「ここがお前の部屋だ……好きに使え」 「案内、ありがとうございました」
レヴィ・ア・タンと名乗る大男に案内された部屋は意外とこぢんまりとしていて、広さよりも機能性に重きを置くナマエにとっては丁度良い大きさだった。
時刻は既に深夜2時を過ぎている。 予定していたこととは言え疲れを感じていないはずもなく、部屋の中で一人きりになったナマエは漸く肩の力を抜き、ふらふらと頼りない足取りで窓辺のベッドまで歩くと倒れるようにシーツへ沈んだ。
(シャワー、は……目が覚めてから、にしよう)
返り血を浴びたわけではないが、血の匂いが移っている。 それでも一度ベッドに横になってしまえばもう身を起こすのが億劫で、ナマエは身体が睡眠を求めるのに逆らわず、そのまま目を閉じて意識を手放した。
* * *
「入隊させただぁ?!」
目をギョッと見開いて大声を上げたスクアーロにザンザスは鋭い一瞥と「うるせぇよ」とお決まりの台詞を投げかけた。
ザンザスに下がれと言われ一度自室に戻ったスクアーロだったが、シャワーを浴びた後、やはりナマエのことが気になり 再びザンザスの部屋へ戻ってきてみればそこに既にナマエの姿は無く。 どうなったかのかと訊ねてみたところ彼から返ってきたのは
『ヴァリアーに入隊させた』
の一言だけ。傍から見ればスクアーロが納得できないのも頷けることだった。
「あんなガキ信用できるかよ!」 「それは俺が決めることだ。第一、アイツを連れて来たのはてめぇだろうが」 「っ……!」
それを言われてしまえばスクアーロも弱い。 だが言い訳させてもらうならば、スクアーロはナマエがザンザスに会うその目的を知らされてはいなかったのだ。 今思えばボスへの面会を求められた時点でその目的を明らかにしておくべきだったのだろうが、生憎スクアーロはそこまで気にしていなかった。
「言いたいことはそれだけか」
チラリとも視線をスクアーロに寄越すことなく言う態度は言外に『用が済んだのならさっさと出て行け』と言っている。 腹立たしさに暴れだしそうな拳をギュッと握り締めて堪え、スクアーロは大きく髪を靡かせて踵を返した。
「……俺は認めねぇからなぁ」
退出際に背を向けたままそう呟いたスクアーロがドアを閉めたのを見計らい、ザンザスはふんと鼻で息を付いて手にしていた書類をデスクに投げ出す。 しかしその顔は新しい玩具を見つけた――と言うよりも、むしろ新しい獲物を見つけた捕食者のような、どこか歪な笑みが浮かんでいた。
* * *
(ったく、どーにかしてるぜあの野郎は……!)
薄暗い廊下を荒々しい足音で歩くスクアーロは胸中でザンザスを罵っていた。 ザンザスの言う通り、自分で連れて来ておいてなんだが、忠義を尽くすスクアーロにとって、他ならぬ自らのファミリーを利用したナマエは信用ならない。
(――しかもあのガキ、自分で殺ったファミリーを見ても顔色一つ変えやしねぇ)
殺しに罪悪感や同情は無用。 しかしナマエの場合その対象は少なからず同じ時を過ごしたはずのファミリーだ。 彼女の年齢も考えれば、あの落ち着きぶりは逆に異常だと言える。
(あ゛ー!クソッ!!)
苛立ちが増すにつれてスクアーロの歩みも自然と速くなる。 しかし角を曲がろうとしたところでその先から人影がこちらに向かってくる気配に気がつき、スクアーロは反射的に嫌な顔全開でその人物を睨んだ。
「レヴィかぁ」 「む。スクアーロ……こんな時間に何をしている」
廊下のランプに照らされ、ヌッとその身を現した人影の正体はレヴィだった。 スクアーロもレヴィも互いに良い感情を持っているとは言い難い。 特にレヴィの方はザンザスの一番の側近とも呼べるスクアーロを明らかに敵対視しており、彼も彼でスクアーロを見るなり思い切り顔を顰めた。
「――てめぇこそ何してんだぁ」
喧嘩腰に言い返したスクアーロにレヴィは一瞬勝ち誇ったかのような笑みを浮かべる。 その様子が余りにも不気味で、スクアーロが思わず目を逸らしたくなったのは余談だ。
「俺はボスに新人を部屋に連れて行くよう言いつけられた。それが終わったから屋敷内を見回っていたんだ」 「!」
察するにザンザスの命令を受けた、ということを自慢したかったのだろう。 だがスクアーロが反応したのはそこではない。
「う゛お゛ぉい!てめぇ今”新人”って言ったなぁ?」 「?」
「――そいつの部屋を教えろ」
* * *
(……ここか)
スクアーロが使用している部屋の一階下。角部屋のその扉の前でスクアーロは部屋の中の気配を探った。 微かに、乱れている。 耳の良いスクアーロには小さな呻きに似た苦しげな声まで聞き取れ、元々顰めていた顔を更に顰めた。
「う゛お゛ぉい!!開けろ!」
ドンドン、と真夜中にそぐわない音量でドアを叩く。 そうすると室内の気が一瞬で大きく乱れた。 ノック(と言うには余りに乱暴すぎたが)を止めて中からの反応を待てば、数秒後に部屋の中の人物が動き出すのがわかり、あの軽い足音が扉に近づいてきた。
「……あぁ、貴方でしたか」
カチャッと鍵が外れる音に次いで扉が開き、その隙間から見えたナマエは着替えも済ませず横になっていたらしい。 ただ、終始無表情だったはずのその顔に今は生気が無く、額にうっすら汗をかき髪が幾筋か頬に張り付いていたことはスクアーロを少なからず驚かせた。
「――てめぇに話がある」 「……申し訳…ありませんが、今は」
ナマエの呼吸は乱れていた。明らかに様子がおかしい。 視線を合わせようとせず俯くナマエの肩が細かく震え、スクアーロは思わずその肩に手を伸ばしかける。
「お前、どうし、」 「ッ…あと、で……こちらから出向きます、話、は、その時…」 「〜〜っだから!どうしたって訊いてんだろ!」
「ぅ、!」
ガッと強引に肩を掴んで覗き込んだナマエの顔は異様に青白かった。
(――そう、だ)
初めて会ったその時から既にこの少女の頬は青白かったと記憶していたが、それは月明かりの関係だと思い込んでいた。 けれど間近で見たその顔色は明らかに度を越している。
「ぐ、ぅ…ッ!!」 「な、!!」
スクアーロの手を弾くと同時に後ろへよろめいたナマエが呻き、苦しげに身体を折り曲げて口元を押さえた。 彼女の身体に何が起こっているのかスクアーロは咄嗟にも理解して、有無を言わせぬ速さで部屋に入りナマエを抱き上げる。
「アホがぁ!堪えようとすんな!!」
腕の中でぎゅっと目を瞑り、更に身を丸めるナマエに気付けばスクアーロは怒鳴っていた。 彼女を抱えたまま素早く部屋付きの洗面所に向かい、なるべく振動を感じさせないように床に降ろしてやる。 気を使ってスクアーロが洗面所から出て仕切りの扉を閉めると水道から出る激しい水音が静かだった部屋に響いた。
* * *
部屋の時計の秒針が3度回った頃、キュッと蛇口を捻る高い音が鳴るのとほぼ同時に水音が止む。 しかしいくら待てどもナマエが洗面所から出てくることは無く、痺れを切らしたスクアーロはそれがデリカシーに欠ける行動だと知りつつも仕切り扉を開けた。
「………」
電気もついていない暗がりの中、ナマエは床に座り込むことはしていなかったが、洗面台に両手を付いて俯いている。 夜目の利くスクアーロの瞳には、彼に向けられた背中がどこまでも小さく、そして儚く映って、かけるはずだった言葉を思わず飲み込んでしまった。
「――ご迷惑、おかけして…すみませんでした」
まるで搾り出すように震えた声の、なんと頼りないことか。 知らずの内に一歩ナマエへ近づいていたスクアーロは彼女の身体が微かに震えていることに気がついた。
「てめぇの手で、人を殺したのは初めてか」 「ッ……!!」
ビクンッ、とナマエの肩があからさまに跳ねた。 その反応にスクアーロはやはりと目を細める。
初めて人間を殺した者が、ナマエと同じような症状を起こすのは珍しいことではない。 スクアーロ自身もそうであったかは別だが、殺した人間の顔、血の香りを忘れることができず、悪夢に魘されたり、嘔吐を催す者は多い。 ましてそれが未成年の少女ともなれば、その方が正常な反応だろう。
――つまり、ナマエは異常でも特別なわけではなく、ただその内面をひた隠しすることに慣れただけの――、一人の少女だったのだ。
「……殺る度そんなんじゃ、ヴァリアーではやってけねぇぞ」
スクアーロなりの優しさだったのかもしれない。 『今ならまだ引き返せるのではないか』と、ナマエのような少女が殺人に慣れることを必ずしも良しとは思わないスクアーロが、敢えて冷たい言葉でもって投げかけた思いやり。 だが、
「煩い!!!」
その言葉は今の精神的に弱っているナマエにとって鋭い棘でしかない。 被っていた無感情の仮面を脱ぎ捨てたナマエは声の限りに叫び、その悲痛な響きはスクアーロを酷く驚かせた。
「煩いッ!!解ったような…解ったような口を利くな!!私、は……!」
洗面台で水滴が跳ねる。 それは蛇口から零れたものではなく、ナマエの頬を伝った透明な涙だった。
「私は…っ、アイツを赦さない!!私が、この手で息の根を止めてやる!その為なら……!!」
“その為なら、例え修羅の道であろうとも”
今でも鮮やかに思い出せる憎い男の顔を思い出し、ナマエは唇を強くかみ締めた。
【ギー・ギルブレイズ】
その男はナマエの父と母が所属するファミリー”ロゴス”で幹部の一端を担っていた。 ナマエ自身もギーとは何度も面識があり、彼女が幼かったこともあり、一緒に遊んでもらった記憶さえある。 少々臆病なところはあったが、ナマエは彼が嫌いではなかった。
しかしナマエが6歳の誕生日を迎えた後のある日。 ギーはあろう事か自らの失態をナマエの父へなすり付け、ミョウジ家に裏切り者のレッテルを貼った後粛正と称してナマエの両親を殺したのだ。 ――まだ幼いナマエの目の前で。
粛正の予定ではナマエも共に始末されるはずだった。 両親を奪うのだから、子供一人生かされてもそれは死に等しい。 マフィア内ではそうすることが子供に対するせめてもの情けであると思われていた。
だが、ギーにナマエは殺せなかった。 それが最後の良心だったのか、それとも彼の臆病さゆえの行動だったのかはわからない。
『――消えろ』
両親の命を奪った拳銃片手にナマエに背を向けたギーが、ただそれだけ言って去っていったその姿を、ナマエはきっと忘れない。 その瞬間に生まれた身を焦がすような悲しみと憎悪も、生涯忘れないだろう。 事実ナマエは教会に拾われ、ハウスで過ごした約10年間、ギーの顔を思い出さない夜は一度としてなかった。
「赦さ、ない……!アイツは…ッ!!」
全てを奪った、あの男だけは。 あの男に復讐することが、私のただ一つの願い。
「だ、から…こんなの、コレっきり……コレで、終わり、だ……!」
自分を信用していたファミリーを裏切り利用する。 それが憎い男がしたのと同じ汚い手だとは知っていても、
堕ちる覚悟は、疾うの昔に。
ふ、と不意に身体が浮上するような感覚に意識が遠のく。 ナマエの膝がガクッと折れたことに気がつき咄嗟にスクアーロが抱きとめると、彼女は頬に幾筋もの涙の跡を残して既に意識を飛ばしていた。
「………ったく」
まだ健康そのものとは言い難いが、青白かった頬がその本来の色味を取り戻しかけていることがわかり、スクアーロは自分でも知らぬうちにほっと息を吐いている。 背中に回した腕はそのままに、膝の裏にもう片方の腕を回して連れてきた時と同様にナマエを抱え上げると、彼はそのまま洗面所を出てベッドの上にナマエの身体を横たえた。
窓から差し込む微かな光に照らされ涙に光る頬をじっと見つめるその瞳は、どこか後悔しているようにも感じられる。
ザンザスの中に見るものに良く似た怒り。 しかしそこに秘められた非なる悲しみに初めて触れて、スクアーロは戸惑っていた。
(連れて来るべきじゃ、なかったかぁ……?)
眠る少女は答えない。 激情に流され泣き叫んでいたその姿を思い起こし、スクアーロの表情は自然と渋いものになる。
ナマエの叫びは要点を得ないものばかりで、スクアーロには彼女が『アイツ』と呼んだ人物を酷く憎んでいることしかわからなかったが、こんな少女が裏切り者の烙印を押され、人殺しになることさえ厭わなくなる程の理由があるのだろう。 そこまで考えてスクアーロはナマエを憐れに思った。
あんなに小さく、儚げな背中を見てしまい、純粋に、可哀相だと感じずにはいられなかった。
「……――バカだな、俺も」
部屋を訪ねたりするべきではなかった。 訪ねなければ、こんな感情を抱くことはなかったのに。 そうすればもしも命令があった時、何のためらいも無くナマエを斬ることだってできただろうに。 今の自分にそれができるとは到底思えない。
真っ白なシーツに広がるナマエの黒髪を、スクアーロは無性に優しく撫でてやりたい気分だった。 せめて夢の中では泣いていなければ良いと、本気でそんなことを願った。
(→)
(07.04.10)(12.09.22 修正)
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