ふわ、と身体が浮くような感覚にナマエの睫が震える。 細く目を開けて、また落ちてきた瞼を緩く押し上げ、寝返りを打ったナマエはぼんやりしながら自分がベッドにいることを認知した。
「………」
夢をみた、気がする。 大きな掌に頭を撫でられて、優しさに触れた。そんな夢。
「ん……」
出来るものならもう一度その夢に包まれたくて、柔らかな布団の中に顔を埋めた、その時、
『てめぇの手で、人を殺したのは初めてか』
夢の残り香と共に胸を過ぎった声にナマエはハッと息を呑んで覚醒した。 勢い良く上半身を起こせば、眠りに落ちる前の出来事が次々とフラッシュバックされていく。
「……ッ、」
感情に流された自らの失態を思い出して歯噛みし、思い切り顔を顰める。 けれど洗面所で意識を失った筈の自分がベッドに寝かされていた事実に気がつくと、彼女の表情には戸惑いが浮かび、掛けられていた布団をジッと凝視した。
(あの男、が……?)
夢の中の掌の主を考えて、漆黒の瞳は微かに揺れた。
* * *
「…………」
広い屋敷の長い長い廊下をスクアーロは彼らしくもなくトロトロと歩いていた。 不意に立ち止まったかと思えば銀髪を靡かせて頭を振り、また歩き出したかと思えば唐突に踵を返す。 傍から見れば明らかに異常な彼の行動だが、本人は(珍しく)至って真面目に悩んでいるのだ。
(う゛お゛ぉい……なんで俺が…っ)
スクアーロの歩みがピタリと止まる。 整った眉をぐっと眉間に寄せて小さくため息をつく彼の悩みとは、昨晩(正確に言うと今日なのだが)出会った少女のことだった。
気を失ったナマエをベッドに寝かせ、その身体に布団を掛けてやってから自らも睡眠をとるために自室へと戻ったスクアーロだったが、なぜかナマエのことが頭から離れず、結局寝付いたのは空が白んできた頃。 そして午後を過ぎてから目覚めた今でさえスクアーロは頭からナマエの姿を消すことが出来ず、あげく彼の足は知ら自然と彼女の部屋へと進路を取っている始末。
(あんなガキ、放っときゃいいだろぉがぁ……!)
何度もそう思って踵を返すのだが、その度に脳裏に浮かぶのは震える小さな背中。 頬に光っていた 涙の跡。
「……あ゛ぁ゛あ゛!!クソがぁ!!」
そうしてスクアーロは本日何度目になるか解らない方向転換をする。 しかし今回は、勢い良く振り向いた拍子に己の視界を遮る銀髪の向こうに彼の思考を占めていたその少女の姿を見つけ、スクアーロの身体はビクリと跳ねて固まった。
(な゛……!)
不意打ちとも言えるナマエの登場に動揺が隠せない。硬直したまま目を見開いてナマエを見つめるスクアーロにこちらに向かって歩いていたナマエも気がつき、視線が交わる。 彼女のもまた、一瞬だったが確かに瞠目し、だがスクアーロのように硬直することはなく、自然な動作で視線を逸らすとそのまま歩みを進め、軽く会釈して固まっているスクアーロの脇を抜けた。
「?!ちょ、ま…待てぇ!!(無視?!普通無視するかぁ?!)」
が、通り抜けた瞬間に半身を捻ったスクアーロに腕を掴まれ、ナマエはいかにもしぶしぶといった体で立ち止まった。
「………何か御用でしょうか?」 「(あ゛、なんだコイツ怒ってんのかぁ……?)い、や……」 「用事が無いのでしたら離していただけませんか」 「わ、悪ぃ…」
あからさまに機嫌の悪いナマエにスクアーロは思わず気後れして彼女の腕を掴んだままだった手を離す。 ろくにスクアーロと視線を合わせようともせず「では」と踵を返され、その背が向けられた瞬間、スクアーロはなぜか必死になって言葉を探していた。
「ッ…!体調は、どうだぁ……?!」
ピクッと微かに肩を跳ねさせて、ナマエが再び立ち止まる。 振り向いたその顔は心なしか眉を顰めて更に機嫌が悪そうだ。
「――ご迷惑をおかけしてしまい誠に申し訳ありませんでした。貴方様にお手間を掛けさせてしまったことと、数々の非礼、深く反省しております。今後はこの様なことがないように努めますので、広いお心でお許しいただければ幸いです」 「………ぉ、お゛ぅ」
セリフと表情が見事に一致していない。 だがスクアーロには何となくナマエの気持ちが理解できた。
見るからにプライドの高いこの少女はスクアーロに対して怒っているわけではなく、自分の失態を曝してしまったことを恥じているだけなのだ、と。
スクアーロが思わず吐いた安堵の息に気がつき、ナマエは一瞬怪訝な顔をしたが、数秒思案するように視線を落として、やがてくるりと身体ごとスクアーロに振り向く。 先ほどまでずっと逸らしていた視線を今度は改めて真っ直ぐに向けられ、何事かと思わず身構えたスクアーロに、不機嫌さを消し去った表情のナマエは淡々と問いかけた。
「貴方様が、ベッドに運んでくださったのですか?」 「………他に誰がいるってんだぁ?」
素直にそうだと言ってしまうのは何となく恥ずかしくて、スクアーロは視線を逸らし曖昧に答える。
「そう、ですね…貴方様しかいません」 「………」
チラリとスクアーロが逸らしていた視線を戻すと、ナマエも俯いていた顔を上げた。 ブラックオニキスの様な瞳を宿す眦、を微かに緩ませて。
「ありがとう、ございます」
何か大切なものを抱きしめるかの如く、一度区切って、その言葉を噛み締めるように言ったナマエの声はどこまでも柔らかく。スクアーロはその時初めて彼女の心からの言葉を聴いた気がした。
「――スペルビ・スクアーロ、だ」 「……?」 「俺は“貴方様”なんて名前じゃねぇ。あと、そのバカ丁寧な口調も止めろ」 「……コレは癖ですから」 「嘘ついてんじゃねぇぞぉ」 「………」
きゅっと眉根を寄せたナマエはどうやら昨晩のやりとりを思い出したらしく、ニヤニヤと意地悪く笑うスクアーロを恨みがましく見つめてため息をつく。 不本意ながら、この男には既に本性を知られてしまっているのだ。
「――わかった。お前の言うとおりに、」 「ナマエっ!見つけたわー!!」
ナマエの声を遮ってしまう音量で甲高い男の声が廊下に響き、重量を感じさせる大きな足音が近づいてきた。 思わず「ゲ」と漏らしたスクアーロが首だけ振り向けば、やはりこちらに向かってきているのはサングラスとモヒカンが(本人曰く)チャームポイントなルッスーリア。
「もうっ!急にいなくなっちゃって心配したじゃない!」
余程熱心に探し回っていたのだろう。少し息を乱しながらやってきたルッスーリアはナマエの額を人差し指で「えいっ」と軽く弾く。 その光景にスクアーロは背筋にゾワゾワとしたものを感じたのだが、ナマエの方は対して気にした風もなく、ただ弾かれた額を片手で押さえてへこりと頭を下げた。
「すみませんでした。あの……お邪魔をしては悪いと思いまして」 「あらぁ?やだ、ナマエったら恥ずかしくなっちゃったのね。あれくらい挨拶よぉ?」 「(……コイツ、ナマエの前で何やってたんだ)」
色欲を名に持つこの男の行動を想像してスクアーロは思い切り嫌な顔をする。 そんなスクアーロの存在をまるきり無視して「うふふ、初心で可愛いわねー」等と猫なで声で笑うルッスーリアが無抵抗のナマエの頭をナデナデと猫にするように撫で始め、どう言う訳か苛立ちを覚えたスクアーロは思わずルッスーリアの手を叩いてナマエから遠ざけていた。
「……あら、いたのねスクアーロ」 「はじめっからいただろーがぁ!」 「やだ、そんなにすぐに怒らないで?恐いじゃないの、ねぇナマエ?」 「………えぇ、まぁ」
恐がっているとはちっとも思えない声で言って、またナマエを構おうとするルッスーリアに唯でさえ鋭いスクアーロの目がどんどん釣りあがっていく。 彼から滲み出てくる怒りのオーラに目敏く気付いたルッスーリアは一瞬驚いたような表情をして、しかしすぐにニンマリと笑った。
「そう言えばナマエはスクアーロに連れてこられたのよね?」 「?はい」 「うふふ、そうなのー」 「……何だぁ、何が言いたい(きもお゛ぉい!そんな目で見てんじゃねぇぞぉ!)」
実際はサングラスに阻まれてルッスーリアの目は見えないのだが、なんとなくこちらを意味深に見ていることは解る。 たじろぐスクアーロにルッスーリアはまた「うふふふふ」と上機嫌に笑い、わざとらしく音を立てて掌を合わせた。
「いっけなぁい!私急用があったんだわ!すぐに行かなくちゃ!!――てことでスクアーロ、私ボスからナマエに屋敷内を案内するように言われてるから、代わりに貴方がエスコートしてあげてね。頼んだわよーっ」
スクアーロに反論する隙を与えず一息に言って、くるぅりと二人に背を向けたルッスーリアが小指を立てながら華麗に走り去る。
「――……は?ちょ、待…!」
展開に付いて行けず、呆然とその背を見送っていたスクアーロがやっとルッスーリアの言葉を理解した時には、既に廊下にはスクアーロとナマエの二人が残されているだけだった。
「………何と言うか、おもしろい人だな」 「………キモいだけだろぉが」 「いや、私はそういうのに偏見はないぞ」 「……そうかぁ」
ふぅ、と小さくため息を付いて傍らのナマエに視線を移すと彼女の瞳はしっかりと自分を見つめていて、思わず息を呑む。
「案内、頼めるか?」 「……仕方ねぇからなぁ」
腕を組んでフイと顔を背けたスクアーロの頬は微かに色付いていて、それが彼なりの照れ隠しなのだと気がついたナマエは小さく微笑った。
「よろしくな、スクアーロ」
「!」
子供の様な甘さを残す少女の声が初めてスクアーロの名を呼んだ。 その時のくすぐったい様な、むず痒い感情を彼は今でも覚えている。
スクアーロという名前が、初めて特別で大切なモノに思えた瞬間だった。
(→)
(07.04.22)(12.10.14 修正)
|