朝日が木々の間から顔を出すまであと一時間あるかどうか。 そんな時間になって漸くヴァリアーの屋敷に着いたスクアーロが薄暗いエントランスを抜けようとすると、これから任務なのか、しっかりと隊服を着込んで階段から降りてきたルッスーリアと鉢合わせた。
「あら、おかえりスクアーロ」 「……あぁ」 「あなたランニョに行ってたんでしょう?その様子なら問題なかったようね」 「………まぁな」
何か含みを持たせるようにルッスーリアがうふふふふと不気味に笑う。 サングラスに隠された瞳が嫌な感じに自分を見つめている気がして、スクアーロはそれ以上関わらないようにとそのまま脇を抜けようとしたのだが、続いたルッスーリアの言葉に思わず足を止めた。
「ナマエもついさっき帰ってきたみたいよ」
(――“帰ってきた”?)
「アイツ、どっか出てたのかぁ?」
立ち止まってそう訊ねたスクアーロに、ルッスーリアは「あら?」と驚いた風な顔をして、やれやれとでも言いたげに肩を竦めてみせた。
「知らなかったの?ナマエはね、会議であなたとケンカした次の日の朝から、一人でマルセーユまで行ってたのよ」
わざわざボスに頭下げてまで許可とってね、と続けるルッスーリアを他所に、スクアーロはだからあれから屋敷でナマエを見かけなかったのか、と漸く納得する。 その反応が不満だったのか、ルッスーリアの声が少し怒気の含まれたものに変わった。
「徹夜でやっとランニョのボスについての情報を持ってるファミリーを探し出して、部下のガードも無しに一人で飛び出して――全部あなたのためなのにねぇ」 「!?ぅ゛、お゛ぉい?俺?」 「そうに決まってるじゃない!あんたが予定通り出るとか言い出すからあの子無理して……!一人で行くなんて危ないからよしなさいって言ったのに、あの子ったら申請する時間がないからって聞かなかったのよ!」 「――!!」
流石に驚いて、スクアーロも言葉を飲み込む。まさかナマエがそこまでしてくれていたなんて彼は思いもしなかったのだ。 なぜならあの時――ナマエがスクアーロの部屋を出て行った時、彼女はスクアーロを突き放すように、「勝手にしろ」と、確かにそう言っていたではないか。
「まったく、コレだから男ってのは!…………て、あら?」
ふん、と鼻息荒く腕組みをしてみれば、先ほどまでそこに居たはずのスクアーロの姿が忽然と消えている。 しばらくきょとんとその場を凝視していたルッスーリアは、やがて再び肩を竦めて苦笑いした。
「帰ったら、こんな時間にレディーの部屋を訪ねるもんじゃないわって教えてあげなきゃね」
* * *
「………」
勢いでナマエの部屋まで来たものの、スクアーロは扉の前で頭を抱えたい気分になっていた。 よくよく考えてみれば時間が時間だ。こんな時間にまだ少女と言えど女性の部屋を訊ねていいものか。 ナマエもついさっき帰ったばかりだと言うし、疲れて寝てしまっているかもしれない。 それを起こしてしまうのは流石にスクアーロでも申し訳なく思う、けれど、
どうしても今、ナマエの顔を 見たい。
「――……う゛ぉ゛おい、俺だぁ」
コンコンコン、といつもの彼からは考えられないほどに控えめにノックして、しばらく黙って部屋の中の様子を伺う。 反応はなかった。
(寝てる、のか?)
「………」
微かに肩を落として、それでもどこか諦めきれず、スクアーロの手が気がつけばドアノブに伸ばされている。
カチャ
「!」
驚いたことに鍵は開いていて、ドアが内側に向かって微かに開いた。 なんて無用心な、等と思いつつもスクアーロは許可も無いまま勝手に部屋の中に入り、微かな罪悪感と背徳感に近いものを感じつつ足音を殺して窓際のベッドに近づいた。
薄いカーテンを一枚引いただけの窓から微かに星の灯りが差し込み、ベッドの上の人影を優しく照らしている。 まるで胎児や子猫がするように小さな身体をさらに小さく丸め、すぅすぅと穏やかな寝息を立てているのは当然ながらこの部屋の主であるナマエ。 ベッドの脇まで来たスクアーロは数日ぶりに見る彼女のその顔をまじまじと見つめた。
「――ナマエ、?」
そっと名前を呼んでみても、反応がない。 『泥のように眠る』、日本のそんな言葉があてはまるくらい深い眠りのうちにある少女にスクアーロの胸に申し訳なさが込み上げてきた。 抜け目の無い彼女らしくもなく、部屋の鍵は開けっ放しだったし、余程疲れていたのか、また着替えることなくそのままベッドに横になっている。おまけに部屋に誰かが入ってきたことにも気付かないなんて。
『全部あなたのためなのにねぇ』
不意に過ぎる先ほどのルッスーリアの言葉。 ぎゅっと眉を寄せて、バツが悪そうに口をへの字に曲げながら片膝を床につき、眠るナマエへ静かに右手を伸ばしたスクアーロだったが、その皮製の手袋に微量の血が付いていることに気がつくと、彼は舌打ちをして乱暴に手袋を外した。
「悪かった、なぁ」
呟いて、裸の右手で小さな頭を優しく撫でる。
(……そう言えば、あの日も)
ナマエが初めてヴァリアーに来た夜にも、こうして眠るナマエの頭を撫でてやったのだったと思い出して、スクアーロの顔に苦笑が浮かぶ。 ――が、それは一瞬で引きつった笑みに変わった。
「――ッ、な゛!」
閉じられていたはずの漆黒の瞳が、いつの間にかぼんやりとながらもスクアーロを見つめていた。
慌てて手を引っ込め、それを自分の背中に隠す彼をナマエはぼぅっと見つめて、自然と落ちてくる瞼を必死に押し上げているようだった。
「スク、アー…ロ」 「な、あ…っいや……これは!!」 「……?なんで、ココに」 「!か、ぎ…!!鍵、開いてたぞぉ!無用心だろうがぁ!」 「………そうか、それは…悪かった」 「…(寝ぼけてるなコイツ)」
ゴシゴシと目元を擦るナマエだったが、彼女の意思に反して身体は睡眠を求め続けているのだろう。どうしても落ちてくる瞼にナマエは小さくため息をついて、目を開けようとするのは諦めたようだ。
「任務は、どうだった?」 「……あぁ、上手くいったぜぇ」 「………そうか。怪我は?」 「無ぇよ――……お前の、おかげで、な」
小さく呟いたスクアーロの言葉に、目を閉じたままナマエが笑む。
「そう…私の情報も、少しは役にたっただろう……?」 「……あぁ」
今回の任務、ナマエの情報がなければさすがに一筋縄では行かなかっただろう。 何も知らぬままにシモーネとやりあって、もしも糸に捕まっていたなら、自分の左手に次いで、身体の一部が無くなる事態に陥っていたかもしれない。 それを自覚していたスクアーロは彼女の言葉を否定せず、素直に肯定した。
「――つか、お前一人でマルセーユまで行ってたのかぁ?」 「まぁ、な。仕方ないだろう?情報取引は直接が基本なんだ」 「……一人じゃ危ねぇだろうが」
少々不機嫌な声のスクアーロを確認するように一度目を開けて、ナマエはフッと目を細める。
「ルッスーリアにも、同じことを言われた。心配してくれてるのか?」 「っ、べ…つに俺は……!」
明らかに動揺するスクアーロにナマエがほんの微かにだが笑い声を漏らした。それがまた、子供のような(実際子供なのだが)あどけなさを残していて、毒気を抜かれてしまう。
「大丈夫、だ。これでもそれなりに名の知れた策士だし……私がヴァリアーに入隊したことも、流して、ある」
ヴァリアー相手に喧嘩を売るほど馬鹿なファミリーはそうそういない。だからナマエは一人でも大丈夫だと踏んだ。 それに彼女はもともと負け戦はしないタイプだ。
「……そうか」 「そう、だ」
欠伸をかみ殺したような表情をしたナマエに、そろそろ彼女の意識の限界を感じ。スクアーロは今自分が一番言わなければならない言葉をそっと口にする。 ただそれが若干気恥ずかしくて、つい小声になってしまったのだが。
「――Grazie」
『ありがとう』
ゆっくりと瞳をあけて、少しばかり顔の血行が良くなったスクアーロを確認するとナマエはまた静かに目を閉じる。
十数秒沈黙が続き、もしや眠ってしまったのかとスクアーロが疑い始めた時、依然瞳を閉じたまま顔を上掛けに埋めてしまったナマエが呟くように言った。
「もう一度……頭、撫でてくれないか……?」 「は、ぁ゛?!」
もちろん、そんな事を言われるなんて思っていなかったし、ナマエが眠っている間に頭を撫でていたことがバレているとも思っていなかったスクアーロは動揺して言葉に詰まる。 しかしナマエの方はスクアーロの動揺を気にもせず、既にうとうとと半分夢の世界に戻りながらゆっくりと息を吐いた。
「それで、チャラにしよう……仲直り、だ」 「ッ……仕方ねぇなぁ!」
フン、と一つ鼻を鳴らしてスクアーロの右手が再びナマエへ伸ばされる。乱暴な言い草とは逆に、ナマエの頭を撫でるその仕草は不器用ながらも優い。ナマエは自分でも知らないうちに穏やかな微笑を浮かべ、すっと意識が遠のいていくのに逆らわず、そのままもう一度眠りのうちへ旅立った。 彼女の閉じた瞼の向こうで、スクアーロもまた、穏やかに笑んでいたことに気付かないまま。
(…………ってこれ、いつまで続けりゃいいんだぁ?!)
(→)
(07.06.09)(12.11.14 修正)
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