞がれてしまった。
「も、う、離しません…っ、あなた様が、嫌だと言っても、わたくしは……!」 「っ…うん……うん…っ、離さない、で、」
頬を包み込んだあたたかい掌をぎゅっと握って、何度も頷く。 俺だってもう二度と、この手を離したりなんかしない。
自分の気持ちに嘘をついたりなんかしない。
(それでもこの先、俺はきっと何度も後悔するだろう)
だからその時は、この人に傍にいてほしい。 抱きしめて、キスをして、何度だって教えてほしい。
俺の選択は、間違いじゃなかったって。
ノボリさんに出会うために、生まれてきたんだって。
(――それだけで俺は、誰よりも幸せだって、そう思えるんだから)
「……ところで、二人とも。僕のこと忘れてない?」 「「!!?」」 「〜〜〜もー!いい加減ノボリばっかりズルい!!僕もナマエのこと久しぶりに抱きしめたいっ!ちゅーしたい!!」 「え゛っ、クダリさんそれはさすがに、」 「問答無用!目指すはナマエ!!出発進行っ!!」 「ひぇっ!?ちょっ、!」 「クダリィィィ!!!」
――こうして、トリップしたら女になってた上に変な双子に拾われた俺は、紆余曲折の末にそのお兄さんの方に恋をして、今日も明日も、毎日賑やかに過ごしていることだけは間違いないので、どうか心配しないでください。
ずっと俺を見守ってくれた、大切な人達へ。 今はもう伝えられない、たくさんの感謝と愛情を込めて。
ナマエより。
(13.02.24)
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